戦後俳壇史と俳句史との架橋、そして切断 川名 大

http://gendaihaiku.blogspot.com/2011/07/35.html 【戦後俳壇史と俳句史との架橋、そして切断 川名 大】  より

【昭和30年代】

俳句でも前衛俳句が起こりました。前衛俳句は、金子兜太が長崎から神戸に転勤し、赤尾兜子、堀葦男、林田紀音夫など神戸の革新的俳人との交流から生まれました。金子さんの「造型俳句」理論はその帰結のようなもので、必然的と思います。社会性俳句はイデオロギィだけが露出していて、表現方法が不十分という批判を受けていました。俳人は言葉、自分の意識を点検しながら俳句を作っていますが、端的に言えば、そこをもっと厳密にしていこうとするものです。表現方法としては暗喩を使って内面意識、個人と組織の軋轢を表現しようとしました。

さて、この時代の句を見てみますが、組織/個人の二項対立のなかで話してみます。

 見えない階段見える肝臓印鑑滲む  堀 葦男

組織を詠んでいる句ですが、堀葦男さんは、最初から読みたい意味内容を用意していて、それを暗喩で、別の表現で「見立て」ていく傾向にあります。サラリーマンの昇進などの上昇志向を暗示している、と読めます。

 ぶつかる黒を押し分け押し来るあらゆる黒  堀 葦男

この句も、大きな駅のラッシュアワーの、黒い服、オーバーなど来た群衆のことと読めます。

 えつえつ泣く木のテーブルに生えた乳房  島津 亮

組織に対してこの句は個人のことを句にしています。よく分からない句とも言われましたが、謎が直ぐ解ける句だと思います。私見では女性が悲しいときテーブルに伏して泣いている、木のテーブルに乳房が押し付けられている、そういう景が用意されていて、暗喩にならない。コードになっている句です。

 妻へ帰るまで木枯の四面楚歌  鷹羽狩行

木枯に吹かれている自分の景が用意されていて、それを面白可笑しく「四面楚歌」という紋切り型の言葉で見立てる。鷹羽さんはこういう作り方から脱却できない、こういう傾向の句は俳句史のなかでは削っていくことになります。

季語の取り合わせは駄目だ、と山本(健吉)さんは言っています。松尾芭蕉も「黒双紙」で言っています。季語を取りあわせると古び易い。これは季題趣味のことですね。

次ぎに「二物衝撃/切れの重層」という観点から句を見てみます。二物衝撃は季語の取りあわせではありません。異質なものをぶつけて、異質なイメージ間をアナロジィで結び付けることです。以下の二句は異質なものが結び付けられていて30年代の成功した句と思います。

 広場に裂けた木塩のまわりに塩軋み  赤尾兜子

「広場に裂けた木」と別個の「塩」をいう異質なものが結び付けられ、内面のひりひりする痛み、軋轢を表現していると思います。

 メタフィジカ麦刈るひがし日を落とし  加藤郁乎

この句では極端に異質なものを結び付けられています。「メタフィジカ(形而上学)」という外来語をもってきます。日は西に沈むのですが、敢えて「麦刈る」東の方に沈む、とひっくり返す、メタフィジカの論理性では解けない非論理をぶつけています。

俳句の切れにもう少し細かい切れを作っていったのは高柳重信と林田紀音夫です。

 

 黄の青の赤の雨傘誰から死ぬ 林田紀音夫

 

 明日は

 胸に咲く

 血の華の

 よひどれし

 蕾かな  

 高柳重信

【昭和40年代】

この時代は過激な、若い世代の政治運動がありました。昭和43年に東京大学医学部の助手の処遇が不当であるということで、大学改革を目指しての新左翼運動が盛り上がり、全国的に波及しました。それがさらに進んで、より革命を求めるということで、赤軍派などの「浅間山荘事件」が起こりました。40年代後期の経済的な面では田中内閣の列島改造政策により、道路建設などが推し進められましたが、環境汚染も生じました。団地が建設され、電化生活など消費革命が進みました。

しかしこの時代には社会情勢を反映した作品があまり見られませんでした。戻って30年代の安保闘争のときも、短歌では岡井隆、岸上大作などが安保闘争にかかわる作品を書きましたが、俳句のほうでは直接的に社会運動に連帯した作品がありませんでした。俳人の意識の問題、形式の問題によるのでしょう。40年代も俳句の分野では社会情勢に係わる作品はありませんでした。短歌では道浦母都子、福島泰樹などが社会運動に連帯した作品を書きました。

このとき俳壇はどうであったか。やはり同質化/差別化が進んでいきます。角川の「俳句」という雑誌と俳句研究社の「俳句研究」が対立します。俳人協会と現代俳句協会は世代と季語をめぐって対立します。その結果「俳句」と「俳人協会」、「俳句研究」と「現代俳句協会」というふうに結びつきます。このように俳人の棲み分けが生まれます。私、川名大はほとんど「俳句」には書かない、原稿依頼が来ない。もっぱら「俳句研究」に書く。勿論俳人により、その逆もあるわけです。そして昭和世代(一桁、二桁生まれの世代)が台頭してきます。龍太・澄雄時代と言われたり、金子兜太さんの「山上白馬」の句をめぐって論争が起こりました、そういう時代です。

さてここで私は「時間/空間」の観点から句を取り上げたいと思います。

 餅焼くやちちははの闇そこにあり  森 澄雄

過去から現代までの時間性を意識したのが森澄雄であります。父、祖父・・・と先祖の長い時間を取り込んでいこうとします。

 秋の淡海かすみ誰にもたよりせず  森 澄雄

近江の歴史的時間、芭蕉の琵琶湖の句「行春を近江の人とおしみける」も含んだ時間のなかにあろうかと思います。一方、空間を中心にして詠むのが飯田龍太や鷹羽狩行さんです。

 かたつむり甲斐も信濃も雨のなか  飯田龍太

大きな景、空間のゆたかな拡がりを詠みます。

森澄雄の時間性、言葉のなかの時間に対して阿部完市は「現瞬間」という言い方をします。人間の理性で捉える前の直感、直覚次元での時間を捉えようとします。新しい書き方と思います。

 萌えるから今ゆるされておかないと 阿部完市

LSDを注射して、頭の中に湧いてきた句です。「現瞬間」がよく出た句と思います。

伝統的に観念を書くのはよろしくない、というのがありますが、眼に見えない観念の世界に踏み込んだ句を取り上げます。永田耕衣とか、彼に師事した河原枇杷男がそうです。

 身の中の真つ暗がりの蛍狩り  河原枇杷男

河原は40年代に『烏宙論』という句集で、新しいこの分野を書きました。

そもそも戦後俳句という概念規定がどこまで当てはまるかを考えてみます。私は昭和20年、30年代に金子さんたちの大正後期生まれの人たちの俳句を戦後俳句と規定します。したがって昭和40年代の、昭和生まれの人たちの個人的な、それぞれの嗜好で作っていた句は戦後俳句の概念に入らないと考えます。

 終戦忌杉山に夜のざんざ降り 森 澄雄

これも「終戦忌」という季語の情趣に沿う季題趣味的な作り方ですが、ここには作者の人生の軌跡への思いが重ねられています。人生と俳句を一枚に重ねようとする作り方は戦後俳句で続けられていました。こういう作り方から切れた俳句が昭和40年代の昭和世代の人たちの作り方だと思います。したがって、「終戦忌」のこの句は戦後俳句にピリオドを打つ俳句と思います。

繰り返すようですが、結論にしたいと思います。俳句作品は様々な要素と絡み合いながら(今回の震災もそうですが)作られていきます。しかし、そういう要素といったん切り離して、白紙に戻して、作品と直に向き合って、本当に言葉の力が、新風が確立されているか検証する努力をしていこうと思っています。同質化/差別化のなかで破れていった人、俳壇から名前が消えた人、注目されなくなった人がいます。そういう人の中で優れた作品を残した人たちを拾い上げていきたいという、ルサンチマン、弱者の怨念ですね、それを晴らしてやりたいと、俳句史家として、そう思っているのであります。