https://moon.ap.teacup.com/tajima/93.html 【「造型論批判 ~相対性俳句論(断片)」 俳句】 より
夕べ、なんだか眠れなかったので『「俳句百年」の問い』(夏石番矢編・講談社学術文庫)の、『「創る自分」のダイナミズム』(金子兜太)を再読した。
いわゆる「造型論」というやつ。
以前読んだときは、言葉の定義がよく理解できず、僕の弱い頭ではほとんど内容を理解できなかったのですが、今回はいろいろと思うところがあったので、かなり理解できた。
この論には概ね、賛成。でも、以下の点で「造型論」には欠陥があるように思う。(以下、青字は『「創る自分」のダイナミズム』からの引用)
①文中、要約しているところのその一、
まず俳句を作るとき感覚が先行します。
という点。ここでいうところの「感覚」にいたるプロセスが論じられていない。(僕は、このプロセスとして、「世界を相対化し、認識する作業」があると考える)
というよりも、認識するフェーズと、創るフェーズとが、ごちゃまぜに論じられているため、混乱しているように感じた。そのニで述べられている「感覚と意識」がこれにあたるのかも知れないが、その一で「感覚が先行」と断言してしまっているのは、このあたりの整理がついていないからではないかと感じた。
②要約のその五、
イメージは従って「暗喩(メタフォア)」を求めることが大半となります。
という点。「暗喩」になるとは限らない。論中、兜太自身が例として挙げている
銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく 金子兜太
という句自体が直喩であり、兜太は
僕の前掲句で「烏賊のごとく」は「ごとく」だから直喩ですが、この句のイメージは暗喩だと確信します。「深海魚」などいえば余りに直接すぎて、全体も直喩的になってしまいます。この辺の差違を諒解願いたいと思います。
と弁解しているが、言いたいことはわからないではないものの、ややご都合主義的で苦しい。
梅咲いて庭中に青鮫が来ている 金子兜太
のような句がこの時点で例として挙げられていれば、もっとすんなりと論が進んだかも知れない。(ちなみに「青鮫」の句は昭和53年頃の作品であり、『「創る自分」のダイナミズム』はそれよりずっと以前の、昭和32年に書かれているため、この時点でこの作品は存在しなかった。)
いずれにせよ、かならずしもイメージが暗喩になるとは限らない。「造型論」を離れれば、むしろ比喩になるとも限らないと考える。
③論中、堀葦男とのやりとりの中で「コップ」の話題が論じられているが、そこで
素材偏重の創り方(いわゆる自然主義的)や、観念露出症的な作り方(観念主義的といえる)に対する反省
ということを述べている。これには大いに賛成であるが、「創る自分」の「客観化の操作」による作業の中で、「素材」が作品の中に描かれないことがある、という点が説明不足のような気がする。これもまた、(Ⅰ)認識するフェーズと(Ⅱ)創るフェーズが未分化であるために生じた理論不足の点ではないか。コップという素材(言葉)が(I)において認識のために利用されたからといって、(Ⅱ)創るフェーズで創る素材として利用されるとは限らない。
(たとえば、ここに「林檎」と「西瓜」があるとする。(Ⅰ)のフェーズにおいて、「林檎には、西瓜のような縞模様はない」と認識したとする。これが(Ⅱ)のフェーズでは「縞のない林檎」と表現された場合、素材としての「西瓜」は作品の中に描かれないことになる。)
この説明不足から②の「暗喩」に論が飛躍するため、全体がわかりにくくなっている。
④「造型論」では、「切れや季語の役割」、「写生」、「ニ物衝撃」、「一句一章」などといった俳句独自のキーワードについて説明ができない。むしろ、そうしたものとは別次元の論となっている。
これは、上述の(Ⅰ)認識するフェーズと(Ⅱ)創るフェーズという観点から言えば、この「造型論」が(Ⅱ)のプロセスを論じた「創るための方法論」であるということであり、「写生」や「ニ物衝撃」は(Ⅰ)の「認識のための方法論」に分類されるからではないかと考える。(「切れや季語の役割」については、そもそも「造型論」の主題ではないため論じられていない?)
と、まあ足りない頭で読んだ感想を述べましたが、あくまでも『「創る自分」のダイナミズム』のみを読んだ感想なので、金子兜太の考えをすべて理解しているわけでもないので、ごめんなさい。(しかも、この論文は昭和32年時点のものであり、当然、それからいろいろと進化しているに違いないと思います。)
少なくとも、昭和32年という早い時期にこうした方法論を発表したことはすごいと思いました。先駆者としての金子兜太の偉大さなのですね。
ついでに言えば、この論はあくまでも「創るための方法論」であり、この前段として「認識の方法」ということが必ず問題にされるべきだと思います。
『「創る自分」のダイナミズム』では「認識の方法」について明確には論じていませんが、兜太自身の作品には、それまでに兜太自身が身に着けた「認識」のための技術の裏支えがあることは想像に難くありません。
逆の言い方をすれば俳句作者が「認識」する技術なくして、方法論としての「造型」のみを駆使しただけでは、論中にもあるように
「超現実」というモチーフの求め方は、それ自体一向にかまわむことではあっても、それが詩の方法のすべてに立ち勝ると考えることは少し甘いと思われるのです。
という状態に陥ることになるのかも知れません。(具体的には、ひたすら意味不明な句、ひたすら比喩の句、が濫作されることとなるでしょう)
(参考)「俳句」百年の問い 講談社学術文庫 夏石 番矢編
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