はじめての夏目漱石・俳句  ~熊本時代は俳人だった~

https://blog.goo.ne.jp/mitunori_n/e/2ce862e04041736820a334f7a9fb8e6f  【はじめての夏目漱石・俳句 ~熊本時代は俳人だった~】  永田 満徳  より

一 熊本時代の漱石

1 学制確立期の教育者

授業は厳格で、テキスト一冊全部やり終えるので進度が速く、今日重視されている実用英語にも理解があり、入試問題に導入する見識を持っていた。よんどころない理由がない限り、欠勤はせず、週24時間の授業を受け持つほかに、明治29年9月からは生徒の要望に応えて午前7時より課外講義を行っている。漕艇部の二代目部長にも就任している。福岡・佐賀の中学校の視察を命ぜられ、佐賀県尋常中学校では急遽校長に講演を請われ、高等学校の教授の立場で中学生に語りかけている。この学校視察などは「視学官」的な役割を担っていたと思われる。第七回目の開校紀念式では職員総代として祝詞を読んでいることや、校務においては管理職の職務に属する人事異動に深く関わり、不適格教師の追放に関与するなど、教師陣の強化に心を砕いている。明治33年4月には教頭心得になっていることからも窺えるように、五高職員のなかで中枢の立場に立っていたといえる。

2 新派俳句の俳句創作者

明治28年8月 新派俳句の唱道者・正岡子規が従軍で得た病の療養のため松山に帰郷して漱石の仮宿舎「愚陀仏庵」に転がり込んだことから、漱石は俳句を作り始め、病が癒えた子規が東京に戻ったあとは子規に句稿を送って添削依頼する。熊本時代の俳句はこの子規に送った句稿がほとんどである。明治32年1月、〔子規へ送りたる句稿 その31〕の最後に、「冀くは大兄病中煙霞万分の一を慰するに足らんか」と書いている。つまり、病魔に襲われている子規の苦痛を添削によって軽減しようというものである。この月が75句、2月が105句を子規に送っている。その積み重ねが熊本時代の千句あまりの句数である。

明治31年春、五高学生の蒲生紫川 (栄)と厨川千江 (肇)が俳句に興味を持ち、井川淵の漱石家を訪ねたことが事の発端である。特に千江の俳句熱は旺盛で、同じ五高生の白仁白楊(後の坂元雪鳥)、寺田寅日子(寅彦)ら11人を誘い、10月2日、井川淵から越した内坪井の漱石宅で、念願の運座を開くに至る。この座は「紫溟吟社」と命名される。翌三十二年秋、「紫溟吟社」は五高外からも池松迂巷、渋川玄耳らが加入してきて、会はますます活況を呈することになる。迂巷の尽力で、九州日日新聞社の紙上に翌年1月から「紫溟吟社詠」が発表されるようになり、漱石の周辺を越えて、新派俳句が広く知れ渡ることとなった。熊本時代の夏目漱石は俳句全体の四割を作り、正岡子規が唱えた新派俳句を熊本にもたらした。

このように、夏目漱石は教育行政側の期待に応えるべく、第五高等学校の発展に尽力し、ひいては明治期の学制の確立に貢献した教育者、教育官僚であった。その一方、多忙極まりない中、子規を慰労する一心でせっせと句を作っていたのである。

三 漱石俳句の特色

1 俳句のレトリック

子規が「明治二十九年の俳句界」で、漱石俳句の特色として「活動」という二字評を下した言葉は的確であった。対象や方法を限定することなく、どのようにも「活動」できる幅があったと言わなければならない。その元になったのは漱石が「俳句はレトリックの煎じ詰めたもの」(「夏目漱石先生の追憶」昭和7年12月)であるという認識である。漱石がどれだけ「俳句のレトリック」に習熟していたかは、漱石俳句に対して、門下生と呼ばれる寺田寅彦・松根豊次郎・小宮豊隆が標語している『漱石俳句研究』が参考になる。そこには、「写生」「季語」「取り合せ」「省略」「デフォルメ」「連想」「擬人化」「同化」などの、あらゆる俳句のレトリックが使われている。例えば、俳句のレトリックではあまり使われないレトリックを取り上げる。

連想=季語の内包する美的イメージを表す

寒山か拾得か蜂に螫されしは  漱石

空想=現実にありそうにもないことを想像する

無人島の天子とならば涼しかろ 漱石

デフォルメ=対象を強調する

夕立や犇く市の十萬家     漱石

2 熊本時代の俳句の素材

 熊本の地名や雰囲気を詠んだものには紛れない漱石の足跡が刻み込まれている。

【地名を詠みこんだもの】

大慈寺の山門長き青田かな

明治29年作。熊本市南部にある曹洞宗の古刹大慈禅寺。あたり一面の青田のなかに参道の長い「門」に焦点をあてることによって、「大慈寺」のたたずまいが見えてくる。「青田」の青と「山門」の色との対比も、「大慈寺」の風格のあるさまをよく表現している。季語「青田」=春

天草の後ろに寒き入日かな

明治31年、小天旅行の折の作。天草の島に日が沈むのを詠 んだもの。「天草」という言葉は、キリシタン禁制、天草・島原の乱などのかなしい歴史を背負っている。そうしたイメージを「天草の後ろ」に込めて、冬の「寒き入日」と取り合わせることによって、冬の一情景をみごとに表現している。季語「寒し」=冬

【地名の雰囲気を詠みこんだもの】

湧くからに流るるからに春の水

明治31年作。「水前寺」という前書のある句。水前寺成趣園の池は阿蘇の伏流水である清水が湧き出ている。つぎつぎに湧いて流れる水のさまを「湧くからに流るるからに」と的確に表現している。特に「からに」のくり返しが湧水のリズムを捉えている。「春の水」=春

行けど萩行けど薄の原広し

明治32年作。「阿蘇の山中にて道を失ひ終日あらぬ方にさまよふ」という前書がある句。このときの体験が「地にあるものは青い薄と、女郎花と、所々にわびしく交る桔梗のみ」という『二百十日』の作品に生かされている。萩と薄だけが生い茂っている草原のひろがりと次々にわき起こる不安とが「行けど」のくり返しで表現されている。季語「萩・薄」=秋

【五高を詠みこんだもの】

第五高等学校に勤務していなければ表現できない内容の句で、当時の高等学校の様子が記録されている点で貴重である。

いかめしき門を這入れば蕎麦の花

明治32年作。「学校」の前書がある句。旧制五高の表門は赤レンガの堂々とした立派な造りである。当時はその表門から校舎のある中門のあいだには畑があった。当時九州の最高学府である赤い門と蕎麦の白い花との対比がすばらしい。季語「蕎麦の花」=秋

かしこまる膝のあたりやそぞろ寒

明治32年作。「倫理講話」の前書がある。倫理科の授業は各学年各学級と合わせて週一回行われていた。「かしこまる膝」という表現によって、その授業が五高生にとっては厳しいものであったことがわかる。「かしこまる」と「そぞろ寒む」とが呼応して、倫理講話の緊張感が伝わってくる。季語「そぞろ寒む」=秋

【家庭を詠みこんだもの】

実に微笑ましい家庭の事情がよく分かる句で、漱石の生活の一断面が切り取られている。

名月や十三円の家に住む

明治29年、二度目に移り住んだ合羽町(現坪井)での作。「十三円」とは家賃のことであるが、新築でありながら粗雑な普請であったことに対しての不満が込められている。しかし、「名月」という季語によって、その不満をよそに置き、自然に親しもうとする風流な心が表されている。季語「名月」=秋

安々と海鼠の如き子を生めり

明治32年、長女筆子が生まれたときの印象の句である。「海鼠の如き」には赤ん坊の得体の知れない姿がよくとらえられている。「安々と」という言葉はむろんのこと、父親として初産の安心感を詠んだものと思われる。季語「海鼠」=冬

【内面を詠みこんだもの】

内省力の強かった文豪夏目漱石を彷彿させる句で、人生に対する一貫した態度が窺える。

木瓜咲くや漱石拙を守るべく

明治30年作。『草枕』の主人公に「世間には拙を守るという人がいる。この人が来世に生まれ変わるときっと木瓜になる。余も木瓜になりたい」と言わせている。頑固者の意である「漱石」という号にしても、「拙を守る」という言葉にしても、決して上手な生き方を望まない人生態度を表明したものである。季語「木瓜の花」=春

菫程な小さき人に生まれたし

明治30年作。転生への願いを美しくかれんな「菫」に託した句。のちに文豪と称される人の言葉としては意外に思われるが、漱石は決して華やかで世慣れた人物は好きではなかった。「菫ほどの」より「菫ほどな」と小休止したほうが「菫」のやさしい感じがよく出てくる。季語「菫」=春

【多彩な内容を詠みこんだもの】

自由奔放な詠みぶりで、子規派の中でも異彩を放っている。

人に死し鶴に生れて冴返る

明治30年作。「冴返る」とはゆるんだ寒さがぶりかえすという意味。寒気の中にすくっと立っている鶴に、生まれ変わった人間の姿を見ている。漱石にとって「鶴」は孤高の象徴であるという。「冴返る」という季語と鶴への転生という言葉とがよく響き合い、純粋な美へのあこがれが読み取れる。季語「冴え返る」=春

ふるひ寄せて白魚崩れん許りなり

明治30年作。半透明の「白魚」のかよわさと美しさを詠んだものである。四ッ手網などで掬い取られた「白魚」に焦点をあてて、一瞬の景を「崩れん許り」という比喩によって的確に表現している。季語「白魚」=春

四 小説『草枕』に於ける俳句

ところで、阿蘇の旅の経験を元にした『二百十日』にしても、小天に訪れた経験を活かした『草枕』にしても、その折に詠んだ俳句が背景にあることは言うまでもない。小森陽一氏が「昔」(『永日小品』)を取り上げて、俳句が記憶装置として働いて、文章を書いたのではないかと述べていることは「二百十日」「草枕」にも当てはまる。

記憶装置としての俳句が「草枕」を生み出したのであれば、これまで明確にされなかった場面も熊本時代の俳句と照らし合わせることによって、舞台が浮き彫りになってくる。

『草枕』13章の川下りの場面は明らかに漱石の俳句が記憶装置として機能していると言わなければならない。

菜種咲く小鳥を抱いて浅き川

掉さして舟押し出すや春の川

柳ありて白き家鴨に枝垂りたり

という漱石の江津湖の俳句が文章化されて、『草枕』第13章の、

川幅はあまり広くない。底は浅い。流れはゆるやかである。(中略)舟は面白いほどやすらかに流れる。左右の岸には土筆でも生えておりそうな。土堤の上には柳が多く見える。まばらに、低い家がその間から藁屋根を出し、煤けた窓を出し、時によると白い家鴨を出す。家鴨はがあがあと鳴いて川の中まで出て来る。

というふうに、俳句と小説とが相関関係になっている。川下りの場面が江図湖を舞台にしているとの説は、中村青史氏がすでに『熊本文化』(平26・12号)で指摘しているところである。

ちなみに、『草枕』11章の「観海寺」の舞台として挙げられているのは本渡の「明徳寺」である。もちろん、漱石は五高生の修学旅行の引率で本渡に宿泊している。『草枕』11章と明徳寺との符号を明徳寺の側からみてみる。長い階段と上り口の「不許葷酒入山門」という石橙。漱石が訪れた当時は「石橙を登りつくしたる時、朧にひかる」「海が帯のごとくに」見えたであろう。「不許葷酒入山門」という石橙は禅宗の寺には珍しくほとんど見ないものだそうである。何よりも『草枕』の季語を調べた折に「覇王樹」が出てきたことである。春の季語が絢爛に散りばめられた『草枕』の世界にあって、夏の季語「覇王樹」は異質であった。聞くところによると、明徳寺には「覇王樹」が生えていたという。「観海寺」の場面の「覇王樹」は明徳寺の記憶から記述されたものである。「覇王樹」については、南国の植物の象徴であるとともに、明徳寺が観海寺の舞台であることを証拠立てるもので、必ずしも俳句(季語)に囚われる必要がないとは、「明徳寺」説を夙に唱えられている中村青史氏の見解である。

英国留学中に寄せた書簡で「小天など旅行したい」と書いた漱石である。『草枕』の主な舞台である前田別邸のある小天(現天水町小天)に対する強い憧れが『草枕』を執筆の要因であることは間違いない。『草枕』の舞台を熊本時代に帰しているのは、漱石自身が「俳句的小説」(「余が草枕」)と公言してことからも、熊本時代の俳句が深く関与していると思っているからである。要するに、『草枕』は漱石にとって、熊本時代を再体験して、熊本時代を封じ込めた、熊本のよき思い出の記念碑的な作品であったということである。

そういう意味で、熊本時代は俳人だったのである。

(ながた みつのり/熊本近代文学研究会会員)