http://chukonen.com/oboegaki/haiku/soseki021.html 【夏目漱石の四季別秀句 其の1 青春の章、朱夏の章】
漱石俳句を愉しむ(半藤一利)
青春の章
明(めい)天子上にある野の長閑(のどか)なる
新しき畳に寝たり宵の春
春の夜を兼好緇衣(しい)に恨みあり
朧(おぼろ)故に行衛も知らぬ恋をする
「由良の門(と)をわたる舟人楫(かじ)を絶え
行方も知らぬ恋のみちかも」(「新古今和歌集、
巻11、曽禰好忠(そねのよしただ)」をふまえている。
春寒し墓に懸けたる季子(きし)の剣
「季札(季子のこと)の初め北に使して
徐君に過(よぎ)る。徐君季札の剣を好む。
口にあえて言わず。季札心にこれを知る。
使となりて国に上りていまだ献ぜず。
還りて徐に至る。徐君すでに死せり。
ここにおいてなおその宝剣を解く。
これを徐君の冢樹(ちょうじゅ)にかけて去る」
(史記)
永き日や韋陀(いだ)を講ずる博士あり
「井の哲先生のこと」:井上哲次郎博士
(東京帝大文科大学教授)
鞭(むちう)つて牛動かざる日永かな
春もうし東楼西家何歌ふ
東楼西家とは、歌舞・音曲・飲酒・
佳肴を業(なりわい)とする別天地。
抜くは長井兵助の太刀春の風
春雨の夜すがら物を思はする
雨晴れて南山春の雲を吐く
朦朧(もうろう)と霞に消ゆる巨人哉
川を隔て牛散点し霞みけり
山の上に敵の赤旗霞みけり
湧くからに流るるからに春の水
或夜夢に雛娶りけり白い酒
恋猫や主人は心地例ならず
のら猫の山寺に来て恋をしつ
鶯の大木に来て初音かな
鶯や雨少し降りて衣紋(えもん)坂
居合抜けば燕ひらりと身をかはす
上畫津(かみえつ)や青き水菜に白き蝶
ふるひ寄せて白魚崩れん許(ばか)りなり
ぶつぶつと大なる田螺(たにし)の不平哉
抱一は発句も読んで梅の花
酒井抱一、江戸時代の文人的な僧。
尾形光琳に傾斜して宗達風の画も描いた。
玉瀾(ぎょくらん)と大雅(たいが)と語る梅の花
江戸中期の文人画家の池大雅と妻の玉瀾
梅の花貧乏神の祟(たた)りけり
ものいはず童子遠くの梅を指す
梅の詩を得たりと叩く月の門
長と張つて半と出でけり梅の宿
不立文字(ふりゅうもんじ)白梅一本咲きにけり
桃の花民(たみ)天子の姓を知らず
醋(さく)熟して三聖顰(ひん)す桃の花
三聖:孔子(儒教)、老子(道教)、釈迦)仏教)
木瓜(ぼけ)咲くや漱石拙を守るべく
其(その)愚には及ぶべからず木瓜の花
菫(すみれ)程な小さき人に生れたし
菜の花の中に糞ひる飛脚哉
郎をまつ待合茶屋の柳かな
有耶無耶(うやむや)の柳近頃緑也
土筆(つくし)物言はずすんすんとのびたり
行春(ゆくはる)や瓊觴(けいしょう)山を流れ出る
瓊:きれいな玉、瓊杯といえば玉杯のこと
觴は酒杯、さかずきのこと
したがって瓊觴は美しい玉杯のこと
行く春を沈香亭の牡丹哉
西安の華清宮にて
朱夏の章
溜池に蛙(かわず)闘ふ卯月かな
夏来ぬと又長鋏(ちょうきょう)を弾く(ひき)ずらく
短夜の芭蕉は伸びて仕まひけり
短夜を君と寐(ね)ようか二千石とらうか
塵埃(ちりぼこ)り晏子(あんし)の御者(ぎょしゃ)の暑さ哉
あつきものむかし大坂夏御陣
泳ぎ上り河童驚く暑(あつさ)かな
大手より源氏寄せたり青嵐(あおあらし)
馬子歌や小夜の中山さみだるる
五月雨の弓張らんとすればくるひたる
午砲(ごほう)打つ地城(ちしろ)の上や雲の峯
もう寐ずばなるまいなそれも夏の月
隣より謡ふて来たり夏の月
更衣(ころもか)へて京より嫁を貰ひけり
うき世いかに坊主となりて晝寐する
時鳥(ほととぎす)折しも月のあらはるる
さもあらばあれ時鳥啼(ない)て行く
かたまるや散るや螢の川の上
一つすうと座敷を抜る螢かな
叩かれて昼の蚊を吐く木魚かな
鳴きもせでぐさと刺す蚊の田原坂
あら瀧や満山の若葉皆震ふ
若葉して手のひらほどの山の寺
細き手の卯の花ごしや豆腐売
妾宅や牡丹に会す琴の弟子
罌粟(けし)の花左様に散るは慮外なり
文与可(ぶんよか)や笋(たけのこ)を食ひ竹を画(か)く
若竹や名も知らぬ人の墓の傍
其の1 青春の章、朱夏の章
其の2 白秋の章、玄冬の章
…………………………
「漱石俳句を愉しむ」所々
「十七字は詩形として尤も軽便であるから、顔を洗う時にも、厠に上った時にも電車に乗った時にも、容易に出来る。十七字が容易に出来ると云う意味は安直に詩人になれると云う意味であって、詩人になると云うのは一種の悟りであるから軽便だと云って侮蔑する必要はない」(草枕、夏目漱石)
「……駄句といわれている数多い若き日の漱石句のほうだって好ましいと、しゃしゃりでて申し上げたいのである。お遊びともいえそうな漢詩趣味の句、妖怪趣味や古典趣味の句、江戸情緒たっぷりのお色気の句がむしろ面白くてならない。この上なく多彩に藝のすべてをなげこんでいるそこにこそ、類をみない漱石の句風の、飄逸な、無頓着な、洒脱な、ユーモラスな味わいがあるんで、読んでいるとたとえようもなく愉快千万な心持になる」(本書、半藤一利氏)
「……漱石が俳句に心から熱中するのは、病癒えた子規が東京に戻っていったあとの、9月下旬からである。32句をいっぺんにものして、さっそく東京は根岸の子規へ送った。これを手はじめに、明治28年中には462句、翌29年に497句。この年の4月に、松山から第五高等学校の教授として熊本へ居を移している。俳人としての夏目漱石の名はかなり知れわたった。30年に266句。31年は102句。32年に330句と、松山・熊本の5年間で生涯に残した(約2500句)の6割を超えている(うち熊本で4割の千句近く)。
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