夏目漱石、子規からの手紙で意外な事実を知らされ驚く

https://serai.jp/hobby/112648  【夏目漱石、子規からの手紙で意外な事実を知らされ驚く】

今から124 年前の今日、すなわち明治25年(1892)12月14日、25歳の漱石は、高校時代からの友人である正岡子規から思わぬ内容の手紙を受け取り、夜になって返書をしたたむべく机に向っていた。

子規からの手紙には、講師として東京専門学校(現・早稲田大学)の教壇に立つ漱石の評判があまり芳しくなく、生徒たちの間では排斥運動を起こうそうとしている者もいるらしい、といったことが書かれていた。漱石は東京帝国大学の英文科に在籍する学生の身分ながら、一方で、この5月から東京専門学校の講師をつとめていたのである。

漱石の講義を受ける生徒の中には、子規の従弟である藤野古白もいた。おそらくはその辺りが、情報の出所だったのかもしれない。

漱石にとって子規の手紙は意外だった。

いわれてみれば、学校で使っているランプの蓋に、生徒の誰かによって「文集はサッパリ分らず」と悪戯(いたずら)書きされているのを見たことはあった。けれども、その程度のことはよくあることで、そんなものをいちいち気にしていたら教師などは1日もつとまらないと、漱石は打ち捨てていた。

もちろん、経験は浅く、自身の教え方がうまいとは思っていない。生徒によっては、なかなか授業についてこれない者もいるかもしれない。

だが、けっして漱石が手を抜いているわけではない。学校の決められた制度の中で、進めるべき講義を進めている。もともと2時間だった受け持ち時間を、生徒たちの希望によって3時間に増やした経緯さえある。排斥運動など、思いもよらなかった。

漱石は返書に綴った。

《生徒が生徒なれば辞職勧告を受てもあながち小生の名誉に関するとは思わねど、学校の委托を受けながら生徒を満足せしめ能(あた)わずと有ては、責任の上また良心の上より云うも心よからずと存候間、この際断然と出講を断わる決心に御座候》

子規のいうところが事実なら、すぐにも、文学部の責任者たる坪内逍遥に辞表を提出する気持ちにもなっていた。

漱石はこの3日後、子規のもとを訪ね、直接話を聞き、事情を確かめた。

その後、学校側にも聞き合わせてみたが、生徒たちからとりたてて問題提起はなく、漱石も辞表を提出することはなかった。どうやら子規は、小耳にはさんだ噂話に過剰に反応し、取り越し苦労をしたものと思われた。

それもこれも、相手のことを我が身のように慮るからこその行き違い。漱石と子規、まことの親友だった。

■今日の漱石「心の言葉」

生徒の風儀は、教師の感化で正していかなくてはならん(『坊っちゃん』より)