日本の城

https://japan-web-magazine.com/japanese/castle/index.html 【日本の城】 より

日本の歴史を語る上で外せないものの一つに「城」がある。戦がそこかしこで行われていた時代、城は大名や藩主の政治上の拠点であり、居住の場所であり、攻守の要であり、城下や近隣の人々の命や生活を左右する、まさに命運が決せられる場所であった。城を取り合う、すなわち領地を取り合う戦で勢力図は書き換わり、歴史の流れが決まってきた。城を中心に町が出来、政(まつりごと)が行われ、発展してきたのだ。江戸の太平の時代においても、城は様々な意味で藩の中心であった。現在の日本の県庁所在地、47のうち実に30あまりの都市が元々城下町であった都市であり、現在でも(戦後再建されたものも含めて)城が町の中心にある場所も多く、城は市民達の心の拠り所、シンボルとして、散策や集いの場として愛され、また内外から数多くの観光客を集める場所となっている。その威容や美しさ、存在感に海外からも多くの人々が心惹かれてやってくる、今や一大観光スポットにもなっているのだ。勿論、城が実際に機能していた当時は人々のシンボルでこそあれ、見世物であったわけではなく、市井の人々にとってはお城は別の世界。それでもその城を中心に人々の世界は動いていた。近世に至るまでの歴史的出来事、分岐点の殆どに、城が何らかの形で関わってきたといっても過言ではないだろう。

城の数と現存天守

かつて日本には二万五千以上もの城が存在したと言われる。実際にはただ柵で囲われただけの砦のようなものもあり、文書に残っているのみでその存在が証されたのではないものも含まれるが、それでも相当数存在していたことは確かだ。しかし、数多くの戦や藩主の転封の度に廃城になったり破却されたりとその数は次第に減っていき、江戸後期にはその総数およそ200。さらにその後の明治維新の廃城令や戦争、火災、天災を免れて現在もその姿を残しているのは12城しかない。それ以外の現在見られる城は戦後新たに再建復興されたもの。古くに廃城になったものは、現在では打ち捨てさられ忘れられ、その城跡すらもただの野山と見分けがつかないようなものも多いのだ。天守や城郭が往時のまま現存しているのは丸岡城、犬山城、松本城、彦根城、松江城、高梁城(備中松山城)、丸亀城、姫路城、松山城、高知城、宇和島城、弘前城の12城のみだ。

城の種類

城は大きく分けて竹田城や安土城に代表される山城と名古屋城などに代表される平城がある。戦乱の世であった時代、戦略的、防衛的な観点からその多くは地形を利用して山に建てられた。その後江戸時代になり、戦略的な意味合いが薄れるとその多くは平地に作られる平城となり、防衛的な特色より、立派な天守閣のある権力示威的な色合いが濃くなる。広大な縄張り内に数多くの櫓、豪壮絢爛な天守閣、そして城主が普段暮らす場所である本丸御殿など、技巧と贅を尽くした華美な建築物となってゆく。しかし、その建設の為の費用や労働力を捻出するために過度な年貢や労役を藩内の民に課したために時に一揆などが起こったのもまた事実だ。

城の役割

「土偏」に「成る」と書く「城」という漢字には元々「都市の周囲に防御の為に築いた壁」という意味のほかに「都市・町・国」そのものを表す意味がある。まさに「城」を中心として、「土」=地面が「国」や「町」に「成る」のだ。戦国時代は防衛防御を重んじたため、戦をする上で重要な、戦いに有意義な設備が各所に作られ、沢山の井戸も掘られた。設備とは例えば物見櫓や狭間(さま)と呼ばれる鉄砲(矢)穴で、外部からの攻撃に備え、守りを固めるためのもの。井戸は水確保のためだ。籠城の際、外部から引いている水にのみ頼ることは、その水に毒物などを入れられた場合に城内が混乱に陥る危険性がある。それを考慮して、外部とつながりのない水源を確保したのだ。

「城」は戦略上の重要な拠点であり、防衛の上でも要であった。城を守ることは国を守ることと同義であり、それはすなわち、戦国時代には藩内の各人の命が城の存続と共にあったということを意味するのである。そのようなわけで有事の際には武将はおろか、一兵卒、農民や町民に至るまで、城内に暮らし、敵の襲来に備えたのだ。例えば北条氏の小田原城籠城であり、例えば吉川氏の鳥取城籠城である。

ところが天下統一の後、戦略的な目的を失った城は、今度はそこに封ぜられた大名のその藩の民に対する権力誇示の意味合いを持つようになり、また城下町内を統治する上での拠点、政所としての役割を担うようになった。例えば太田道灌が作った江戸城に入城した家康とその後の将軍達は、江戸城を政治の中心本拠地として位置づけた。それはすなわち、江戸「城」が江戸という町の中心と「成った」ことを意味し、それと同時に名実共に日本の中心と「成った」ことも意味したのだ。

各藩にあった各城もまたしかりである。それぞれの藩の中心、地方の中心としての役割を城は担うようになり、城を中心として町も整備されていく。もはや戦争の上での拠点ではなく、各人の生活の上での拠点、政治上の中心、象徴となっていったのだ。要塞、要害としての城から、政務の上での中心地としての城へと変化していったのである。しかし中央政権「徳川家」への遠慮や一国一城令のため、地方の大名達は城の新築増築改築をはばかる様になった。一国城令で、新築はおろか修理補修も無断では出来ないことになり、それによって城の数は減少の一途をたどっていくことになるのである。

城用語

知っているとお城巡りがより楽しくなる城にまつわる用語をご紹介しよう。

石垣

文字通り石を積み重ねることにより築かれた垣。その積み方や積む場所により、「野面積み」「算木積み」「玉石積み」などと呼ばれる積み方がある。

石落とし

石垣を登ってくる敵に対して、石を落として撃退するためのもの。

大手

現在も各地の地名に残る大手町や大手門。「大手」とは城の正面の事。「追手」とも。ここに位置する門を「大手門」、出入り口を「大手口」と呼ぶ。

懸魚(げぎょ)

懸魚というのは、主に木造の神社仏閣の屋根に見られる妻飾りで、棟木の切り口を隠すと共に、火除けのまじないとしての意味合いを持つ飾り板。木造で、火に弱い城にも大抵この懸魚がつけられている。様々なデザインがあるので、見比べてみるのも面白い。

狭間(さま・はざま)

城を攻めてくる敵に対し、身を守りながら矢や鉄砲で攻撃するための小窓。三角や円形、四角など様々な形がある。内側(味方側)は動きやすいように錐形に大きく開き、敵側である外側は穴を小さくし、敵からの攻撃を防ぐ。外からは攻撃されにくく、内からは攻めて来る敵に対して身を守りつつ、武器を持ったまま広範囲に攻撃できるという利点がある。

鯱(シャチ)

一般的にしゃちほことして知られる。鯱は想像上の生き物。水に関連する事から、懸魚と同じく火除けのお守りとして棟に取りつけられる。

破風(はふ)

屋根の妻部分につく合掌形の装飾の事。この部分に風が当たると左右に分かれる事から、この名がついたという。形や場所により、唐破風・千鳥破風・切妻破風・反り破風などがある。

天守とその種類

天守閣とも呼ばれる。(明治以降一般的になった呼称。建築用語では天守。)いわゆる「城」という時にイメージされる事が多い城の象徴的な建築物。天主(安土城)、殿主などの当て字も。

現存天守

江戸時代やそれ以前に建築され、廃城令や戦災、天災をくぐりぬけ、現在まで残っている12の天守を「現存天守」という。1873年(明治6年)に公布された廃城令により各地にあった城の多くは解体され、姿を消した。犬山城や松本城、姫路城でさえ一時は売却され解体されるところであった。廃条令による破却、解体を免れた城も60余あったが、その後解体は進み、第二次世界大戦までに21に減り、さらに空襲や地上戦で水戸城、名古屋城、大垣城、和歌山城、岡山城、福山城、広島城、首里城が焼失、戦後に松前城天守が焼失。

復元天守(復原天守)

火災などで失われた天守をなるべく原型に忠実に復元した天守。白河城、掛川城、大洲城などが、城があった当時の図面、文書、記録や発掘調査された遺構などに基づいて建築当時の材料や工法を用いて復元された木造のもの。それに対し、建築基準法や消防法などの規制により、鉄筋コンクリート構造で外観のみ復元した名古屋城や大垣城がある。

復興天守

様々な資料などにより天守が存在していたことは確かでかつ、実在していた場所に復元されたもののうち、情報不足などにより規模や意匠に推定が多少加わっているもの。また、意図的に付加、改変されているもの。大阪城、岸和田城、岐阜城、小倉城など。

模擬天守

城そのものは存在していたものの実際には天守がなかった城(伊賀上野城、富山城)や天守の存在が不明な城(今治城)に建てられた天守の事。実在した場所と異なった地に建てられたもの(伏見城、清洲城)もある。そのほか、郡上八幡城、千葉城、洲本城、関宿城、撫養城、日和佐城など。

城跡と城址

多くの方が一度は疑問に思った事があるだろう。「城跡」と「城址」の違いって?と。一般的には、城跡とは堀なども含めた、「城があったエリア全体」を指し、城址は「城そのものがあった場所」を指すと言われるが、ガイドブックや書籍文献でもあいまいな使われ方がされることも少なくなく、それほど厳密な違いはないと考えてよいだろう。辞書によっては、「城跡」=「城址」と説明しているものもある。

城と風景

桜と弘前城や朝霧の竹田城など、日本的な美しさに溢れる風景を見る事が出来るのも城ならでは。また現存、復興にかかわらず、多くの天守閣はその最上部にまで登れることが多く、遠くまで見渡せる雄大な景色を堪能する事が出来る。かつて、城主と僅かな側近のみが見る事ができた風景を今では誰でも楽しむことが出来るのだ。

城の今昔

災害などで天守が失われた後そのままであったり(築城当初から、元々ないものもある)、新たに鉄筋コンクリートで建てられたりとその建物としての姿は変えても、城壁や基礎などは元々に近い姿で残り、往時を追懐できる城も多く、内外の沢山のお城ファンが各城を訪れる。「城」といえば「天守閣」を思い浮かべがちだが、実際には天守閣は城の一部であり、堀、門、櫓、それに御殿など見るべきものも多い。中世~近世の歴史上の大きな出来事の裏には「城」の存在があったといっても過言ではないほど、ある意味、現代の状況を決定付けた大きな事柄が行われた舞台ともいえるお城。江戸から明治へと政権が移った際の政権移譲の舞台になったのも城だ。見た目の美しさや堅牢さもさることながら、城はその地その場所に様々なストーリーを孕んでいる。歴代城主や当時の民そして幕末の志士達の気持ちを想像しながら、様々な史実を思いつつ、お城を眺めてみるのもまた一興かもしれない。