https://www.city.otsu.lg.jp/manabi/shisetsu/b/kanko/1389883170218.html 【幻住庵】
更新日:2020年07月17日
災害復旧工事が完了し、一般公開を再開しました。
近津尾神社境内のひっそりとしたたたずまいの中に建つこの草庵は、俳聖松尾芭蕉が元禄年間に4ヶ月滞在した草庵「幻住庵」を再現したものです。そして、当時の生活ぶりや心境などを記したものが有名な「幻住庵記」です。現在の幻住庵は「ふるさと吟遊芭蕉の里事業」によって、平成3年に復元されたものです。
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【降りしきる雨の中を石山寺に詣でる】 より
翌日は夜明け前から雷鳴がとどろき渡って、朝から雨。大津地方は、雷や大雨の注意報が出されていた。とても小さな折りたたみ傘では凌げる雨ではない。宿で大きな傘をかりて、昼間の石山寺参拝に出かけた。
「石山寺は聖武天皇の勅願により天平勝宝元年、良辨僧正によって開基され、暦朝の尊崇あつい由緒ある寺院。
西国巡礼十三番の札所。東寺 真言宗、本尊は秘仏如意輪観音。」(寺のパンフ)
石山寺は文学との関わりも多く、「紫式部が『源氏物語』の着想を得たのも石山寺とされている。伝承では、寛弘元年(1004年)、紫式部が当寺に参篭した際、八月十五夜の名月の晩に、「須磨」「明石」の巻の発想を得た」そうだ。
その源氏物語にも「……この殿、石山に、御願はたしに、まうで給ひけり。:(せきや)と光源氏も参詣させている。
「寺は壺坂。笠置。法輪。霊山は、釈迦仏の御すみかなるがあはれなるなり。石山。粉河。志賀」(枕草子208段)
「…石山に十日ばかりと思ひ立つ。しのびてはと思へば、はらからといふばかりの人にもしらせず…(蜻蛉日記92)
「石山の石にたはしる霰かな」「 芭蕉
山門左前の貝塚前にあり、なかなか見つからなかった。 「三鈷の松」弘仁2年に石山寺で三ヶ月修業した弘法大師空海ゆかりの松。
島崎藤村「石山寺にハムレットを納むるの辞」より
湖にうかぶ詩神よ 心あらば
落ちゆく鐘のこなたに 聴けや
千年の冬の夜ごとに 石山の
寺よりひびく読経の こえ 石山寺東大門。(重文)
建久元年(1190年)、源頼朝の寄進により建てられたものとされる門で、その後淀殿が大修理を行ったそうだ。
前の広場には土産物屋が軒を連ね、屋台が並ぶ。
東大門金剛力士吽形像 と金剛力士阿形像。運慶、湛慶の作だと伝えられている。これでは悪者は入れまい。
参道の石畳の両側にはいくつかの塔頭が並んでいる。
楓におおわれたこの庭は公風園。 拾翠園庭園。ここは無料の休憩所。寺の全山が楓に包まれていて、少し先には真っ赤に染まるのだろう。
「そもそも石山寺といふは名にしおふものさびたる古刹にして、かの俳士芭蕉庵が元禄のむかし幻住の思ひに柴門を閉して今はその名のみをとどめたる国分山をうしろになし、巌石峨々として石山といへる名も似つかはしきに、ちとせのむかし式部が桐壺の筆のはじめ大雅の心を名月に浮べたる源氏の間には僅にそのかたみを示して風流の愁ひをのこす。門前ちかくに破れたる茶丈の風雨のもれたるをつくろひ、ほこりをたたき塵を落して湖上に面したる一室をしきり、ここにしばらく藤の花のこぼれたるを愛す。」島崎藤村「茶丈記」
「…二月半ばかりの間は茶丈を一間借りていた。その頃は自炊だ。終には小炉を煽ぐのも面倒臭くなって、三度三度煮豆で飯を喰ったこともあった。…」(春)
明治26年22歳のとき、教え子との恋に悩んで漂泊、ここに蚊に悩まされながら留まった。その茶丈は門前からここに移築され密蔵院となった。
東池密蔵院。「藤村の遺跡石山茶丈」と説明がある。 密蔵院。今は修業の場で非公開とのこと。
雷鳴が鳴り響き、激しく雨の降る中では、参詣人は一人も見かけない。多宝塔は雨宿りしただけだった。 木隠れの国宝多宝塔。本尊大日如来坐像(重文、快慶作。建久5( 1194)年頼朝により建立。
蓮如堂。 蓮如の遺品を安置する。蓮如上人の母堂が石山観音の化身だといわれることから、片袖や数珠などが納められている。 本堂は懸架木造建築最古のもので「石山寺硅灰石」の巨大な岩盤の上に建ち、これが寺名の由来ともなっている(石山寺珪灰石は日本の地質百選に選定)。
源氏の間。紫式部はこの部屋で参籠中に中秋の名月が琵琶湖に映るのを見て、『源氏物語』の構想を得たとか。ここからは琵琶湖は見えないが昔は見えたのかな。 雨宿りの眼の先に、しっとりと濡れて光る檜皮葺の建物が見えた。鐘楼かな?本堂、多宝塔、御影堂なども総檜皮葺だそうだ。
紫式部供養塔。隣には芭蕉の句碑が並ぶ。
、 「曙はまだむさらきにほとゝきす」 芭蕉
碑面は読めない。「曙」とも「あけぼの」ともどっちかな?
芭蕉庵と月見亭。月見亭は後白河天皇以下歴代天皇の玉座とされた。芭蕉庵は芭蕉が度々仮住まいした由。 月見亭の傍から雨の瀬田川を望む。かすかに琵琶湖も見えるようだ。
萩の咲く道の上の豊浄殿で展示があったが、割愛。
石山寺は花のお寺。梅、桜、つつじ、花菖蒲、牡丹、萩など四季を通じて様々な花が咲くそうだ。 「光堂」「源氏苑」「牡丹園」などある一角で式部が降りしきる豪雨を気にも掛けずに筆を執っていた。場所柄、お目に掛かる人は少ないようだ。
雨の石山寺はそれなりに風情はあるし、観光客も出会ったのは二人だけで閑かな境内だったのはいいとしても、時折激しく降りかかる豪雨には雨宿りに逃げるしかない。また、時折鳴り響く雷鳴に思わず身を縮めるばかりだった。機会はないだろうが、できたら紅葉の時期に訪ねたいものだ、全山紅葉でさぞかし見事だろうな。
https://setuoh.web.fc2.com/genzyuan/genzyuan.html 【雨の幻住庵を訪う】
蜆とる舟おもしろき勢多川のしづけき水に秋雨ぞふる 長塚節
豪雨の石山寺をあとに、瀬田川名物の蜆舟も見えないが、「しづけき水に秋雨」が降るのを見ながら瀬田川に沿って車を走らせ幻住庵に向かう。雨の中、薄暗い山道を足を踏みしめて「三曲二百歩」で登る。
「石山の奥、岩間のうしろに山有、国分山と云。…麓に細き流を渡りて、翠微に登る事三曲二百歩にして、八幡宮たゝせたまふ。…日頃は人の詣ざりければ、いとゞ神さび物しづかなる傍に、住捨し草の戸有。よもぎ・根笹軒をかこみ。屋ねもり壁落て狐狸ふしどを得たり。幻住庵と云。」(幻住庵記)
「幻住庵は奥の細道の旅を終えた翌年の元禄3年(1690年)3月頃から、膳所の義仲寺無名庵に滞在していた芭蕉が、門人の菅沼曲水の奨めで同年4月6日から7月23日の約4ヶ月間隠棲した近津尾神社境内の小庵。47歳の芭蕉は、この庵で半生を綴った「幻住庵記」を書いた。
幻住庵に暁台が旅寝せしを訪ひて 与謝蕪村
丸盆の椎にむかしの音聞む
「三曲を登れば晴るヽ時雨かな」 藤本洞里
時雨ならぬ雷雨の中を山道を三曲登ったが晴れない。 「ほろほろと山吹ちるや瀧の音」
山道に沿ってこんな句碑が10基の建てられていた。
「とくとくの井戸」 「たま/\心まめなる時は、谷の清水を汲みて自ら炊ぐとく/\の雫を侘びて一炉の備へいとかろし。」(幻住庵記) 幻住庵門。神社より一段高いところに建つ。現在の建物は1991年9月に芭蕉没後300年記念事業「ふるさと吟遊芭蕉の里」の一環で復元したのだそうだ。
「人家よきほどに隔り」つつじ咲き、山藤松にかかり、時鳥しば/\過ぎ、琵琶湖も見えるなど申し分ない庵 庵は丁度句会の最中で早々に退去。二間があるらしかったが詳細はわからない。参観料は無料。
「幻住庵記」全文。 幻住庵跡。復元の庵より下の椎の木の傍。
右の句に詠んだ 椎の木。 「先たのむ椎の木もあり夏木立」
芭蕉翁経塚。
近津尾神社。祭神は誉田別尊。石山寺の鎮守社として創建。「神体は弥陀の尊像とかや」(幻住庵記)
近津尾神社神門。膳所城の米倉門を移築。瓦は立ち葵の紋入り。 源氏物語千年紀in湖都大津のマスコット「おおつ光ルくん」 なぜかさびしそうな顔で案内していた。
…賢愚ひとしからざれども、其貫通するものは一ならむと、背をおし、腹をさすり、顔しかむるうちに、覚えず初秋半に過ぬ。一生の終りもこれにおなじく、夢のごとくにして又々幻住なるべし。
先たのむ椎の木もあり夏木立。
頓やがて死ぬけしきは見えず蝉の声 元禄三夷則下 芭蕉桃青 (幻住庵記)
秋の坊を幻住庵にとゞめて
我宿は蚊のちいさきを馳走かな (芭蕉 一葉集)
芭蕉のいたときから300余年たった今でも「日頃は人の詣ざり」で、句会の人を除くと誰にも会わない。蚊がご馳走というとおり、今にもヤブ蚊に襲われそうな処だが、それだけ閑寂な処だ。昔は、膳所城や琵琶湖も見えたそうだが、木立が茂っていて眺望は全くきかない。
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