第75回ノーベル生理学・医学賞 ドゥルベッコ、テミン、ボルティモア「腫瘍ウイルスと細胞内の遺伝物質との相互作用に関する発見」

http://sciencejournal.livedoor.biz/archives/5705222.html 【第75回ノーベル生理学・医学賞 ドゥルベッコ、テミン、ボルティモア「腫瘍ウイルスと細胞内の遺伝物質との相互作用に関する発見」】 2020年05月12日 より

 がんの原因は何か?

 人類の死因第一位はがんである。がんの原因はなんだろう?

 がんの原因にはいくつかあるが、1.化学物質(喫煙、アルコール) 2.生活習慣 3.感染症によるもの(ウイルス、細菌) 4.ホルモン 5.遺伝的な要因...などである。

 ウイルスの中でも腫瘍を生じさせるウイルスを発がん性ウイルスという。ラウスがニワトリに腫瘍を生じさせるウイルスを発見したのが1911年のことだった。その当時は、ウイルスとは呼ばず「細菌より小さな病原体」であった。後のがん研究に、彼のラウス肉腫ウイルスはさかんに使われるようになる。

 この世界初の発がん性ウイルスの発見は、当時は受け入れられなかったが、現在では多くの発がん性ウイルスが発見されている。では、ウイルスに感染するとどうして細胞はがん化するのだろうか?

 ラウスの業績は、1966年のノーベル生理学医学賞を受賞している。受賞理由は「発がん性ウイルスの発見」。ラウスは授賞当時に87歳と高齢で、当時の最年長受賞者記録。授賞対象の研究は、第一次世界大戦前のもので何と研究発表から55年後の受賞であり、これも最長記録となっている。

 ウイルスが細胞をがん化させるしくみ

 ラウスにより、ウイルスががんの原因であることはわかっていたのだが、どのようにして、細胞をがん化させるかについてはよく分からなかった。それを突き止めたのがドゥルベッコ、テミン、ボルティモアの3人である。

 ドゥルベッコのグループは、腫瘍ウイルスと呼ばれるウイルスが正常細胞に感染すると、ウイルス由来の遺伝子が細胞のゲノムに取り込まれ、これが形質転換(細胞レベルのがん化)の原因になることを明らかにした。

 ドゥルベッコは、ウイルスを定量検定する方法「プラーク法」を開発した。この方法でウイルスによる細胞のがん化は調べられた。

 また、テミンとボルティモアは、ラウス肉腫ウイルス(レトロウイルス)が、遺伝子の取り込みの第一段階は逆転写酵素(RNAからDNAへの転写を行う)によることを明らかにした。

 これは、通常のDNAからRNAへの転写とは逆の転写であり新発見であった。これが彼ら3人のノーベル賞受賞理由となっている。

 現在では、がん遺伝子(src)はウイルスだけでなく宿主細胞のゲノムにも存在していることがわかり、科学者たちに衝撃を与えている。ウイルス由来のものを「v-src」、細胞由来のものを「c-src」と書く。

 がん遺伝子は細胞の増殖制御に関係していることが多く、がん遺伝子は本来、宿主やそれに近い生物の染色体の一部であったものが他のウイルスとともに細胞外に出たものと考えられている。そして、がんウイルスの遺伝子が、細胞にあるがん遺伝子を活性化するしくみがあることが分かっている。

 1975年ノーベル生理学・医学賞 概要

 この年のノーベル生理学医学賞は別々に研究していたものの、互いに協力関係にあった3人に送られた。ドルベッコはイタリアのカタンツアロ生まれ。イタリア半島を大きく物にたとえれば、指の付け根にあたる場所である。

 興味のあった物理学や数学ではなく、トリノ大学で医学を収める。第二次世界大戦中は国として従軍、イタリアのファシズム政権が崩壊した後は、占領したドイツ軍に対するレジスタンス運動にも参加した。

 戦後は研究の拠点をアメリカに移す。1953年にポリオウィルスの定量的検定法(プラーク法)を確立。さらに腫瘍ウィルスが正常な細胞に感染すると、正常な細胞は腫瘍ウィルスのDNAを取り込み、その細胞ががん化することを発見した。

 同時受賞の2人のほか、利根川進(1987年ノーベル生理学医学賞)もドルベッコの教え子である。 テミンとボルティモアは別々ではあるが、同時に逆転写酵素を発見した。

 逆転写酵素はRNA依存性DNAポリメラーゼのことで、RNAを鋳型としてDNAを合成する。それまでに、情報はDNAからRNAにつながると考えられてきたが、その逆の反応する酵素を発見した事は、当時の常識を覆すものだった。

 逆転写酵素を持つウィルスをレトロウイルスといい、HIVウィルスや成人T細胞性白血病も引き起こすHTLVー1ウィルスなどがある。ボルティモアは高校生の時に参加したサマーキャンプで、学生だったテミンと会ったことが生物学に興味を持つきっかけとなった。

 ボルティモアが逆転写酵素を発見した時にもテミンと相談し、2人は同時に研究論文を発表、恩師のドルベッコのノーベル生理学・医学賞の同時受賞つながった。

 フランシス・クリックが唱えたセントラルドグマは、遺伝情報はDNAからRNAを経てタンパク質まで伝えられるとした学説で、当時の分子生物学の根幹をなすものであった。

 この年の受賞者による逆転写酵素の発見つまりレトロウイルスではRNAからDNAへ遺伝情報が伝えられることの発見は、セントラルドグマを書き換えるものだった。

 腫瘍ウィルスだけの話でなくがん研究の基礎を築いたことも受賞の理由だろう。 1989年のノーベル生理学医学賞は、レトロウィルスのがん遺伝子が細胞起源であることを明らかにしたジョンビショップとハロルドヴァーマスに贈られた。

 テミンが唱えたプロウイルス説(細胞にはレトロウイルスの元になる遺伝子があり、がん発症の原因となる)がこの受賞研究の基礎になった。またレトロウィルスの増殖を抑えるためには、逆転写酵素阻害剤が有効なことがあり、HIV抑制剤もこの原理を用いてつくられた薬品である。

 レナート・ドゥルベッコ

 レナート・ドゥルベッコ(Renato Dulbecco、1914年2月22日 - 2012年2月19日)はイタリア出身のウイルス学者。アメリカ・イギリスなどで活動しているため、英語風にリナート・ダルベッコと呼ばれることも多い。腫瘍ウイルスの研究により1975年度ノーベル生理学・医学賞受賞者の1人となった。

 カラブリア州カタンザーロ生まれ。トリノ大学でジュゼッベ・レーヴィに医学を学び、研究生活に入る。ここでサルヴァドール・ルリアとリータ・レーヴィ=モンタルチーニに会い親交を結んだ。

 1940年第二次世界大戦が勃発すると軍医として召集されてフランス・ロシアの前線に派遣され、負傷した。ファシスト政権崩壊後はレジスタンス運動に参加した。

 戦後研究を再開したが、まもなくレーヴィ=モンタルチーニとともにアメリカへ渡り、ルリアとともにインディアナ大学(ブルーミントン)でバクテリオファージの研究を始めた。

 1947年インディアナ大学でS.ラリアのグループに参加し、バクテリオファージの研究を行った。バクテリオファージは1915年にイギリスのフレデリック・トゥートにより発見されており、40年代後半にはこの研究をする上でファージの定量技術は重要なものとなっていた。

 1949年にカリフォルニア工科大学に移ってマックス・デルブリュックのグループに加わった。さらにここで動物ウイルス、特に腫瘍ウイルスの研究を始めた。

 1952年には培養細胞を用いた動物ウイルスのプラーク定量法を導入した。プラーク法とは、宿主となる細胞にファージを混ぜたものが寒天の中で生育し、増えたファージが細菌を溶かして(溶菌)つくる透明な斑点(プラーク)を観察する、というものである。

 1950年代後半にはハワード・テミンが学生となる。

 1962年にはソーク研究所に移り、ここではデビッド・ボルティモアや利根川進を指導している。1972年にはイギリス王立がん研究所に移る。

 1975年にテミン、ボルティモアとともにノーベル賞を受賞。1986年には他の研究者とともにヒトゲノムプロジェクトの立ち上げに加わった。1993年にはイタリアに帰り、CNR生物医学研究所(ミラノ)所長を務めた。

 ドゥルベッコのグループは、腫瘍ウイルスと呼ばれるウイルスが正常細胞に感染すると、ウイルス由来の遺伝子が細胞のゲノムに取り込まれ、これが形質転換(細胞レベルのがん化)の原因になることを明らかにした。

 腫瘍ウイルスは人間の一部のがんの原因ともなる。また一部の腫瘍ウイルス(レトロウイルス)では、遺伝子の取り込みの第一段階は逆転写酵素(RNAからDNAへの転写を行う)によることが、テミンとボルティモアによって明らかにされた。これが彼ら3人のノーベル賞受賞理由となっている。

 さらにレトロウイルスの持つ遺伝子によく似たがん遺伝子は正常細胞にもあり、これが一般の発がんにも関係することが後に明らかにされた。このようにドゥルベッコの発見は、その後のがんに関する研究すべての基礎となっている。

 ポール・バーグ(1980年ノーベル賞)、リーランド・ハートウェル(2001年ノーベル賞)もダルベッコ研究室に長期滞在している。

 2012年2月19日、カリフォルニア州サンディエゴ市ラホヤ地区の自宅で死去。97歳没。

授賞

1964年 - アルバート・ラスカー基礎医学研究賞(ハリー・ルービンと共に)

1967年 - パウル・エールリヒ&ルートヴィヒ・ダルムシュテッター賞

1973年 - コロンビア大学よりルイザ・グロス・ホロウィッツ賞(ハリー・イーグル、シオドア・パックと共に)

1975年 - ノーベル生理学・医学賞(ハワード・テミン、デビッド・ボルティモアと共に)

 ハワード・マーティン・テミン

 ハワード・マーティン・テミン(Howard Martin Temin、1934年12月10日 - 1994年2月9日)は、アメリカ合衆国の遺伝学者。ペンシルベニア州フィラデルフィア生まれ。

 1970年代にウィスコンシン大学マディソン校で逆転写酵素を発見し、レナート・ドゥルベッコ、デビッド・ボルティモアとともに、1975年度のノーベル生理学・医学賞を受賞した。この論文は重要性が直ちに認識され、Natureの編集部の判断によって著者の順序が変更されたことでも知られている。

 さらに彼は、腫瘍ウイルスが逆転写酵素を使って宿主の細胞の遺伝情報をどのように書き換えるかということを明らかにした。またこの発見は、フランシス・クリックが提唱し、広く信じられてきたセントラルドグマの概念に修正を迫るものであった。クリックや当時の他の分子生物学者は遺伝情報は、DNA→RNA→タンパク質と一方向にのみ流れるものだと信じていたが、テミンはある種の腫瘍ウイルスが、逆転写酵素を使ってRNA→DNAの方向に遺伝情報を伝えることができるということを示した。

 この現象は、同じ頃テミンと一緒にノーベル賞を受賞することになるデビッド・ボルティモアによっても、独立に発見されていた。逆転写酵素は、エイズを引き起こすHIVやウイルス性肝炎の原因となるB型肝炎ウイルス (HBV) などのウイルスも持っているため、この酵素の発見は近年の医学における最も重要な発見の一つとなった。また分子生物学においてmRNAからのcDNAの合成、PCRや医療診断に使われる重要なツールにもなっている。また、アジドチミジンなどの逆転写酵素阻害薬はHIVに対する治療薬として用いられている。

 長い間、喫煙の反対論者であり、59歳で肺癌のため死去したが、彼自身はタバコを吸わなかった。ウィスコンシン大学マディソン校の散歩道には彼の名前が付いている。彼は1955年にスワースモア大学で生物学の学士号を取得し、1959年にカリフォルニア工科大学で博士号を取得した。 テミンの弟のピーター・テミンはマサチューセッツ工科大学の経済学の教授であり、経済学部の元学部長である。

受賞

1972年 米国科学アカデミー賞分子生物学部門

1973年 ファイザー酵素化学賞

1974年 ガードナー国際賞、アルバート・ラスカー基礎医学研究賞

1975年 ノーベル生理学・医学賞

1992年 アメリカ国家科学賞

 デビッド・ボルティモア

 1975年のノーベル生理学・医学賞受賞者である。受賞理由は「腫瘍ウイルスと細胞の遺伝物質との相互作用に関する発見」である。

 デビッド・ボルティモア(David Baltimore、1938年3月7日 - )はアメリカ合衆国の分子生物学者。1975年度ノーベル生理学医学賞受賞者の1人である。現在カリフォルニア工科大学教授で、1997年から2006年まで学長を務めた。またアメリカ科学振興協会副会長を務める。

 経歴・研究

 ニューヨーク生まれ。スワースモア大学を卒業後、1964年ロックフェラー大学で博士号を取得。マサチューセッツ工科大学とen:Albert Einstein College of Medicineで博士研究員として働いたのち、ソーク研究所でレナート・ドゥルベッコ(のちにノーベル賞をともに受賞)に指導を受けてポリオウイルスの研究を行った。

 さらに腫瘍ウイルスの研究に進み、これによってマサチューセッツ工科大学(MIT)在職時にノーベル賞を受賞した。受

賞理由 はRNAをDNAへ転写する逆転写酵素の発見で、これは1970年代初めまで信じられていたセントラルドグマを一部覆す画期的発見であった。

 ウイルス分類の提案(ボルティモア分類)でも知られる。MITのホワイトヘッド研究所の創立者である。1975年には遺伝子組換えに関するアシロマ会議のまとめ役にもなり、その後も遺伝子組換えやAIDS対策に関して要職を務めた。また免疫学を中心に広い範囲の研究を主催している。

 現在の彼の研究室の研究テーマには次のようなものがある。

NF-κB:転写因子の一種で、非常に多くの遺伝子の活性化に働いており、正常細胞の調節のほか、がんやAIDSなどにも関わっていると考えられている。

免疫系:遺伝子導入により抗体遺伝子の発現やT細胞受容体などの役割を探っている。

Ryk蛋白質:Wnt蛋白質受容体の補助因子。ニューロンの成長に対する影響を中心に研究している。

 ボルティモアは数々の顕著な科学的業績を挙げたにもかかわらず、一般には不正行為への関連を疑われて(その後潔白とされたが)有名になった。

 科学スキャンダル「ボルティモア事件」

 1986年、彼はテレザ・イマニシ=カリおよび他4人の共著者とともに免疫学の論文を著した。ところがイマニシ=カリ研究室の研究員マーゴット・オトゥールMargot O'Toole(共著者ではない)がこの論文の実験を再現できず、実験ノートの記録が論文の結果に反すると主張した。

 彼女は著者たちに再試を要求し、ついにはイマニシ=カリがデータをでっち上げたと非難した。ボルティモアは初め追試を拒否したが、後に3人(イマニシともう1人を除く)とともに追試しその結果論文を取り下げた。その後この研究を助成していた国立衛生研究所(NIH)も調査を開始した。

 さらに下院議員ジョン・ディンゲルもこの問題を取り上げ、シークレット・サービスの専門家が実験ノートを分析するなど国家的な問題に発展したが、ボルティモアはこれを「学問に対する政治の不当介入」と主張した。

 彼は1990年7月からロックフェラー大学に勤めていたが、大学当局から圧力をかけられ、1991年12月に辞任した。この問題はマスコミでも大々的に取り上げられ、事件に関する書籍も、数学者サージ・ラング(ボルティモアらに批判的)や、科学史家ダニエル・ケブルズ(英語版)(同情的)によるものなど多数出ている。

 保健社会福祉省(HHS)の科学公正局(のち研究公正局)は1991年、イマニシ=カリをデータの改竄・捏造の疑いで告発し、またボルティモアをも、オトゥールの追及に対応しなかったとして批判した。1994年、研究公正局は不正があったと認定し、イマニシ=カリに10年間研究助成しないよう勧告した。

 ところが1996年になって、HHSの上訴委員会が再調査の上、「不正の証拠は全くなかった」として、すべての処分を取り消した。以上とは別に2005年10月、かつてボルティモア研究室の博士研究員だったルク・ファン・パライス (Luk van Parijs) は、論文に不正があったとしてMITの准教授職を解任された。彼はボルティモアと連名の特許を出願していたが、ボルティモアはこれについて「一部誤りがあったが、特許自体に問題はない」としている。

受賞歴

1974年 ガードナー国際賞、米国科学アカデミー賞分子生物学部門

1975年 ノーベル生理学・医学賞

1999年 アメリカ国家科学賞

2000年 ウォーレン・アルパート財団賞

参考 Wikipedia: デビッド・ボルティモア ハワード・マーティン・テミン レナート・ドゥルベッコ