善悪の区分をしない

聖書に「園の中央にある善悪を知る木から取って食べてはならない。食べると死ぬから」と書いてあります。取って食べたアダムとイブは神を失い、楽園を追放されます。善悪の区分をすることは自己を神化することであり、独善を生む行為です。絶対的な善悪は 存在しないのではないでしょうか。

「ハートビーイング」というライフスキルプログラムがあります。その中で人に言われて嬉しかった言葉を書き出す作業をします。いつもと言って良いほどトップになる言葉があります。それは「ありがとう」です。感謝の言葉が人を癒し 愛の循環を生む力を持つことが 良く分ります。

若い頃の私はモラリストが嫌いでした。 偽善者のように思えたからです。しかし偽とは人(の)為と書くのも面白い。 (無関係かもしれませんが 私が優の字が好きなのは 人が憂うと書くからです。 憂いを知る人は優しく優れている、優秀ともいえます。) 道徳律を押しつけられるのも嫌でした。 ひところ不登校が話題になりました。「よい子で頑張ること」が 不適応を生む大きな要因と言われました。 善い子とは 周りの大人にとって都合のよい子の呼称です。善い子は自分の意思より 周囲の期待や価値観に応えることを優先します。成長する中でいつの間にか自分を失っていくのです。

プロフィールで思春期の自分のささやかなレジスタンスぶりを紹介しました。この頃の自分はむしろ偽悪者を目指していたのかもしれません。虚無に目覚めた中学時代のある日から 毎日やり続けていた気象観測もぴたりと止め、レギオン遍歴をはじめました。授業は興味が持てないとボイコットに徹するのですが(教科担任に帰れと言われ 帰ると次回からは教室に入れないと宣告されました。クラス担任が平謝りに謝って事なきを得たこともありました。) 試験をボイコットした時も クラス担任が自宅まで 車で迎えに来てくれました。 教科書持ち込みでいいから 追試を受けるよう言われましたが、授業が進めば そこまでの教科書は破り捨てていましたので 持ち込み用の教科書もありません。その後はどうなったか記憶にないのですが退学届まで提出し、突き返された高校を 無事卒業してしまいました。休み時間は職員室に入り浸りの 不思議な少女でした。教師たちには主に「生きる意味」を尋ね続けるのです。ある理科の教師が「命とはリトマス反応のようなものだよ」とそっけなく言い切りました。(今はわかる気がします)教師たちもニヒリストが多く、逆に「死ぬ自由があるものとないものとどちらが幸せだと思うか?」 「浦島太郎はなぜ老人になったと思うか?」など酔狂な質問をされてしまいました。 授業中はチョークを投げつける教師が自宅にまで招待してくれました。 理科室、図書室はフリーパス。図書室は高校生になってからもフリーパスでした。 こんな私は真面目か不真面目か決められますか? 意味を問う落とし穴は 無知の底なし沼、レギオンの墓場となりました。 善悪を区別してすっきりしようとする独善からようやく解放され続けています。