中学生の頃 和多志は 「生きる意味ばかり」を求めるニヒリストでした。
授業は 興味が持てなくなると 読みたい本を読み 教室から追い出され クラス担任が担当教師に 平謝りすることが何度かありました。
休憩中は職員室に入り浸りで 教師相手に「生きる意味」を問い続けました。
ある理科の教師が 「命なんて リトマス反応のようなものだよ」と言ってのけました。
その時は大ショックでしたが 命はニュートラルなエネルギー現象であり 人生の意味は個別であり 魂が選んで決めること、そして魂の選択によってエネルギー現象が変化することを 実感するようになりました。
ある国語教師は「死ねる自由がある者と 無い者とでは どちらが幸せか」と和多志に尋ねました。
和多志が「行き着く先が墓場だから 好きなことをして、切羽詰れば死ねばよい」と断言し 自分を満たしてくれるものを求め始めたからです。
「幸せの青い鳥探し」を始めたのかもしれません。
生きる意味も、自分を満たしてくれるものも 外に求め続ける限りは決して 掴み得ないものでした。
喉の乾きを潤すために塩水を飲み ますます乾きに苦しみ 喘ぎ続けた思春期でした。
しかし死の自由とはなにでしょう?
和多志たちは日々新しい存在です。新陳代謝そのものが然り。
和多志たちは体に宿った時から死と再生を 繰り返し 成長します。
胎児に死に乳児に生まれ 幼児に死に小学生となり 子どもに死に大人に生まれ………
死と再生はセットといえます。
和多志たちは 動物の命を食することで 罪責感を煽られますが それは人間の死への恐怖の投影現象と言えるのではないでしょうか?
命は命の循環によって支えられます。
肉体の死を白装束で祝う文化も 喪服で嘆く文化も存在します。
聖書には一粒の麦が死ぬことにより 千倍、万倍の麦の命を結ぶ譬え話があります。
同じく聖書の創造物語では 人間が 動物、植物を(感謝を持って)食することは 祝福されています。
また命は循環することで 進化の過程をたどります。
動物が死を恐るとは 人間の勝手な感情移入かもしれません。
そのうえ「奇跡の脳」の著者ジル・ボルト・ティラーさん(左脳出血から立ち直った 神経細胞学者)は 人間の脳は左脳が鎮まるとき「人生の思い出から切り離され、神の恵みのような感覚に浸り、心が和んでいきました。」「意識は悟りの感覚、あるいは意識と融合して『ひとつになる』ところまで高まっていきました。」「心地よいのです。」と語ります。
https://lifeskills.amebaownd.com/posts/8835604?categoryIds=1145095 【ジル・ボルト・テイラー 復活の力【奇跡の脳】―脳科学者の脳が壊れたとき】
人間は左脳に後悔や、思い残すことがなければ 安らかな死を迎えうるとも言えます。
思い残すことがないとは「人生でやりたいと願ったことが完了し」「自分を必要としているものが居なく」、「別れを嘆くものがいない」ことかもしれません。
あるいは人生に飽き飽きしていることかもしれません。
いずれにしても 生と死はセットであり 死が前提の(他の死によって支えられる)命の歩みを感謝を持って歩みたいと願います。
修道院では「メメントモリ(死を覚えよ)」が挨拶だと言われます。
震災の痛みが死を余りにもリアルに感じさせます。死を覚えることは生を問うこととも言えます。死のワークショップも 企画してみました。
http://www.asahi-net.or.jp/~nu3s-mnm/wa-ku_memenntomori.htm 【死のワークショップ】
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