http://hsgakuin.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/post-b0e0.html より
「神である主、今いまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである。』」(黙示録1:8新改訳)
主なる神の御本性を示すため、荘厳さに満ちた表現が用いられている。すなわち、過去、現在、未来を通し、永遠に存在される方、ありとあらゆる被造物を支配しておられる方、そしてアルファでありオメガであられる方、これが唯一にして真なる神だ、とヨハネは証しする。▼アルファ、オメガは日本語でいえば五十音の初めと終わり、あ、んを指す。人は言葉により生きる者であるから、つきつめていえば、「あ~ん」の中に全生涯が存在するといえよう。それが神の本質ということは、人間にとっては文字通り神がすべてのすべて、ということだ。反対に、自分にとって神がすべてである、という事実を否定して生きること、それが罪の本質になってくる。▼人は「独立自尊」とうそぶく者がいるが、心臓ひとつ自分で動かせず、数分呼吸が止まれば死んでしまう存在なのに、自分は独立自尊だ、などとまちがっても言う資格はないだろう。どんなに肩をいからせても、私たち人間は朝に生え出で、夕べには枯れるはかなく、弱い生物である。ただ創造主の慈しみにより生かされていることを思い、御前に跪いて礼拝する者でありたい。
◆その昔、生まれ出るやすぐ、天上天下唯我独尊と言った人物が存在したと伝わる。しかし幼子イエスはマリヤの胸に抱かれたとき、すやすや眠る普通の赤子であった。周囲が異なっていたのである。天が開き、無数の御使いが現れ、神をほめたたえつつ、「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」(ルカ2:11同)と告げた。さらに、全宇宙に救い主の誕生を知らせるひとつの星が輝き、それを悟った賢人たちはベツレヘムにやって来た。エルサレム神殿では、シメオンとアンナがこの幼子を見て、人々に証言した。イエスは自分から唯我独尊と言ったのではない。天が告げ、地が証ししたのだ。◆今やこのお方が、御使いを遣わし、地上の人々に語り告げる。「見よ。わたしはすぐに来る」(黙示録22:12同)と。
殺戮の天使と有翼スフィンクス(ルシファー)の謎
http://ssg2.seesaa.net/pages/user/m/article?article_id=151480054 より
ギザの三大ピラミッドとセットで、エジプトを象徴するのがスフィンクスである。
エジプトには、無数のスフィンクスの壁画が存在する。
2匹一対のスフィンクスの壁画も少なくない。
ノアの大洪水以前、スフィンクスは2体がぺアで並んでいたのである。
それは守護神としての獅子であり、古代イスラエルやインドにも伝来し、王権のシンボルとされた。
それは、やがて朝鮮半島を経由して日本にも伝来し、神社の獅子と狛犬となった。
近代に入って、獅子(ライオン)の対が一角獣(ユニコーン)になったが、本来はどちらも獅子だった事が分かる。
それは、地獄の番犬ケルベロスのようなものだ。
ケルベロスは1匹しかいないが、頭を3つ持つことで三位一体を象徴する。
狛犬は2体だが、「阿吽」を表している。
阿と吽は「最初と最後」であり、イエス・キリストも「私はアルファであり、オメガである。最初であり、最後である」と語っている。
α(アルファ)とΩ(オメガ)は、ギリシア語アルファベットの最初と最後である。
それらはヒンドゥー教の「A・UM」(阿・吽)で「オウム」と発音するが、「A・U・M」で絶対三神を象徴する。
本来、2体存在したスフィンクスも、「阿吽」を表していた事は自明の理である。
換言すれば、一対の大スフィンクスは「イエス・キリスト」でもあり、ヒンドゥー教の絶対三神でもあると言っても間違いではない。
スフィンクスには様々なバリエーションがあるが、人頭獅子身型のスフィンクスを「アンドロスフィンクス」と呼ぶ。
言わずもがな、その最大のものが大スフィンクスである。
古代エジプト人は、大スフィンクスを「ホル・エム・アケト」と呼んでいた。
意味は、「地平線のホルス神」である。
ホルスは隼の頭を持つ太陽で、死と復活を経験した「イエス・キリスト」の予型である。
従って、大スフィンクスは単なる獅子ではない。
人間の顔と獅子の体を持ち、象徴として鳥の翼を持つ。
大スフィンクス自体には翼はないが、翼が描かれたアンドロスフィンクスは少なくない。
しかも、古代ペルシアの有翼人頭獅子身像のルーツが、古代エジプトのライオンの頭と翼を持つ「ヘルメス神」だという伝承がある。
それは、『旧約聖書』に登場する神の戦車「メルカバー」の象徴だ。
「わたしが見ていると、北の方から激しい風が大いなる雲を巻き起こし、火を発し、周囲に光を放ちながら吹いてくるではないか。
その中、つまりその火の中には、琥珀金の輝きのようなものがあった。
またその中には、四つの生き物の姿があった。
その有様はこうであった。
彼らは人間のようなものであった。
それぞれが四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた。
脚はまっすぐで、足の裏は子牛の足の裏に似ており、磨いた青銅が輝くように光を放っていた。
また、翼の下には四つの方向に人間の手があった。
四つともそれぞれ顔と翼を持っていた。翼は互いに触れ合っていた。
それらは移動するとき向きを変えず、それぞれ顔の向いている方向に進んだ。
その顔は人間の顔のようであり、四つとも右に獅子の顔、左に牛の顔、そして四つとも後ろには鷲の顔を持っていた」
(「エゼキエル書」第1章4-10節)
「ケルビムにはそれぞれ四つの顔があり、第一の顔はケルビムの顔、第二の顔は人間の顔、第三の顔は獅子の顔、そして第四の顔は鷲の顔であった」
(「エゼキエル書」第10章14節)
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