http://v-d-s.hatenablog.com/entry/2016/11/26/133307 より
禅の曹洞宗を開祖した道元(1200年 1月19日−1253年9月22日)はこんなことを言っています。
有名な話ですから知っている人も多いでしょう。
ある時、弟子が師の道元に聞いた。
「人間は皆仏性を持って産まれていると教えられたが、仏性を持っているはずの人間になぜ成功する人としない人がいるのですか」
「教えてもよいが、一度は自分でよく考えなさい」
道元の答えに弟子は一晩考えたがよく分からない。
翌朝、弟子は師を訪ね、ふたたび聞いた。
「昨晩考えましたが、やはり分かりません。教えてください」
「それなら教えてやろう。成功する人は努力する。成功しない人は努力しない。その差だ」
弟子は、ああそうか、と大喜びした。
だがその晩、疑問が湧いた。
仏性を持っている人間に、どうして努力する人、しない人が出てくるのだろうか。
翌日、弟子はまた師の前に出て聞いた。
「昨日は分かったつもりになって帰りましたが、仏性を有する人間に、どうして努力する人、しない人がいるのでしょうか」
「努力する人間には志がある。しない人間には志がない。その差だ」
道元の答えに弟子は大いに喜んで、納得し家路につく。
しかしその晩、またまた疑問が湧いた。
仏性のある人間にどうして志がある人とない人が生じるのか。
弟子はまた師の前に出て、そのことを問うた。
道元は言う。
「志のある人は、人間は必ず死ぬということを知っている。志のない人は、人間が必ず死ぬということを本当の意味で知らない。その差だ」
私たちは漠然といつかは死ぬだろうということを知っています。
いや、意識しなければそれすらも忘れているかもしれません。
それでも、身近な人が亡くなると否が応でも死を意識せざるを得なくなります。
そんな時ですら、私たちは意識の片隅ではこんなことを考えていることでしょう。
この人は亡くなったが私は亡くならない
亡くなるとしてもずっと先のことだ
多くの人はこんなふうに死を遠ざけて生きていることでしょう。
残念ながら、どんなふうに考えても、死を意識してもしなくても、
私たちは必ず、絶対に死にます。
死ぬ時期も全く分かりません。
交通事故や災害、事件、闘病中の突然の悪化、脳出血や心臓発作など
私たちの生活を見渡してもこれらで亡くなってしまった人は必ずいることでしょう。
私たちは今、たまたま死んでいないから、死を自分のこととして捉えず、
自分は死を体験はしないのだと勘違いするのです。
あるいは、死ぬことを考えると急に不安になって怖くなるから、
それから逃避するために考えないようにするのです。
しかし、それでも絶対に死にます。
その時期はわかりません。
MEMENTO MORI(「死を思え」、あるいは「おまえは必ず死ぬ運命にあることを忘れるな」)という言葉を聞いたことがあるでしょうか。
ウィキペディアによると
古代ローマでは、「将軍が凱旋のパレードを行なった際に使われた」と伝えられる。
将軍の後ろに立つ使用人は、「将軍は今日絶頂にあるが、明日はそうであるかわからない」ということを思い起こさせる役目を担当していた。
そこで、使用人は「メメント・モリ」と言うことによって、それを思い起こさせていた。
どんなに栄光に満ちても、どんなに権力を持っていても絶対に死にます。
その時期はわかりません。
生きているということは死んでいないということであり、
確実に死に向かっているということでもあるのです。
教会の装飾でもこの言葉が使われたり、
絵画でも死を想起させるものが描かれたりしました。
この絵では、頭蓋骨、死に向かっている時を示す時計(砂時計)、
今から散ろうとしている花など
人生や栄華のむなしさを示しています。
道元が言う
「志のある人は、人間は必ず死ぬということを知っている。志のない人は、人間が必ず死ぬということを本当の意味で知らない。その差だ」
この言葉はとても重いものです。
私たちは日常で悩み、苦悩し、絶望します。
しかし、死を前にしたとき、それでもその悩みがそんなに重要なものなのでしょうか。
そもそも私たちがいま生きている人生に点数をつけるとしたら何点なのでしょうか。
もし、今から死んでしまうとしたらその点数のままの人生でいいのでしょうか。
死を前にして、
あいつが悪い、あいつのせいだ
ネットで悪口を言われた
既読無視をされた
など日常のどこにでもあることが、それでも重要ことなのでしょうか。
死ぬ前に後悔することにはこんなことがあります。
1 他人がどう思うか、気にしすぎなければよかった
2 他人の期待に沿うための人生ではなく、自分が思い描く人生を歩めばよかった
3 あんなに仕事ばかりしなければよかった
4 もっと一瞬一瞬に集中して生きればよかった
5 喧嘩別れしなければよかった
6 もっと他人のために尽くせばよかった
7 もっと家族と一緒の時間を過ごせばよかった
8 友達との時間を大切にすればよかった
9 もっと旅をすればよかった
10 リスクを恐れずにいろいろ挑戦すればよかった
11 もっと自分の情熱に従って生きるべきだった
12 あれこれと心配し過ぎなければよかった
13 もっと自分を幸せにしてあげればよかった
14 周りの意見よりも、自分の心の声を信じるべきだった
15 愛する人にもっとたくさん気持ちを伝えるべきだった
16 もっと幸せを実感するべきだった
17 もっと時間があれば・・・
http://tabizine.jp/2015/04/18/35333/
(よりよく生きるために知っておきたい 人が死ぬ前に後悔する17のこと)
どれもありふれたものばかりです。
このありふれたことすら私たちは死を前にして振り返ると後悔することばかりなのです。
このように考えると、
私は必ず死ぬ、いつ死ぬかわからないと本当の意味で知ることは、
どうやって活き活きと生きるかを気づかせてくれる大きなきっかけになるのです。
もう一度自分に聞いてみましょう。
もし、今のまま人生が終わるなら何点でしょうか。
いつか何とかなるという「いつか」は存在しないということを私たちは経験的に知っています。
単に先延ばしの言い訳に過ぎないということも知っています。
死を思うことは、今を生きるということでもあります。
MEMENTO MORIとともに使われた言葉が
CARPE DIEM(今を生きよ)
です。
古代ローマの詩人のホラティウスの詩
Carpe diem quam minimum credula postero
(明日のことはできるだけ信用せず、その日の花を摘め)
からの引用です。
私たちの人生はとても短いものです。
死んでしまうと、それで終わりです。
1年間で5500万人くらいが亡くなっています。
毎日世界では15万人くらいが亡くなっています。
これまでの地球の人口から見たら、もっともっと小さな存在です。
私という存在は全世界の70億分の1にしかすぎません。
ひ孫以下の代になると誰も私たちのことなんて覚えていません。
そして、その地球すら宇宙から見たら埃の大きさにもならないくらいちっぽけなものです。
宇宙ができて137億年の時間から見ると、私という存在はどうでもいいものなのです。
本当にちっぽけな存在なのです。
自分にとって人生を揺るがすように見える大問題でも、
他人や社会や宇宙から見たら全く関係のない、どうでもいいことなのです。
私の思いや私の感情に執着して、
苦しみを自ら作り出して、
むやみに人と争い、
できない理由を掲げて何もしない
そんなことをしてどんな意味があるというのでしょうか。
私たちが
「できない」
と考えていることは、単に「しない」ことを「できない」と取り繕っているにしかすぎません。
物理的に不可能なこと以外は、必ずできるのです。
それを妨げているのは、
死を本当に知らず、つまり生きていることを自覚できていないからこそ、
自分に自分が制限をかけて「できない」と言っているだけなのです。
三度、自分に問いましょう。
もし、今のまま人生が終わるなら何点でしょうか。
死を前にしたとき、多くの気づきがあります。
死を前にしたとき、私たちが持つ苦悩のほとんどは意味をなくしてしまいます。
死を前にしたとき、私たちが残された人生をどう過ごすべきかわかります。
一度しかない人生なのです。
死んでいった人と同じ後悔を私たちはするでしょう。
しかし、その後悔を少しでも減らしてゆきたいものです。
私たちは必ず死ぬべき存在であること
その死の時期は誰にも分らないこと
だからこそ、今を活き活きと生きること
が大切ではないでしょうか。
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