人間の脳の働きの行動の生成・2 「知的記憶と行動」の生成

https://www.porsonale.co.jp/semi_c189.htm   より

「行動停止」は「多元的無知」がつくり出す

 「脳の働き方」のソフトウェアとしてのメカニズムについてのお話をすすめます。今回のテーマは、「人間の知的記憶と行動は、どのようにつくり出されるのか?」です。具体的な事例からご一緒に考えてみましょう。

 まず、次の「あなたの性格の一般的な傾向とはこういうものです」とする記述からごらんください。

 「あなたは、人前ではできるだけ明るくふるまおうとする。しかし、一人になると悲観的になりがちである。

 他人には、しっかりしているという印象をもたれるように努力するが、いくつも自信がなくて実行しなかった弱い性格をかかえている。

 人から好かれたいと願っているが、キズつくのが嫌で、自分から声をかけないことが多い。

 本当のあなたの性格は、夢だけを願望するが、悲観しやすい人なのだ。その証拠に、今、あなたは、仕事や異性についてのことで、重大な悩みをひそかに抱えている」

 「これは、あなたの性格のプロフィールである」と言われたとき、どのような感想をおもちになるでしょうか。

 おそらく、「なるほど、そうかもしれない」というように肯定的にとらえたのではないでしょうか。

 「なるほど、自分に当てはまる。自分の性格はこういうものかもしれない」と肯定的に感じることは、特定の人物に限定されるものではありません。誰にも当てはまるように表現されているから、特定の人が読んでも「なるほど、そうかもしれない」と実感されます。

 このように「誰にも当てはまる」と感じさせることは「バーナム効果」といわれています。

「バーナム効果」のつくられ方

 「バーナム」とは何か?といいますと「バーナム・サーカス」のことです。「誰にも受け入れてもらえる演出物」と評されたことに由来しています。

 この「バーナム効果」は、その後広く応用されました。

 その一例が「占い」や「まじない」「予知能力」などです。

 ここでは、「言葉」というものをどのように理解するか?ということについての重要な示唆があります。

 人間は、「自分に当てはまる」という印象(右脳に表象(ひょうしょう)されるイメージのことです)があれば、そこで述べられている言葉のとおりに実行する、ということが語られているのです。「バーナム効果」の場合は、「行動」の本質の「自分にとって楽しいことがもたらされる」「自分に得することがもたらされる」の二つの本質のうち「楽しいことが実現した」という「行動の完結」が「右脳」に表象されています。「右脳系の大脳辺縁系」の「扁桃核」や「側坐核」の記憶と、「海馬」のエピソード記憶が表象されています。「扁桃核」の「好き」「おもしろくて安心できる」という価値の記憶と、「側坐核」の「自分もこういうことが実行できればどんなにか満足だろうか」という疑似体験の記憶と、いつかどこかで見たり、聞いたり、行ったことがある、というエピソード記憶が表象されます。これが「バーナム効果」です。「バーナム効果」では、「行動の完結の言葉」(「何を」と「どうした」の言葉による表現がバーナム効果をもたらします)が表現されます。「バーナム効果」を強調する「占い」「宗教」も「バーナム・サーカス」のアピールと同じ表現の手法がとられています。

 「バーナム効果」は、必ずしも「自分に楽しいことがもたらされる」というイメージの表象だけが表現されているのではありません。その好例が「誰にでも当てはまる性格のプロフィール」です。ここでは「悲観する」「実行しなかった」「声をかけない」「不安を抱えて悩んでいる」などの言葉が「負のバーナム効果」を生み出します。

 「負のバーナム効果」とは、「自分は楽しくない」「自分だけが損をしている」という「負の行動のイメージ」を表象させることをいいます。

 心理学者スナイダーは、「バーナム効果」を表象させる多くのビジネス、占い、予言などで用いられている表現とは、次のようなものだと発表しました。

「あなたは、他人から好かれ、賞賛されたいと願っている」

「あなたは、自分自身にたいして批判的な傾向がある」

「あなたには、まだ使っていない能力がある」

「あなたは、性格的に弱点もあるが、たいていはそれを補うことができる」

「あなたは、現在、性的な適性に関する問題をかかえている」

「あなたの外見は自立的で、自己管理しているように見えるが、内面は心配性で不安定な傾向もある」

「あなたは、時々、自分の決断や判断が正しかったのかどうか、深刻に悩むことがある」

「あなたは、ある程度の変化と多様性を好み、禁止や限定をつけられると不満を覚える」

「あなたは、自分のことを他人に素直に明かしすぎるのは賢明ではないと思っている」

「あなたは、時として外交的、社交的で愛想がいいが、内面的で用心深く、内気になる時もある」

「あなたが抱いている望みのうち、いくつかはあまり実現しない」

「あなたの生活における目標の一つは、安全である」

 (『不思議現象、なぜ信じるのか』北大路書房、一九九五年より)

バーナム効果は「多元的無知」がつくる

 スナイダーは、1から12までの「性格診断」を「Aグループ」「Bグループ」「Cグループ」「Dグループ」に分けておこないました。

 1から12までの項目の「性格診断」をおこなった後に、次のように伝えます。

 Aグループへは「投射法による心理検査」、

 Bグループへは「筆跡学による診断」、

 Cグループへは「占星術による診断」

 Dグループへは「一般的に誰にでも当てはまることです」、

 スナイダーはA、B、C、Dの各グループの人に「診断結果が自分の性格に合っているか、どうか?」を尋ねました。すると、「Aグループ」「Bグループ」「Cグループ」の人は、「自分の性格として当っている」と答えた人が多かったのです。しかし「Dグループ」の人は「自分には当てはまらない」と答えた人が多い、という結果になりました。

 この二つの結果は、何を意味するのでしょうか。

 「言葉」には、その「言葉」のもつ意味があります。その「言葉の意味」を正しく理解していない場合に、1から12のように「自分に向けられた言葉」を目にしたり耳にすると、「自分に当てはまる」か「いや、自分には当てはまらない」のいずれかの結果になるのです。「自分に当てはまる」か「自分に当てはまらない」の結果の違いは何によるのでしょうか。それは、「権威に従う」「自由に自主判断する」の違いによります。投影法や筆跡学、占星術のそれぞれは実際にはどのようなものか?は分からなくても、このそれぞれは「権威」としてとらえられています。「権威」とは、「たくさんの人が評価している」と言い換えても同じです。「言葉の意味が分からない」という場合、人は「権威」そのものを「意味」として「オペラント条件づけ」のイメージを「右脳」に表象させるということが分かるでしょう。

 一方、「権威」による意味づけが無い場合、ここでは「自分で意味を思い浮べる」ということをおこなわなければなりません。すると、初めから「1から12までの文とこの中の言葉の意味」は記憶されていないので、「この言葉では行動できない」という認識の仕方になるのです。「行動できない」とは何のことでしょうか。1から12までの項目は、「一般的に誰にでも当てはまる内容である」として、スナイダーによってピックアップされています。したがって、「権威」によって意味づけされてもされなくても誰にたいしても該当します。「行動する」「行動しない」というのは、「カタルシス効果」を求めて自分を理解してもらうための関わりの行動を起こす、ということか、行動を起こさないかのいずれかのことです。1から12までの「文」の中の言葉を変えれば「占い」や「手相」のサービスを求める行動になるでしょう。あるいは「アルツハイマーなどの痴呆の診断」にもなるでしょう。または、「ADHD」(注意欠陥行動障害)などの診断となり、リタリンの投与の行動になるかもしれません。

転職、学校を辞める、などの「多元的無知」のしくみ

 「自由に自主判断する人」は、1から12までの「文」とその中の「言葉の意味」のイメージが「右脳」に思い浮ばない人のことです。表象(ひょうしょう)しないといいます。ここでは「行動が止まる」ので、オペラント条件づけのメカニズムによる「負の行動のイメージ」が表象します。「自分は楽しくない」か「自分だけが損をしている」かのいずれかのイメージのことです。「右脳系の大脳辺縁系」にある「線状体」(せんじょうたい)が記憶している不安のイメージが喚起されるのです。不安の内容と程度によって、過去の不安のエピソードが「海馬」の記憶から想起されます。すでにお話しているとおり、脳は「快感報酬」を原則にして働いています。「負の行動のイメージ」がいったん表象されると自律神経の恒常性(ホメオスタシス)のオートマティックな機能によって「X経路」(副交感神経)が優位に働いて、つねに「不安のイメージ」が喚起しつづけます。「脳の快感報酬」の法則は、この「不安」を快感に変えるように働きます。それは、「不安」から逃避する、という言い方でもいいのですが、「不安を快感に変える」というのが脳の働き方です。なぜならば、いったん不安のイメージという「負の行動のイメージ」を表象させた人は、つねに「行動停止」か「半行動停止」の人ですから、「楽しい行動」をおこなっても「負の行動のイメージ」がなくなるわけではありません。「仕事がおもしろくないので別の良さそうな仕事に転職した」としても「負の行動のイメージ」が「右脳」に思い浮びつづけてつねに不安を抱えながら仕事をすることになるでしょう。

 これは、初めの不安をつくる行動パターンを、次の新しい職場でもくりかえして、ここで不安の行動がつくる欠陥なり、失策なり、対立的な言動なりが「右脳の不安のイメージ」とぴったり一致して「ドーパミンを分泌する」というように脳は、働くのです。これが自律神経の恒常性(ホメオスタシス)の働き方です。

「多元的無知」とは、言葉を「記号」として憶えていることが遠因

 ここまでの事例をとおしたお話では、「権威に従うという言葉の記憶の仕方」も「自由に自主判断する言葉の記憶の仕方」の二とおりがあるということをお伝えしています。このいずれも、「言葉」を「記号として憶えている」ということが共通しています。そしてこのいずれも「負の行動のイメージ」を「右脳に表象させる」ということが共通しています。

 では、人は、いったいなぜ、「言葉の意味」を記憶していないので自立した脳の働き方を目ざして改善するというように考えないのでしょうか。それは、「負の行動のイメージ」を喚起させて「不安のイメージを表象させているのは自分だけである」という孤立状態に陥るからです。「多元的無知」といわれています。「多元的無知」とは社会心理学の用語です。いいかえれば、不安という負の情緒がつくる「うつの症状」が「多元的無知」です。

 「多元的無知」の分かりやすい事例をご紹介します。

 学校の授業で、教師がひととおり話し終えたという状況があります。

 「何か質問はありませんか?」と教師が聞きます。理解できた生徒は数人しかいないという展開です。理解できなかった生徒は、「分かっていないのは自分だけだ」と思い込みます。しかし、誰も手を挙げて質問しようとはしません。「多元的無知」とは、手を挙げて質問しないというようにみんなが同じ行動を示しているのに、自分の認知や認識だけが他者とは違っていると間違って信じ込む状態のことです。

 また、逆のこともいえます。

 童話に『裸の王様』があります。

 見物人は、「王様が裸に見えるのは自分だけだ」と思い込んでいます。そこで、見えてもいない王様の衣装をほめそやします。

 「自分は本当はよく分かっていない」ということを隠して「正しく分かる」ための正直で正当な行動をとらない、というのが「多元的無知」です。「自分は本当は良く分かっていない」ということを言えば、恥をかいて決定的に孤立してしまうために、「自分は分かっているのだ」という見せかけをことさらに誇示する、というのが「多元的無知」といわれているものです。

「多元的無知」の起源

 「多元的無知」の病的なメカニズムは、「自分の態度は見せかけだ」としっかり自覚していながら、「他人」には「よく分かっている」というフリをしてしまうというところにあります。この「多元的無知」という恥をかいて孤立することを恐れるあまりの「うつ病」は、「言葉」を「記号」として憶えています。「言葉の意味」の代わりに「権威」(世間に流通している多数者の意思)に迎合して「行動」を適合させるのです。

 この「権威」としての「言葉」を憶えていないのに「行動すること」を要求される場面で「自由で自主的な判断」の「行動」があらわされます。ここには、言葉を記号として記憶するということもありません。すると「行動停止」か、もしくは「半行動停止」による「負の行動のイメージ」が常習的に右脳に喚起しつづけます。

 すると「多元的無知」の見せかけの行動の誇示が瓦解して「不安」のイメージが「恐怖」のイメージへと進行するのです。

 これまでの説明をとおして、みなさまとご一緒に何を考えていることになるのでしょうか。

 「人間にとっての知性とは何か?」についてご一緒に考えています。「人間は、知性というものをどのように生成するのか?」がテーマになっています。これまでの「多元的無知」の事例をとおして、お分りになったことは、「人間は、言葉を憶える」にあたり、「権威に相当する人間」から受け取った言葉を記憶することがある、ということです。この場合の「権威」とは、ノーベル賞を受賞した人物、といったように社会的に「評価が確定している」といったことだけを指しません。

 人間には「欲求」というものがあります。「自然な欲求」は「食欲」「休息欲」「性欲」の三つです。もう一つ「人工的な欲求」というものがあります。「権力欲」「財力欲」「名誉欲」の三つです。

 「欲」とは、生きていく上で実現しなければ個体が消滅する、というように、生命体が存在する根拠になるものです。「人工的な欲求」は、「人間は、社会性の世界でしか、自然な欲求を実現することができない」という本質にもとづいて「自然な欲求の実現」の二義的な価値を象徴します。「権力」か「財力」か「名誉」かのいずれかを実現すれば、一生、死ぬまで「自然な欲求の実現も保証される」ということの象徴です。

 すると、「財力欲」を社会の中で実現したいと欲求している人は、この「財力」を実現している人間の話す言葉を「権威」として認知するでしょう。この人物の語る言葉の「意味」は分からなくても「記号」として憶えてそのとおりに行動するでしょう。「記号としての言葉」とは「その言葉の意味は何ですか?」と問われて、「分からない」と答えた時の「記憶されている言葉」のことです。「たぶん、こうじゃないかなって思うんですけどね」と答える時の「記憶されている言葉」も「記号としての言葉」です。

「多元的無知」が招くリスキーな生活

 「権威」とは、一般的に「権力」(例えば、会社の上司など)、「名誉」(例えば、有名人、好きな恋人が言った言葉、自分の願望を満たしてくれる占いの言葉、自分のトカゲの脳からの分泌を刺激させてくれる出会い系サイトのお誘いの言葉、など)として流通している言葉が「多元的無知」をつくり出すのです。「多元的無知」は、なぜ不可能なのでしょうか。

 「行動停止」をつくり出して「無意識」といわれる脳の記憶の「記憶のソース・モニタリングの混乱」を招く脳の働き方になることが不都合なのです。「記憶のソース・モニタリングの混乱」とは、「思い出される記憶」に「いつ」「どこで」「誰が」「どのように」という因果関係が脱落したり、「いつ」「どこで」の事実関係が錯覚されることをいいます。これが「多元的無知」の実体です。「多元的無知」とは、単に「行動すること」だけのための言葉がつくり出します。単に、「行動するためだけの言葉」が「記号としての言葉」です。ここでは、「右脳」のブローカー言語野の3分の1のゾーンに「触覚中心の行動のイメージと、触覚によって認知された対象」が「クローズ・アップ」のイメージとして表象(ひょうしょう)されることがお分りでしょう。

 「行動してよい」という時は、明るく、色彩豊かなバラ色のイメージです。「行動するな」という時は「グレーの色がだんだん暗く、黒くなって、自分が破滅している恐怖のイメージ」が表象(ひょうしょう)されるでしょう。

 平成20年2月18日付の日経に「学校は変わるか」(新学習指導要領)欄に、次のような記事が載っていました。

 「京都市立御所南小6年」の「総合学習」の取り組みの例です。

 「新製品の形をちらりと見せることで、想像力と期待をふくらませる」、「立ち上る湯気の写真が、この季節に食べたい、と思わせる」。

 「携帯電話や食品の広告のデザイン、写真の真の狙いを探り、売り手の発信するメッセージについて議論させている。情報を整理して、必要な部分を読み取って伝える言葉の力がついてきた」(藤本鈴香教諭の話)。

 これが「権威の言葉を記号として憶える」ということの好例です。なぜでしょうか?ここでは、「商品を買うか、買わないか」が「行動」です。「買う。OKです」ならばクローズ・アップした極彩色のイメージが、「言葉の意味」になるからです。「買わない。NO(ノー)です」ならば、暗い灰色のイメージがこの時の「言葉の意味」になるでしょう。パブリック・リレーションとして、「クローズ・アップした極彩色のイメージ」を喚起させる「言葉」を系統的に発信しつづければ、「うつ病の薬」や「リタリン」(多動症むけの薬)も「有用である」として「飲む」「飲ませる」という行動にむすびつきます。このような「行動」が「多元的無知の行動」です。

  そこで、次の問われるのが「人間の脳の働き方にとって知性とはどういうものか」です。

『赤ん坊から見た世界・言語以前の光景』

(無藤隆、講談社現代新書)

より、「乳児」の「知性」の獲得の仕方をご紹介します。

乳児(0歳6ヵ月から0歳8ヵ月)の「移動」(身体を動かすこと)は、母と子の関係の相互作用にも影響を与える。

「見知らぬ人が近づいてきた」という時の母親の表情と、「乳児」の表情の関係を比べる、という観察がある。

「移動の能力」がそなわった「乳児」は、「母親」にたいしてより敏感になる。

母親が「楽しい表情」を示した時は、乳児は、母親の楽しそうな表情に対応して「ほほえむ」。母親が「恐がっている表情」の時は、乳児は「真剣な表情」を示す。

「移動できるようになった乳児」のグループと、「まだ移動できない乳児」のグループ、「歩行器で移動する乳児」のグループの三つのグループの「母親」へのインタヴューをおこなった研究がある。インタヴューで得られた内容は次のようなものだ。

乳児が移動するようになると、家の中に変化が生じる。

乳児にたいして、親は、より大きな「責任」を付与するようになる。

親は、乳児にたいして「自分の期待」をより多く伝えるようになる。

親は、乳児にたいして「怒り」を示すようになる。「乳児の移動」にともなう危険を防ぐ意味の「怒り」もある。

親は、乳児にたいして「機嫌」が悪くなるだけでなく、「肯定的な感情」も多く示すようになる。

親は、「言語的」に愛情を示したり、抱きしめたり、さまざまな遊びをおこなうことが増えてくる。

乳児が移動できるようになると、「親の子どもへの関わり」は、接近した位置からもっと離れた位置から子どもをコントロールするようになる。

乳児も、母親から離れた位置から「母親の表情を見る」「母親の声を聞き取る」。これを情報として乳児は自らの「行動」を統制するようになる。

乳児は、「遠くで起こっている出来事」についても反応する。(例・猫がいると関心をもち、近づいていく)。

乳児は、「自分がやってはいけないかもしれないことをやっている」時に、「親が自分を見ているかどうか」をチェックする。親の動きをチェックしながら「自分なりの行動をとる」という動き方をする。

乳児は、自分の目標が達成できない時に「怒り」をあらわす。また目標を達成すると「喜び」をあらわす。

乳児は、目標の達成のためにいくつかの手段を選んで行動するようになる。

 目標の達成に、時間の順序性が成立していく。

「歩行器を使って移動する乳児」には、このような変化は生じない。移動の範囲が台所の中に限られていて、それ以上に移動できないからではないか、というのが「母親」らの考えである。

「移動」は、ある程度までの広さのところまで移動できて、この移動の過程でさまざまな「おもしろいもの」に出会うことが重要であるようだ。乳児は、移動によって「探索」をおこなっているのである。

「行動」を模倣して、記憶してその「行動」の意味を記憶する脳のメカニズム

 無藤隆(むとうたかし)が紹介するアメリカなどの研究者による「乳児」(0歳6ヵ月から0歳8ヵ月)の「行動」の事例では、「母親」の「表情」や「言葉」が「ものごと」との関わりを成立させたり、もしくは成立させない、とのべられています。

 この年齢の乳児は、まだ言葉を話せません。しかし、母親の「話す言葉」の「声」は聴くことはできます。乳児は「母親の声」をどのように聴くのでしょうか。「OK」か「NO(ノー)」かのいずれかの「行動の意味」を聴くのです。移動している時の乳児の「目」は、「Y経路」が中心です。「Y経路」はおもに「左目」(右脳)による「パターン認知」をおこないます。「Y経路」は、自律神経の交感神経の働きがそのまま「視覚の機能」の記憶になったメカニズムのことです。眼でいうと「瞳孔が開いて、光をたくさん眼の中に入れる」というのが交感神経のメカニズムです。

 この「Y経路」のメカニズムの記憶とは、「物の動きの認知」および「物の動きのパターンの認知」そして「物事のパターンの認知」のことです。

 乳児がまだ動けず、受け身のままの状態の時は、「母親が自分の方へ接近して来る」「母親が自分から遠ざかっていく」という「動きのパターン」を認知していました。「母親」の動きが止まったり、「母親」の姿が乳児の視野から消えて見えなくなったその瞬間が、「動きの完結」として認識されました。この認識は「X経路」によって記憶されることをいいます。

 「X経路」は、自律神経の副交感神経のことでもあります。「眼の機能」でいうと「瞳孔」を絞って焦点を合わせるというメカニズムを「左脳」のブローカー言語野の3分の1のゾーンに記憶させます。この「焦点を合わせる」というメカニズムが記憶されるのです。「焦点を合わせる」と光が一個所に集中します。この集中した光が映し出す「生理的な映像」が「こまかい形状」「点や線、面のいりくんだ形象、そして彩色」です。

 乳児は、「母親の動き」を「X経路の機能」のメカニズムに映った「動きが変わった」「姿が見えなくなった」「楽しそうな母親の表情が近づいてきて大きく見える」などの「動きのパターン」を認識しました。「動きのパターン」とは、動きの始まりから終点までの「動きの完結」のことです。この「動きの完結」は、乳児自身は動いていないので「二・五次元の認知、および認識」です。

 乳児が独力で動くようになると、「動きの完結」の認知と認識が新たに記憶されなければなりません。乳児の「行動」も、「行動」の本質の「楽しいことがもたらされる」ことか「自分にとって得することがもたらされる」かのどちらかに規定されます。「食べる」「眠る」「排せつする」「入浴する」などの自然な欲求は、母親が実現してくれます。すると、何が「乳児」にとって「楽しいこと」や「得すること」になるのか?というと、それは「母親の表情」「母親の声」(言葉)です。この段階の乳児の「行動」は、「母親の動き」を目で見た「模倣」による学習の記憶としておこなわれています。この「模倣」による学習は、Y経路によるパターン認知を大脳辺縁系で記憶し、同時に右脳と左脳の新皮質の細胞群(ペンフィールドの地図のことです)で記憶し、そして「小脳」の「右脳系の小脳」と「左脳系の小脳」の「小脳核」で、手、足などの自動的な動きが記憶されます。

 この小脳の「身体の動きの自動的なパターンの記憶」は、「ウサギによる実験」がよく知られています。「ウサギの目に風を吹きつける」、すると「ウサギは人間と同じように、まばたきをする」「風の音を聞かせただけでまばたきをする」、「風が目に当たるという無条件反応は、右脳系の小脳で記憶する」、「風が目に当たらなくても、風の音を聞いただけでまばたきをする、という条件反応は、左脳系の小脳で記憶する」(一九八二年。マコーミックの研究による)、といった内容です。

 乳児の「動くこと」も、この「ウサギの実験」のとおりに模倣して学習し、そして「左脳系の小脳」と「右脳系の小脳」で自動的な運動パターンが記憶されておこなわれているのです。

 この模倣による運動機能の学習と記憶は、動いた結果、関わりをもつ対象と「触覚の認知」の次元で一体化した、という意味をもつにすぎません。自分が動いて、物に触って、それが乳児にとってどういう意味をもつのか?と問うとき、ここでは、何の変化も作用も生じません。猫がいて、近づいて行き、手で猫を触ると、猫は嫌がってどこかへ去っていくでしょう。「行動」の本質の喜びも、楽しみも享受されない、ということです。

行動を「記号としての声」で記憶する

 しかし、ここで母親が「喜びの表情」を見せたり「怒った表情」を見せると、これが、乳児自身の行動の意味になるのです。この行動のパターンがくりかえされると、「記憶」の中で「行動」だけが分離して「新たな記憶」になるのです。

 Aという対象との関わり…母親の喜びの表情として記憶

 Bという対象との関わり…母親の怒った声が記憶

という二つのパターンが「新たな記憶」です。この「A」と「B」が「行動の記号としての言葉」になるのです。

 乳児は、母親からくりかえし「喜びの表情と声」および「怒りの表情、そして声」を見て、聞くでしょう。

 このときの二つのパターンの「行動」が「どのように」(「喜び」か「怒られる」かの内容)という関わり方の経験として「長期記憶」になります。この二つのパターンは、「言葉の意味」になるのです。

 この二つのパターンの行動の「どのように」の内容は、行動の内容の「方向」(行くのは止めなさい、もしくは、行きなさい)、「角度」(「あぶないよ」「上手だね」「はい、あげるよ、どうぞ」)、「距離」(「あれは何だろうね」「おもしろいよ」「お母さんはここにいるよ」「あれは、かわいいうさぎだよ」)といったように、「行動」が「行動のソースモニタリング」として表象されるときに、内省の対象として記憶され、そして想起されるのです。

 このように「行動の内容」を記憶して内省的に想起することが「脳の働き方」にとっての「知性」なのです。