https://www.porsonale.co.jp/semi_i198.htm より
「エセ科学者」が流通する時代と社会は、「流通しない社会」よりはマシな社会
『人はなぜエセ科学に騙されるのか』(上下巻。カール・セーガン、新潮社刊)の「あとがき」の解説で、池内了(いけうちさとる)が次のように書いています。
講演会の後の質問で「私はたし かにUFOを見た。宇宙人が来ていると思うが、先生はどう考えるか」と問う人がいる。
「それは、雲に陽の光が反射しているか、鳥の影だったり、人口衛星のかけらが空気の摩擦で燃えているもので、宇宙人だという証拠は何もありません」と言うと「なんだ、お前は、私の目撃事実を信じないのか」。「ならば、あれが雲か、鳥か、人工衛星のかけらである証明をしてみろ」とおっしゃる。「いやいや、それは逆で、宇宙人の乗り物という重大な主張をされるなら、それなりに決定的な証明を提出すべきなのは、あなたなのですよ」と応(こた)える。
すると、「疑い深く、ロマンのかけらもない、心の貧しい科学者め」とばかりの目つきでニラまれる。
「似非(エセ)科学の跳梁(ちょうりょう)」はオウム騒動が起こった日本ばかりでなく、欧米のいわゆる先進国に共通している。
それを助長するマスコミの動きもある。
眼を惹(ひ)くまがいものを面白(おもしろ)おかしく流し、真性の科学や科学的な考え方は、ほとんど人の眼に触れないからだ。
しかし、ゆっくり考えてみよう。
ギリシャ時代から現在まで、人類は、科学の力によってより多様な生を切りひらけるようになり、より豊かな人生を生きることができ、より多くの人が飢えや病から解放されてきたではないか。
中世の魔女狩りやナチスのアーリア科学を想い起こせばすぐに分かるだろう。
無責任な似非(エセ)科学は、生命の論理と矛盾するものなのである。科学の正と負の両側面を冷静に判断することこそが、現在の私たちに求められているのだ。
神秘主義や迷信からのトンデモ話の危険性は、オウム騒動に見るように、信じ込んだあげくに人が搾取(さくしゅ)され、辱(はずかし)められ、ときには殺人にさえおよぶことだが、根底的にはトンデモ話を軽々しく信じる心情が、政府や社会や教祖を批判する力を失わせることにある。
トンデモ話にひっかからない一番の方法は、懐疑的思考、つまり、前提なり、出発点が正しいかどうかを、常に疑い、追試することである。これは科学そのものの方法である。
Y経路の「パターン認知」は「認知の歪み」をつくり易いという性質があります
はじめに、分かりやすい実験的な例をあげてお話しましょう。次の問いに、あなたはどう答えますか?
「認知バイアス」の実験
問い…次の脳についての「説明」で正しいと思うものにチェックを入れてください。
脳は、無限の可能性をもつ
脳は、無限の考える力を秘めている
脳は、老化することもあるし、若返ることもある
脳は、年齢とはかかわりなく活性化しつづける
脳は、夢や希望を生み出して実現する
脳は、願いごとを言葉にして辛い時もその言葉を口に出したり、紙にも書くと、ベーター・エンドルフィンが分泌して幸せ感を感じられるようになる
脳は、老化すると「赤ちゃん戻り」になる
脳は、薬物療法で正常な働き方になることもある
脳は、栄養の不足によって高度に働くこともあるし、痴呆の状態の働き方をすることもある
脳は、自分でも気がつかないうちに機能が歪んでしまうことがあるので、CTやMRIで調べて確かめることが大切である。
「脳」についての問いかけが10点あります。ここでの「脳」は、ハードウェアとしての脳の機能や生理学的なしくみが前提になっています。このことに気がついて、10点の全部を「ノーチェック」にした人は、「脳」について、自分が知っていることと知らないことを科学的に判断することができる人だといえます。
しかし、一点でも「チェック」を入れた人は、「認知バイアス」をかかえている人になるのです。「認知」とは「ものごとが、げんに、そこにある」ことを「分かる」ことです。「水を飲む」「手でコップを触る」「パンを食べる」というように、身体の五官覚の「目、指、耳、舌、皮ふ、鼻」のうちの「どれか」によって触覚的に関わりが成立することをいいます。「バイアス」とは、「歪み」とか「偏(かたよ)り」という意味です。
「脳」についての「認知的バイアス」が生じるためには、およそ次のような原因があります。
記憶違い
予期、期待
信念の強さ
ストレスによる判断力の低下
五官覚のどれかの錯覚
人にはつねに、本格的な学的知性を学ぶ必要がある根拠
「記憶違い」とは、自分が何かで読んだ、どこかで学んだ、などというように出所(出典)の記憶がハッキリしないのに「確かな知識である」と思い込む、といったようなことです。「ストレス」とは、「脳について考えること」は、じかに目で見ることができないものについて考える「分からなさの不安」といったことです。人間は、「分からないこと」について考えるときは、良い意味でも悪い意味でも不安を感じます。この不安が緊張を生むと、「認知」を歪める、というものです。
また、人間は、一般的に「自分が期待しているとおりにものごとを見る」という「認知バイアス」を起こします。「期待効果」ともいわれています。「自分は、こうあってほしい」と思うと、そのとおりにものごとが見えてくる、というものです。
「信念」とは、「ビリーフ」と呼ばれています。「信じる」とは、「ある対象」についての「主観的な可能性」のことです。客観的な実績とか成果や効果の裏付けがなくても「その対象は、これこれこういう性質や、特性を持つだろう」という可能性についての評価が「信じる」(信念)です。ここでは、「脳は、こういう可能性をもつだろう」と「主観的な可能性」が考えられています。
なぜ、こういうことが起こるのでしょうか。
その理由については、すでにみなさまは、よくお分りでしょう。
人間が「ものを見る」「音を聞く」「ものに触る」ということは、目、耳、手、指、舌、鼻などの「五官覚」でおこないます。
ものごととの関わりが成り立つ最初は、五官覚の「知覚」が「関わりを成立させる」ということです。「身体が生きる」ために「食物を摂取する」ということが「成立」の基本型です。「五官覚」の中心になっているものは「視覚」です。「関わり」を完結させるのは「触覚」です。
「食べ物」のような「物」だけではなくて「話し言葉」のような「音」「音声」も「触覚の認知」で関わりを完結させます。このことによって、「話を聞いた」「話が伝わった」ということが成り立つのです。
「触覚」の認知も認識も脳の側頭葉の域にある「ウェルニッケ言語野」でおこなわれます。
「五官覚」のどれでもいいのですが、「関わりの成立」のことを「認知」といいます。「認知」とは、「そのものがげんに、そこにある」ことを分かる「分かり方」のことでした。
「認知」は、「認識」とは区別されます。このことは重要なことですので、なんども、くりかえして確かめています。五官覚の「認知」は「パターン認知」という「分かり方」をします。「アナログ」といわれるとおり、「よく似ている」「どこまでも、同じようにしか見えない」というように「相似的である」という分かり方をするのが「認知」です。すると、「認知」というものは、「錯覚」をつくり出しやすいことが分かります。また、「脳というものは、無限の可能性をつくり出します」と「脳学者」や「理学博士」が言うと「そのとおりだなあ」と考えてしまいます。このような錯覚の上にくっつけられた「言葉」を「信じる」ことを錯誤といいます。「錯覚」した認知の上にむすびつけられた「言葉」が「錯誤」なのです。
エセ脳科学は「バーナム効果」の言葉を並べる
このような「錯覚」を利用して「見たいもの」「知りたいもの」「期待したいもの」の「錯誤の言葉」を意図的に語るというのが「占い」だったり「超能力」であったり「宗教」の「言葉」です。もちろん、ビジネスの場面でもしばしば用いられます。このように、「自分の期待しているものはこういうことだった」とか「自分のなりたい自己像とは、こういうものだった」という言葉を表現してみせることを「バーナム効果」といいます。「バーナム」とは、「バーナム・サーカス」から生まれた言葉です。「バーナム・サーカス」はたいへん人気のある有名なサーカスでした。人間も、動物もいろんな曲芸をして見せました。「ゾウが玉乗りをする」「ライオンが火の輪をくぐって見せる」「サルが逆立ちをしたり、自転車にも乗って見せる」などです。「誰でも喜ばれる出し物がある」ということで有名になりました。
誰にでもウケて、誰もが自制心をなくして「受け容れる」ことが「バーナム効果」の由来です。
「バーナム効果」の「言葉」「説明」には特徴がありました。このこともすでにご説明しています。もういちど整理してみます。
「バーナム効果」の特徴
抽象的で、曖昧な表現が多い。
日付け、具体的な事物、ものごとの変化についての過程(プロセス)の説明や描写がない。
誰にでも当てはまることが並べてある。読んだ人には、どれかは当てはまることが書いてある。
「予言」「占い」などが「当った」と思わせる「表現のテクニック」と同じである。
「あなたは、こういうふうになります」と言われると、「自分にあてはまりそうなこと」を探して「期待効果」のイメージをつくり出す。
「不安をなくしたい欲求」、「不安を欲求に変えたい欲求」などを、「即、何の努力もせずに、スピードで実現する」という孤立や孤独の動機をもつ人に向けて語りかけられる。
このような「バーナム効果」の対象として「脳」も選ばれています。
茂木健一郎(脳科学者)は、『文芸春秋』(2008・5月号)の「総力特集、脳力革命。脳を鍛えれば世界が変わる」(インタヴュアー、東嶋和子(とうじまわこ)、科学ジャーナリスト)の中で、次のように話します。「バーナム効果」に当るところはどこか、がお分りでしょうか。
脳には報酬系という価値観をつかさどる部分がありますが、価値にはそもそも正解がありません。
その正解がない分野をどのように学習していくかというのが、強化学習をはじめとする「脳を活かす勉強法」なのです。
脳は、ドーパミンが分泌されるのがどんな行動をとった時であったかを克明に記録し、ことあるごとにその快感を再現しようとします。
より効率的にドーパミンを分泌させるために、脳内の神経細胞(ニューロン)がつなぎかわり、新しいシナプスが生まれてくる。
この「試行錯誤を経るうちに脳内の特定のシナプスが強化され、ひとつの行動に上達するという一連の流れを、脳科学では、強化学習」といっています。脳科学における学習とは、一般的な学習概念よりも幅広く、「シナプス統合が変わること」を意味しているのです。
能動的に取り組める課題を見つけることです。
その上で、自分自身に負荷をかける。苦しい状況を経験すればするほど、その後にやってくる喜びが大きくなるのと同じように、強化学習においても、脳に負荷をかけておくと、結果として得られる強化の度合いが大きくなるのです。ただし、手に負えない難題だと嫌気が出てしまうので、自分の実力を少し超える負荷をかけることです。
具体的には、作業の制限時間を決める「タイムプレッシャー」を採り入れたり、やるべき作業量を増やしたり、脳の持続力を鍛えます。
あるいは、どんな状況下でも、作業に没入して「ステュディオス(生き生きと熱中して幸せな状態)」な状態になれるか、自分を試すという方法もあります。仕事、勉強、あるいは読書でも、それに没入して時間が経つのを忘れてしまうような状態、これは誰でも経験あるでしょう。
「脳と感情」の分野では、最近、神経経済学という、まさに「人間は正解が無い中で、どうやって選択し、決断しているのか」を研究する学問が生まれました。
2002年にノーベル経済学賞を受けたダニエル・カーネマンらが研究していた行動経済学から派生したものですが、経済合理性では説明できない行動を研究対象にしている。
脳には、面白いことや新しいこ とを発見したときにアラームを出すACC(前頭葉状皮質)という回路があって、「今、面白いことが側頭葉で起こっているから、注目してください」と、脳の司令塔であるLPFC(前頭葉野外側部)に情報を定期的に送っているのです。
このひらめきの回路を鍛えるために、面白いことが起きたら目の前の仕事とは関係なく、いち早く反応する。
我々、脳科学者は「メタ認知」といっているんですが、自分をあたかも外から見たかのように観察することが大事なんです。
僕は毎朝、ブログを書いているんですが、ブログや日記はメタ認知を高めるのに適した方法です。
睡眠は、脳にとって非常に大事なのです。
夢とは、記憶の整理の過程で見るものなのです。
『脳を活かす勉強法、奇蹟の強化学習』
(PHP研究所・出版よりリライト・再構成)
ドーパミンは、前頭葉を中心とする特定の回路を通して放出される。
「ある行動をとる」→「試行錯誤の末うまくいく」→「ほめられる、達成感を得るなど報酬を受け取る」→「ドーパミンが放出され、快感を得る」→「ある行動と快感がむすびつく」→「再び、同じ行動をとりたくなる」(あなたにもできる「強化学習」。これが、脳の強化)。
脳科学的に見れば、人間は、誰しも境遇や年齢、性格などにかかわりなく、飛躍的な成長を遂げたり、劇的な変化を遂げる可能性を秘めた存在であるといえる。
ドーパミンは、「できることを続けても脳は喜ばないので、放出されない」。苦労の末、それを達成した時に大量に分泌される。
僕は、昔から記憶力には自信がありました。高校時代、定期試験の前になると教科書全部を丸暗記しました。
まず英文を見ます。次にそれを書き写す。英文を見ながら写しては意味がありません。一度英文を見たら目を離して写すのです。これを何度もくりかえします。
現代の脳科学の知見にもとづけば学習は、必ずしも秩序立ててやる必要はありません。断片的なインプットをつみかさねるやり方でも問題ないのです。
勉強したいという気持ちがあるなら、大学へ行く必要はない。それくらいの膨大な知識がインターネット上にある。僕は、インターネットだけで勉強してノーベル賞をとる人が出てくると思う。
脳は「言葉」を生成するというメカニズムと比較してみましょう
「脳科学者、茂木健一郎」が話したり、書いたりしているところの要点を整理してご紹介しました。
一体、何が問題なのか?ということがつかみにくいという感想をおもちになったかもしれない人のために、茂木がのべていることに対応させて「正誤表」をつくってみましょう。
脳は、ドーパミンを分泌する。
しかし、それは、「行動した結果」ではない。花を見ても、夕焼け空を見てもドーパミンは分泌する。ドーパミンを分泌するのは、「右脳」の「ブローカー言語野」である。「イメージ」が表象するとドーパミンは分泌する。ドーパミンを分泌するには、「言葉」(言語)か「メタ言語」(イメージ)のいずれかが、欲求(大脳辺縁系)、言語活動(左脳系の海馬に記憶されている言葉)、身体知覚(痛み、疲労)、五官覚によって認知された現実との関わりの成立(見る、聞く、触る、食べる、など)を動機にして「記憶」を表象するか、想起するときである。
脳は、ドーパミンを分泌するという「快感報酬」をもつことは事実である。だが、ドーパミンを分泌するのは「行動」によるのではない。
「言葉」によってドーパミンを分泌する。だから「夢」を見てもドーパミンは分泌しない。
必ず「左脳」で記憶されている「言葉」が必要である。
「行動」によってドーパミンが分泌することがあるのは、「左脳」で動かした「身体の苦痛、痛み」を打ち消す場合である。病気による苦痛は、副腎皮質ホルモンが打ち消す。出産、マラソンなどの苦痛は、前頭葉の「ベーター・エンドルフィン」の分泌するドーパミンが解消して快感に変える。分裂病やうつ病の場合は、「物を壊す」「人をキズつける」「自分をキズつける」などの「バッド・イメージ」によって大脳辺縁系の「中隔核」から「幸福のボタン押し」というドーパミンを分泌する。
脳の「快感報酬」の中枢神経のメカニズムには「快感」という価値があるが、これには「正解」はある。「正解」は、「言葉」の内容によって決まる。
言葉は「現実の対象」とむすびついているが、その対象が「自分」「他者」「複数の他者」の順で「喜び」をもたらすときが「価値」の「正解」になる。
脳の働き方から「言葉」をスポイルすると「脳」は「筋肉」にしか見えない
わかりやすくご説明いたします。茂木健一郎は「脳」についてどのように「認知」しているのかというと「臓器」という言い方をしているところが典型です。
「臓器」とは「内臓」のことです。内臓とは、身体の内部にある諸器官のことです。現在の解剖学では「循環器系」「消化器系」「呼吸器系」「泌尿生殖器系」「内分泌器系」に限られています。茂木は、「脳」を、「筋肉」や「骨」と同じ物体と見なしています。これが茂木の「認知バイアス」です。
脳も、タンパク質でできているので「筋肉と同じ」と認知することは可能です。しかし、「脳」を筋肉と同じと認知してしまうと、「物理的な機能」だけが脳の本質であるとみなされます。レントゲンで見たり、「MRI」で見て、手で触って確かめられる範囲で分かることが「脳の本質の全て」と「認識」されるでしょう。しかし、ポルソナーレが明らかにしたように、脳は、「言葉」を生成します。それは、「乳児の脳の働き方」を観察すれば、誰の目にも一目瞭然です。「行動」には「言葉」が必要です。茂木のいうように「勉強する」ことにも「どのように勉強するのか?」に相当する「言葉」がなければ、「勉強する」という「行動」は成り立ちません。
このことは、「脳のことを考察する」とは、「脳の生成する言葉」を考察することと同義でなければならないことを意味しています。茂木の「脳科学者」としての説明は、「行動すること」の説明はあっても、「行動」のための「言葉」についての説明がないことに、どなたもお気づきでしょう。ここから茂木は、「勉強する」とは「教科書を丸暗記することだ」「本を読むにも、断片的に読むだけでいい。何も問題はない」「知識は、断片的であってもいい」と説明します。茂木は、「断片的に憶える」「丸暗記する」という行動に「負荷を加える」という行動の仕方を、「ホメられてドーパミンを分泌する」ということで評価しました。しかし、「丸暗記」によって、脳について考えても「言葉の生成のしくみ」などは全く何も分からなくなって、行き詰まったのです。そこでよりホメられるために、NHKのテレビで司会をする中で出会った棋士の羽生善治などと出会い、彼らの「行動」をホメることで自分の「行動」も評価しました。
「脳とは、身体のスポーツによる訓練と同じように鍛えられる」という「記号としての言葉」を認識するに至っています。
「教科書を丸暗記する」「英語の教科書の丸暗記の仕方」を正しいことだと評価する触媒に「プロフェッショナルな人の行動」をとりこんで解釈したのでした。茂木の「脳の活性化」とは、「言葉による表現」にともなうドーパミンがなく、丸暗記のような「行動すること」だけの結果を「他者からホメてもらう」というドーパミンの分泌のさせ方のことです。
これは、元・安倍晋三首相のように、現実の中で「行動停止」を起こす脳の働かせ方です。
この茂木健一郎の脳の説明の「バーナム効果」とは正反対の説明をしているのが佐藤富雄の『愛されてお金持ちになる魔法の言葉』(全日出版・刊)です。佐藤富雄は、次のように書いています。
はじめに言葉があった。
言葉は神とともにあった。言葉は神であった。
すべてのものは、これによってできた。
できたもののうち、ひとつとして、これによらないものは、なかった。(ヨハネによる福音書)
私たち人間には、願いをかなえるために、自分に必要なものを引き寄せる力が備わっています。
今のあなたに必要な言葉がこの本の中にあるはずです。この本をとおして、言葉の持つ力とその使い方を知れば、今、あなたがどんな状況だろうと、望みどおりの幸せを手に入れられるようになります。
女性が充実した素晴らしい人生を送れるかどうかは「自分の容姿にどこまで自信を持てるか」にかかっています。
客観的に見て美人かどうかは関係ありません。たとえ周囲はそうは思わなくても、自分で自分を「魅力的ないい女」と思える女性ほど、何をしてもうまく運びます。恋愛、結婚、家庭、育児、仕事、人間関係、金銭面でも、思いどおりの人生を歩んでいけるのです。
「私は、魅力的ないい女と思いこむと、世界一のいい女になっていける」「容姿に自信があるから次々といい男とだけ出会える」。
ポイントは、「自分が自分を魅力的ないい女と」思えるかどうかです。
他人と比べる必要など少しもありません。生まれつき美人か否かも、問題ではありません。人がどう見ているか、どんな判断を下しているかも、まるで関係ありません。要は、その人自身が、どう思っているかが全てなのです。
人間は、頭で考えたとおりに行動を起こします。
思い込みが強ければ強いほど、それが行動にもあらわれます。思いこみを変えることによって、あらゆる行動や人との接し方が変わっていきます。性格さえも変えることができ、まったく違う自分をつくることができます。
「私はなんてチャーミングないい顔をしているのだろう。
誰からも好かれる」と口に出して言う。早ければ3日、遅くとも1ヵ月後には必ず自分が言ったとおりの自分になっているはずです。
「自分は美人じゃない」「自分は異性から好かれない」「仕事の能力も劣っている」というひとつひとつの思い込みも、自分はそう確信していても、本当は一方的な思い込みにすぎないという場合が多いのです。
ことあるごとに自分で自分を否定するような言葉を口にして、その言葉に支配されているからです。また、他人からの影響も受けています。「かわいくないね」と、親がふざけて言った言葉にひどく傷つき、成人してからもその傷をひきずっている人もいます。そのために何をするにしても消極的な行動をとるくせがついていました。けれども、他人がどう言おうとも、そこには、動かしがたい事実などはほとんどなく、その人が勝手にそう思い込んでいるだけで、確かな根拠に乏しいのです。たとえ、両親が「お前はかわいくない」と言っても、本人が真に受けたりせず、「私は、自分の顔が気に入っている。私は、ぜったいにかわいい」と思い込めば、その人は「かわいい顔のチャーミングな女性」として生きていけます。
そのイメージが脳に伝わると、あらゆることがスムーズにいくようになります。
脳の中にある「自動目的達成装置(オートパイロット)」が働いて、思い描いている自己像のとおりの自分を現実のものにしていくからです。
「自分は可愛い女」「自分は可愛くない女」の「パターン認知」は「うつ病の言葉」です
佐藤富雄は、このような説明の仕方で「恋愛」「仕事」「お金持ちになる」といった「自己像」をイメージし、これを言葉にして「口で言い」「紙にも書け」とのべています。佐藤のこのような説明には、「半分の真理」があります。
「思い込み」によってそのとおりの「行動」があらわされる、ということです。
脳の働き方は、まず「Y経路。右脳にイメージを表象する」というメカニズムになっています。この「Y経路のイメージの表象」は、「認知」による記憶の表象です。「自分は可愛くない」「自分は可愛い」のいずれかのイメージも、「他者との関係の中で、耳による聴覚で受容した言葉か、他者の自分に向ける態度を目で見て、認知した」という記憶が表象されます。
したがって、この「可愛い」か「可愛くない」かのいずれかを「左脳のX経路が認識する」と、それは「記号としての言葉」として記憶されます。
佐藤富雄がいうように「親が、可愛くないと言った」という「言葉」を認知して、これを「左脳」で認識して「記号としての言葉」に変えて「左脳系の海馬」に記憶すれば、「自分は可愛くない女だ」という自分についてのイメージが「右脳」に表象されつづけることはありえます。これは「認知バイアスの歪み」による解釈です。この「自分は可愛くない」というイメージを、日常の人間関係の中で表象させれば、それはまちがいなく対人関係に支障をきたします。
だから、「思い込みによる自己像は不当なものだ」と佐藤富雄はいいます。しかし、問題は、「自分は可愛くない」の自己像の代わりに、逆の「いや自分は可愛い。なんていい女なんだ」という言葉で「認知バイアス」を「良いイメージ」の方に歪めて認知し、これを「左脳のX経路で記号としての言葉に変える」というのは、何の問題もないのでしょうか。これは、「うつ病」の場合の「パターン認知」と同じです。「うつ病」は、「自分の行動は、即、ただちに楽しいこと、気分のいいこと、快感に感じることが手に入るべきだ」という「パターン認知」が記憶されています。
「記憶のソース・モニタリング」は「自分は可愛い女のイメージ」で「うつ病」をつくり出す
この「パターン認知」が「仕事」「勉強」の現実の中で表象されるのです。
「仕事」「勉強」も「行動」であるからです。「うつ病の人」は「仕事という行動は、即、快感に感じることが手に入るべきだ」「勉強という行動は、即、快感に感じることが手に入るべきだ」というイメージ(パターン認知のイメージ)が右脳に表象します。しかし、現実の「仕事」や「勉強」ではそういうことはありえません。ごくわずかの楽しみやごくわずかの「安心」や「安定」のイメージのつくるドーパミンを支えにして目標に向かってノルアドレナリンを分泌しつづけるでしょう。「うつ病の人」の場合にもこれは同じように当てはまる現実です。しかし、「うつ病の人」には、「即・快感に感じるイメージ」に見合わない「仕事の言葉のイメージ」「勉強の言葉のイメージ」しか表象されないので、「不安のイメージ」が右脳に表象しつづけて、「行動停止」になるでしょう。「自分は魅力的でいい女だ」という「自己像」を「パターン認知」として右脳に表象させるというケースも「うつ病の行動」と全く同じです。「私は、いい女だ」という言葉は、「魔法の言葉」かもしれませんが、それは、「うつ病」になって、「行動停止」となり、ここでも「私はいい女だ」という「魔法の言葉」を鏡の中の自分の顔に向かって言いつづけると、「現実」の中では「不安のイメージ」が「右脳」に表象します。
すると、より「自分を魅力的で可愛いいい女」のイメージをリアルにするために、佐藤富雄のいうように「恋をたくさんする」という行動を反復させて、やがて誰とも関わりをもてなくなって「分裂病のイメージの自分は可愛い女の妄想」を見つめつづけるか、現実の人間関係の中で孤立して「自殺する」かのいずれかにいきつくのです。
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