用いる物事すべてを神様からの借り物と感じて

http://sadhana.jp/kurashi/13101.html  より

物事と関わるのに、「自分の所有するもの」という感じ方は、極力遠ざけたいです。

 この代の自分のいのちの営みにおいて、永続的に抱きかかえ続けたいというものは、ゼロなのがよいのは道理です。なぜなら、私たちにとって、もっとも尊いのは神様ご自身であり、神様以外のものごと(人をも含めて)は、必要な限り必要なだけ関わりをもち、あとは後ろに残して神様の方へと前進し続けるべきだからです。

 目指している方向(つまり天の神の方向)に、心乱されずまっすぐ向かえるように、そして、神様のお心に適うように暮らすために、使用する物事や関わる物事を、その必要な時に必要なだけお借りして、用が済めば手放すのがよいです。そうするならば、心は天の方へ、神様の方へと、妨げなしに、向かって行けます。

――朝目覚めて、着替えをする。身に着けるいっさいの衣類を、神様からの借り物と感じ取る。

――仕事場に向かうのに電車に乗る。この電車賃~このカード~この電車車両も皆、神様からの借り物と感じ取る。

――仕事場について、パソコン類を操作し始める。これらのいっさいも、神様からの借り物と感じ取る。

 自分の体についても、自分の能力についても、自分の地上の命についても、時間についても、そうします。

 こうして、自分の心を被造の世界に留めません。

 また、自分の奉仕や努力で、良い実りが得られた場合――、その実りのための条件が整うことや”場のお膳立て”に、どれほど、神様が用意してくださった物事が役立っていたかを、感じるようにします。そして、その神様からの心づくしを思いつつ、敬虔に、「お借りできた」ことに感謝するようにします。

 良い奉仕・良い実りというものについても、ひたすら神さまの御栄えを目ざします。「自分の栄え」というような方向には、断じて踏み込まないようにします。

 こうして、私たちの暮らしのひと駒ひと駒で、神様と共に在る感じが得られ易くなります。