無駄な考え事の消滅に向かう

http://sadhana.jp/kurashi/13101.html  より

人間が神様と響き合うことを達成したい場合、人は、さまざまな方法を試みます。

 ――目を閉じ、体の姿勢を整え、祈りに打ち込んで、

 ――今自分が感じられる感性を研ぎ澄ませ、命あるものすべての神秘性に敏感になろうとして、

 ――隣人への温かさと好意を湧き出させ、奉仕にいそしんで、

 ――知性と思索の力を信じて、考えることをどこまでも繰り広げて、

などというようにです。

 このようにして、集中して神様に向かい、神様と出会いたいと努めます。けれども、このように望みながら、人の精神には、神に向かうことの妨げになるものが多く立ち現れます。

 そのうちの手ごわい一つは、考えること、思うことです。

「考える」こと「思い巡らす」ことは、霊的に前進するための、大切なプロセスです。ところが、大切であるだけに、そこには落とし穴が存在します。必要を超えて、考えることを続けたり、思い巡らし続けるという落とし穴です。

 神様との出会いへの道筋としては、考える・思うことから離れて、人に関わったり、奉仕的に行動したりするところに大きな可能性が広がります。神様は、知恵に溢れれておられる方ではありますが、また同時に、世界のいたるところで、創造のお働きを続け、人々の生き様の向上を応援しようとされます。いのちにあふれた神様は、「はたらき」や「わざ」という語が適するような活発さで、人と関わっておられます。

 私たちが、神様と似た仕方で、人々に好意的に関わり、交わりの向上を目指して実践するとき、人は、神様と出会い、響き合えることが多いです。

 神様に似た仕方――それは、精一杯他者への愛情を込めることや、自分を開き尽くして奉仕することなどの仕方です。ある限定の中で愛を表そうとしたり、自分の一部分で他者に向かおうとしても、神様との響き合いの達成は望み薄です。霊が人を豊かな交わりや奉仕へ導こうとしているのに、自分が、考え事や思うことのために不完全燃焼であるのは、成功の妨げです。イエスは、子供の心のあり方を重んじたわけですが、それは、子供が目前の事柄に、一心不乱に自分全体で打ち込むからです。

 ですから、暮らしの中で観想を実らせようとする場合、自分を他者に開き切るようにして、余すところない精神で奉仕する方向を重んじる必要があります。

 霊的な覚醒者は、神様と響き合える機会を、たえず捉えようとし、その機会を最大限に生かそうと心構えします。そういう方向で励むとき、神様との響き合いの邪魔をするものは、排除しようとします。

 こうして、「暮らしの中の観想」に前進するようになると、無駄な考え事の消滅へと徐々に近づいて行きます。一日のうちの一齣一齣で、無駄な考え事から抜け出すようにし、自分全体を神様の方へ振り向け続けるようになります。