生活の取り組みに余分な力が抜ける

http://sadhana.jp/kurashi/13101.html  より

観想的な心が広がり、その心で生活に取り組んでいると、神様がよく計らってくださるのを見ながら暮らしたり、働いたりします。自分が支える部分が減らされるのを、知ります。そういう認知が進みますから、自分がリキんで事に当たるとか、張り詰めた気持ちで事に当たるとかの必要がめったに無いと感じられてきます。

 暮らしの中の観想者は、『神様のお働きが主であって、私はそのお働きの、”準備担当”とか、”隙間(すきま)補い”をするのだ』と、肝に銘じます。”準備担当”の係りとか、”隙間補い”の係りは、リキみや張り詰めた気持ちになる必要がめったにありません。その物事の勝負どころ、中枢部を神様が支えておられると解っています。別の言い方をすれば、神様との共働における私の役割は、補佐的で、従属的です。

 こうして、多くを、神様と人々の好意にお任せできると知ることから、自分がゆったり構えられる局面が多くなります。大きな課題に取り組む場合でも、多人数の面前で行動する場合でも、そのように対処してゆけるようになります。

 上記のような、熟した身の処し方によって、余分な力が抜けて行きます。

仕事に対して、過度な成功願望や成果への期待は、持たないことです。自分が働ける可能性の範囲や達成できる水準を、的確に捉えて置きます。「がんばれ」「強くあれ」「急げ」「完全であれ」「人を喜ばせろ」というように自分を煽り立てる心の動きは、神様と共働する在り方から、ひどく逸脱させます。等身大の自分に根ざす心の動き、平常心からの心の動きで現実に対処することは、「暮らしの中の観想」の基本的な前提です。

 また、仕事をするのに、働き方が上手になっていることは、大きな味方(アドバンテージ)です。働くことに神経を使うことを卒業して、落ち着いて円滑に仕事を続けられるからです。

 こうして、心でも、体でも、力が抜けた状態で、多くの局面に対処します。ゆったりと、あわてず、目の前の物事の展開を捉えつつ、関わります。落ち着いて状況展開の動きを追い、自分が関わるべき関わり方を丁寧に見極めて、行動します。押した方が良いところは押し、引いた方が良いところは引き、また、動きを止めて待つべきところは待ちます。

 ここには、力を抜きながらも、ゆったりと努力する面も含みます。「関わる人の方に関心を持ち続ける」「人を励ますような言動に向かう」「物事の良いところをアピールする」「陰に回って縁の下の力持ちに努める」などの努め方は、ゆったりと続けます。それは、神様のお働きの共働者であるための必要条件でもあるからです。

 力が抜けて余裕があれば、その物事の中や周囲に、喜べる要素が多いことが見えて、楽しく働けるようにもなります。

 仕事の成果や成功という面のみ見る人には、このような動き方は、物足りないかもしれません。・・・・・それなら、その一時的な物足りなさは我慢します。目の前の数回が物足りなくても、神様がお働きになる働きに落ち着いて共働しているなら、しばらくするうちに、きっと、優れた発展性の中にいる自分を見出すこととなります。

 「暮らしの中の観想」を目ざす人には、以上のような心の風景が恵まれます。つまり、実生活のただ中において、働いたり生活したりすることそのものを、力を抜いて、安らかさ・喜ばしさのうちに展開する心の風景が恵まれて来ます。