https://yogatula.me/journey-to-rishikesh-7-meditaion-at-vashistha-cave/
ヴァシシュタの洞窟にまつわる神話
現地に到着するまで、ヴァシシュタの洞窟についてお話ししましょう。瞑想に適した場所であるその所以はインド神話に隠されています。
「Vashistha Cave (ヴァシシュタの洞窟)」の“Vashistha(ヴァシシュタ)”とは、インド神話『ラーマーヤナ』(Rāmāyana、サンスクリット:रामायण, 英語: Ramayana)という、古代インドの大長編叙事詩に登場する7人のリシ(聖仙、偉大な賢人)、サプタリシ(七聖仙)の一人。
インド神話『ラーマーヤナ』は、前回のアシュラムの記事「ヨガの聖地リシケシへの旅 – #6 シヴァナンダアシュラムでヨガの歴史の深さに感動」でも触れましたが、紀元3世紀頃に成立したヒンドゥー教の聖典の一つで、『マハーバーラタ』と並ぶインド2大叙事詩の一つです。究極のマントラ、ハレー・クリシュナ・マントラに出てくる、「ラーマ」は、この『ラーマーヤナ』の主人公でもあります。
全7巻からなり、サンスクリットで書かれていますが、総行数は聖書にも並ぶ48,000行に及ぶと言われています。詩人ヴァールミーキが、ヒンドゥー教の神話と古代英雄コーサラ国のラーマ王子の伝説を編纂したものとされています。
『ラーマーヤナ』によると、ある時ヴァルナ・ミトラ両神はアプサラス※1 のウルヴァシーに見とれ精をもらしました。その精は水がめに落ち、その中からそれら神々の子として、アガスティヤとヴァシシュタ(Sage Vashishta)が生まれました。
Sage Vashishtaの子供の死後、Sage Vashishtaはとても動揺しガンガ川(ガンジス川)で自殺することを決めました。しかし、ガンガの女神は彼の自殺を受け入れませんでした。Sage Vashishtaと彼の妻Arundhatiは、悲しみを克服するために、何百年もの間この場所で瞑想したと言われています。
※1 アプラサス(Apsaras、梵: अप्सराः、Apsarāḥ、巴: Accharā)とは、インド神話における水の精のこと。その名は「水の中で動くもの、雲の海に生きるもの」の意であり、古代インドの聖典であるヴェーダの1つ『リグ・ヴェーダ』では、海の精ともされる。神々の接待役として踊りを見せることを仕事とする。)
Sage Vashishtaを表すポーズ
ヨガのアーサナには、Sage Vashishtaを表すポーズがあります。
横向きの板のポーズ / 斜面のポーズといったアーサナ名で覚えている方が大半かと思いますが、合わせて、賢者ヴァシシュタのポーズ / ヴァシシュタ・アーサナ / ヴァシシュターサナなどとも呼ばれています。
このポーズは、体幹から全身の力強く維持するポーズ。このポーズからもわかる通りSage Vashishtaは、強い意志と忍耐強さをもっていたのでしょう。ヴァシシュタの洞窟は、Sage Vashishtaが悲しみの中で何百年もの間、瞑想をとった場所なのです。
洞窟の奥へ
私は乗車前にきつめの酔い止め薬を飲み、前方の席に座っていたのにもかかわらず、あまりにも揺れが激しいので出発早々に気分が悪くなり、現地に着いた頃にはすっかり車酔いしていました。
ここが洞窟の入り口。
この白い網の扉の奥に、瞑想を深められる洞窟が続いているというのです。
洞穴の入り口は光がありますがすぐに薄暗くなり、先へ進むにつれてほとんど見えなくなります。突き当たりまでは約10mほどの短い距離だったように思いますが、人が集中する時間帯はここでも瞑想をしている人がいるため、慎重に足を進めていきます。
突き当たりは洞窟の石場をうまく使って、小さな祭壇のように祀られており、この手前に座って瞑想をします。人と人との間隔をあけずに約10〜15名ほどが座れるような規模なので、一度腰をおろすと、今度は洞窟を出るのにも気を使うような広さでした。
腰を下ろして瞑想を始めようとした瞬間、背後から「カンカンカンカン!」と鐘を鳴らしながら入ってくる聖者がいました。何の知らせだったのか、何のための鐘だったのかはわかりませんでしたが、すぐに鳴り止み、やがてまた洞窟内は静まり返りました。
神秘的な瞑想体験
私自身の身体がようやく床に落ち着いたころ、ゆっくりと目を閉じて瞑想を始めました。
しかし目を閉じた瞬間でした!
頭の中がぐわんぐわんと大きく大きく回り始め、まるで宇宙に放り込まれたかのような間隔になりました。暗闇の中で身体が無重力に浮かび、頭の中がぐわんぐわんと大きく回っているのです。
とても不思議な感覚になるものの、気分が悪くなるような感じではなく、いつもは瞑想に入った瞬間、あれやこれやとこれまでのさまざまなことが頭に思い浮かぶのですが、このときはその後すぐに深い深い瞑想に入ることができました。ゼロ磁場のような場所、というのが近いのかもしれませんが、、、とても不思議な感覚になったあの体験は忘れられません。
後から聞いてみると、みな表現は違えど、このときにいた他の人も、私と同様の感覚になっていたようです。
全身に心地の良いエネルギーを感じたガンジス
この洞窟を出ると、右には大きなガンジス川が流れています。それも、いままでみたガンジス川の中でも最も澄んでいて美しいガンジス川でした。
ここで私たちは、数日前に購入していたお気に入りの神様の像やマーラーを洗い清めさせていただきました。マーラーとは、日本でも仏具として使われている「数珠」のような形状のネックレス。
インドでは生花や化繊、菩提樹の実や天然石などでできた花飾り(マーラー)を神様の写真や絵等の額縁に飾ったり、神様の像にかけたりして敬います。
数珠とマーラーの違い
ここで蛇足ですが数珠とマーラーの違いについてご説明しましょう。
簡単に言うと、数珠もマーラーも神聖なもので、どちらも魔をよけや幸福を呼び込むお守りとして大切にされており、マントラや念仏を唱える際に使用されています。
数珠は普段、アクセサリーのように身に着けることはないですが、マーラーはネックレスとして愛用されている人をよく見かけます。
数珠の起源は、お釈迦様が木の実の玉を繰って108の念仏を唱えるよう説いたとされていますが、これよりも以前から、インドにはマーラーが存在していたということが示唆されています。というのも、正倉院の宝物の中に、聖徳太子の遺品として数珠が発見されたため、天平時代の仏教の本格的な伝来とともに数珠も日本に入ってきたと考えられているからです。
以前、太陽礼拝の記事「太陽礼拝の効果とシークエンスに込められた意味」でもご紹介しましたが、仏教では108は煩悩の数とされており、その数の分だけ念仏(真言)を唱えることで煩悩を滅し、功徳を得る。その間、玉を一ずつ繰って念仏を唱えた数を記憶するための道具として使用されているのが仏具の数珠です。
真言宗など、この数珠を擦り合わせ、音を出すことで、煩悩を打ち砕くといわれている宗教もあります。
数珠のつくりには、念仏の数を数えるための108の主玉のほかに、阿弥陀如来または釈迦如来を表すとされる親玉や、四天王や四菩薩を表す四天玉、菩薩を表す浄明玉などの玉でも構成され、数珠そのものが仏教の世界観を表しているともいわれています。
一方、数珠が仏具として使用される以前から存在しているマーラーも108個の玉で作られており、数珠と同様マントラを唱えた数を記憶するための神具として使用されています。マントラとは仏教でいう念仏(真言)のことで、神々を讃えるマントラを唱えることで祈願を深め、またマントラを唱えることで生まれる波動を使って瞑想やアーサナをとることで、より深いエネルギーを得て真理に達するとされています。
日本では「9」という数字は、“苦しみ”、“苦難”を表す数字とされて、あまりいい数字とは言われてきませんでした。しかしインド哲学において「9」は神聖な数とされ、その倍数である108という数も、とても神聖な数として大切にされています。
マーラーは、シヴァ神の涙が形となって顕れたとされているルドラクシャ(菩提樹の実)や、インドで豊富に採れる天然石などで作られています。
マーラーは9の倍数である、54個、27個の球でできているものがほとんどで、数珠は54個、36個、27個など略式のものもよく使われています。また、108個の球の数珠は、二重にして使われることが多いようです。
ヨガをやっている人でマーラーを持っていない方は、一つのアイテムとして持っておくことをオススメします。煩悩を滅しながら深い瞑想もできることでしょう。
リシケシの旅も終盤に
空気も川も山も美しく、全身に心地の良いエネルギーが流れていくのを感じられる「Vashistha (ヴァシシュタ)」。瞑想を終えた後の清々しい気持ちをそのままに、少しの間休憩しました。
0コメント