http://www.shuppansinsha.com/sub_kabaraway.html より
アツイルトの偉大な木
神は存在しない。神は存在を越えている。
神はアイン・・・<無>である。
無から、エン・ソフまたは<無限全>が出てくる。
そのエン・ソフの<限界のなさ>から、何かが<現れ出でてない実在>に出てくる。
それは<全くの不動>のなかで見えず、完全な静寂に隠されていた。
あるカバリストは、これを終わりのない場所という。
<終わりがない>ということの中から、エン・ソフの<意志>が出てくる。
それは収縮し、または誰かが言うように集中を起こすとか、放射するとか、現れないところから現れる世界が出現するのを許すのである。
エン・ソフの<意志>が隠れることから出てくることは、エン・ソフ・オールと呼ばれる。
ヘブライ語でオールは光であり、光は意志の象徴である。
現れ出でていないものを、光がどう貫いたかは、何世紀もの議論の的であった。
とはいえ神にのみ知られている「全自然」という神のなされたものの表現ほどは、不一致があるわけではない。
いろいろな類推が図られたが、隠喩のみ可能であった(のだ)が、悲しいことに、それがしばしば現実として受け取られたのである。
現れていない存在から生まれた<最初の意志>の表現の類似としては、次元のない「点」という言い方があるだろう。
この現れた存在の「点」は、かつてそうであり、いまそうであって、未来においてそうなるすべての<源>である。
それがI AMであり、カバラでは最初の<冠>とか、古代の人とか白い頭と呼ばれる。
ここから10のつぶやきがもれ、相対の世界を存在に導いた。
10の神的原理、それは神の特性ともセフィラとも言えるものだが、一瞬にして、永遠の<閃光>として実現した。
セフィラとは、
ケテルまたは<冠>、
ホクマまたは<知慧>、
ビナーまたは<理解>、
ヘセッドまたは<慈悲>、
ゲブラまたは<判断>、
ティフェレットまたは<美>、
ネッツアまたは<永遠>、
ホッドまたは<反響>、
イエソドまたは<基礎>、
マルクートまたは<王国>である。
11番目の非セフィラとして、ビナーとヘセッドの間に、ダアト・・・<知識>という特別の役割をするものがある。
あるセフィラで、英語とヘブライ語にいくつかの名前を持つものがある。
ゲブラの語根は<力>という意味だが、時々ディンとか、ペカッドと呼ばれ、<判断>とか<恐れ>という意味である。
ホッドとネッツアは<栄光>と、<勝利>と訳されるときもある。
この本で使われる名前は大本のヘブライ語源をもとにしているので、ホッドを<反響>と訳しているのは、非常に正確を期したからだ。
<栄光>という訳語は、セフィラの機能を一切表していない。
そのうえ<栄光>という語は、しばしばティフェレットにも使われ、アツイルト界も表すことに言及しなくてはならない。
同じように、ネッツアに<永遠>という訳語をあてることは、セフィラの内容の、<繰り返す>とか、<終わりなく循環する>ことを表しているからである。
<伝統>によれば、セフィラという言葉はサファイアとか、輝く光を意味する。
また、数とか、位階とか、乗物とか、力、衣服、冠などといういろいろな名前がある。
これはヘブライ語とカバラが、融通無下であることの原理が同じなのに100のドグマがまかり通るということはないのである。
ある世紀には<神の内なる顔>と呼ばれ、ある時は<原始の日々>と呼ばれた。
これが、この<閃光>をどう説明するかという課題に、人を誘ったのである。
最初の<冠>として表現された<一なるもの>で始まり、統一された、完全な表現は二つに分けられる。
次の段階は能動の表現である。
これはその反対側の受動によって完成する。
こうやって<平衡>の場所から、三つのセフィラが存在したことになる。
しかしその関係は完全ではない。
なぜなら神の意志の<閃光>は、それらに緊張を与えたのである。
とはいえ相対の世界が今生まれたことで、それらはバランスをとろうとし続ける。
そして、それはコンスタントに保たれる。
その三つは、まだそのままで、至高のものと呼ばれ、顕現した存在のなかの永遠の神性を表す。
それらは神聖のなかでも神聖なものである。
何世紀もかけて、至高の<三つ組>の能動と受動はいろいろな類似の表現を生んだ。
しかし、多分、もっとも記憶すべきは偉大な<父>と<母>であろう。
彼らの役割は、この後続く複雑な体系のなかで、
相補い対立する<慈悲>と<峻厳>の柱、または極の<頭>であることである。
もっと地上的な表現で言えば、<力>と<形>の柱とも説明される。
ホクマまたは<知慧>は、<意志>がケテルから流出した衝動のあとの最初の思考と言われている。
<冠>と<理解>と呼ばれるビナーは神の知性の、受動の形といわれる。
しかし、ケテルからの<意志>が、中央の柱から動き、<閃光>の助けをかりて、セフィラでないセフィラのダアトが作るギャップを越えて能動の柱の力を得ないと、何も起こらない。
このギャップというかインターヴァルはアビス(深淵)と呼ばれて、<木>を下りるにしろ上るにしろ決定的なポイントで、存在することの始めとなる。
衝動は、<慈悲>を意味するヘセッドで<力>の柱に合体する。
そのヘセッドの原理は拡大する力である。
「成長」として表現されるそれは、「制限」を本質とするゲブラによってチェックされないと浪費されてしまう。
これはセフィラが、いかに<木>を越えてペアで働くかを良く示すものである。
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