http://www.sapporootani.ac.jp/file/contents/989/8103/kiyo_tan40_01Oota.pdf#search=%27%E5%BF%83%E7%90%86%E7%99%82%E6%B3%95%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%84%E3%81%A6%E3%80%8C%E6%AD%BB%E3%81%A8%E5%86%8D%E7%94%9F%E3%80%8D%E3%81%AE%E8%B1%A1%E5%BE%B4%E9%81%8E%E7%A8%8B%E3%81%AF%E5%BF%83%E3%81%AE%E5%A4%89%E5%AE%B9%E9%81%8E%E7%A8%8B%27 より
そこは一旦死ねば二度と死の恐怖を味わうことのない,「浄仏国土(浄土)」である。
浄土往生は,万人が一人残らず帰趨する世界であるといえる。それはキルケゴールが言うように,信仰によってのみ明らかにされることではあるが,臨床家の死生観として,この「如来・往生」に始終する人生観を保持することが願われるのである。
さてこの世においては,各人が個別のライフサイクルにおいてそれぞれの課題を通過し,最終的には十全な自己受容を果たして,浄土に往生することが望まれ,臨床家にとっても,クライエントのライフサイクルに応じた治療的関与を通じて,たとえばユングの言う個性化の過程を完結させることが期待される。その時にはきわめて高次な自己受容が果たされている筈であり,心理療法における治療論は心の成長過程を伴うわけで,単なる症状の消失だけを意図することではあり得ない。
臨床家に,普遍的な死生観の保持が求められる所以である。
この「人生の四季」に立脚して臨床活動を展開する時,如来・往生の死生観は,ライフサイクルの各ステージにおいても出現することが分かる。ことに思春期,思秋期そして終末期には,実際の死にも等しい顕著な心理過程が見られる。以下3節にわたって,それぞれの時期の心理過程の実際を示す。
3.1思春期における「死と再生」(通過儀礼)の実際
『心理臨床大事典』(培風館)によれば,「通過儀礼 Initiation ceremony,therites ofpassage」とは,次のような意味である。
人が生まれてから死ぬまでの一生の間には,さまざまな成長の節目があり,またさまざまな社会的地位の変化がある。これらの成長や変化を容易にし,人がある段階から次の段階へ移行することを助ける儀礼 ―すなわち誕生祝,成人式,結婚式,特定集団(会社,宗教等)への加入礼,歳祝,葬式など ―を民俗学や社会学では通過儀礼,あるいは人生儀礼 life-cycleritualという。前近代社会においては,こういった儀礼は厳粛に,不可避に行われ,儀礼の繰り返し,すなわち人生そのもの,といってもよいほどの重みをもっていた。
ところが近代以降,科学的合理主義の台頭,宗教的世界観の否定などにより,制度や慣習として深い意義をもった通過儀礼は急速に消滅していったのである。(中略)
通過儀礼においてみられる死と再生のテーマは,心理療法の中でも重要な意味をもっている。箱庭療法や遊戯療法の中では,実際に象徴的な「死と再生」のドラマがクライエントによって演じられることが多い。例えば箱庭療法の中で,子どもは自分の分身である人形を死んだものとして砂の中に埋め,そこから人形が再び生き返って出てくる,というような埋葬と再生の物語を象徴的な形で演じることがある。また夢の中で身近な人が死んだり,自分自身の死を体験することがある。現実の肉体的な死は,われわれの意識にとって破壊であり,悲惨なものであるが,夢やファンタジーの中で象徴的に体験される「死」は,必ずしも否定的な意味ばかりでとらえるべきではない。イメージの世界で象徴的に表現される死は,確かに一つの内的状態の死であるが,やがて「再生」へといたる心的変容を予徴するものでもあるからである。
子どもたちがそれぞれの発達段階において,自分たちの通るべき関門を通過して,次の段階に移行していく節目の儀式はイニシエーション initiationと呼ばれ,社会学では「通過儀礼」と翻訳される。もちろん大人の世界においても多くの通過儀礼は存在するが,心の成長が活発な青年期までの発達段階には,多くの重要な通過儀礼が布置される。極端にいえば,今日の一日をきちんと終息させ,十分な睡眠をとって元気に翌朝を迎えること自体が,イニシエーションであり,その節目には生命活動がもっとも低下する,暗黒の夜が位置する。
イニシエーションには,分離・解体・統合という3つのプロセスがあると言われる。たとえば本来の成人儀礼などにおいては,当事者は一旦それまで自分の依存していた家族や社会規範などから離れ(分離),「死」を意味する酩酊状態や苦痛の体験などによってそれまでの価値を解体し,大人として生きていくのに必要な試練を先輩から与えられ,また解体したものの中から大切なものだけを持ち越すこと(統合)で,成人となったことが認められる。
具体的な事例は,民族学者ファン・ヘネップ VanGennep,A.の研究や『心理療法とイニシエーション』(岩波書店:講座心理療法第1巻)などに詳しい。
イニシエーションにおいて,ある状態から次なる状態に移行する様を,ユングはまた「死と再生」と捉えた。たとえば暗黒の夜,人間がもっとも「死」に近付く夜を経て,翌朝また新しい自分として「再生」していくと捉える事が出来るからである。
思春期におけるさまざまな自己破壊行動もまた,死と再生のための通過儀礼と捉えられる。たとえば,拒食,万引き,援助交際,暴走行為,薬物依存などのどれをとっても,社会的使命の抹殺も含めて,まさに命がけの行為である。社会全体が意味ある成人儀礼を布置することが困難となった現代,若者たちは自らネガティブなイニシエーションを課して次なる段階に挑もうとしているように思える。
今日,心理療法過程はまた,個人的なイニシエーション過程の役割を担わされているとも言えるのである。
3.2思秋期における「対象喪失」(悲哀の仕事)の実際
『心理臨床大事典』(培風館)によれば,対象喪失 Object lossとは次のような事象を指すという。
①愛情や依存対象の喪失(相手との別離,失恋,離婚,配偶者・近親者の死,母親離れ,子離れ等),
②住み慣れた社会的・人間的環境や役割からの別れ(引っ越し,転勤,退職,海外移住,結婚,進学,転校等),
③自分の精神的拠り所となるような自己を一体化させていた理想,国家,学校,会社,集団の心理的喪失(敗戦,革命,失職等),自己価値(社会的名誉,職業上の誇りと自信,道徳的確信,自己像等)の毀損,低下,
④自己所有物の喪失(ペット,財産,住居等),⑤医療場面で起こる病気・手術・事故などによる身体的喪失,身体機能の障害,身体的自己像の損傷などをいう。これらの対象喪失は,それぞれの発達期や年代に応じた特有の課題と結びついて体験される。
フロイト Freud, S.は,このような対象喪失に伴う悲哀の心理過程を悲哀の仕事 mourning work とよんだ。フロイトによれば,対象が現実には喪失されているのに,内的世界の中ではいぜんとしてその対象に対する思慕の感覚が続いているために体験される心的苦痛が悲哀であり,この失った対象に対する思慕の感覚を最終的に断念するべく心の整理を続けていく作業が悲哀の仕事である。こうした悲哀のプロセスには,ある一定の時間的な過程と段階または反応パターンがある。
人生の中盤から後半にかけて,我々は自己の存在をも揺るがすような対象喪失に何度も見舞われるであろう。
子離れ,退職,近親者の死,そして不治の病への罹患など,「何のために生きて来たのか」「これから何を頼りに生きていけばよいのか」という,宗教的な課題との対峙を余儀なくされるのである。ユングはそれを「中年の危機」と呼んだ。
対象喪失の悲しみから立ち直る術は,フロイトが言うところの「悲哀の仕事 mourning work」にある。mournとは,本来は「呻く」という意味である。
自分にしか分からない悲しみや苦しみの中で,私たち自身がその悲しみや苦しみを他者のせいにするのではなく,最終的に自分の心の中に受け入れることによって,私たちが自己受容を果たせるという,そのプロセスを「悲哀の仕事」と言うのである。抑ウツ神経症の治療に際して,フロイトの導き出した概念である。
抑ウツ神経症者には,共通の病前性格があることを下田光造(執着気質)やテレンバッハ Tellennbach,H.(メランコリー親和型)は指摘する。それらを総合的にみれば「秩序愛」ということができる。すなわち自分たちの生活パターンにおいて,決め事としての秩序に従っている間は破綻しないが,一旦その秩序が外部から壊されるとバランスが取れなくなり,メランコリックな抑ウツ状態に陥るのである。
独自の「秩序」という愛情の対象を喪失したことから抑ウツ状態に陥ったとするなら,心理療法においては抗ウツ剤の力を借りながら,クライエント自身が最終的に依存していた「秩序」なるものが感傷的な自己慰撫であったことに向き合い,臨床家と共に新たな普遍的な秩序を創造してゆくことが望まれる。その悲しみや苦しみを,感傷にふけってしまうのではなく,クライエントにとってこの「死」にも等しい対象喪失にはどういう意味があったのかということを,心の中に収めていく作業が治療過程となるということである。究極的には,クライエントが臨床家と共に,我々の人生最期に訪れる共通の「死」を自分の人生の一部として取り込んでいくということである。
そういう意味で,「人生の四季」図で言えば,「往生浄土」なる,死後に往くべき世界が位置づけられているかということに収斂するのである。
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