瞑想法の種類

http://morfov.blog79.fc2.com/blog-entry-2.html  より

具体的な瞑想法を紹介する前に、大まかに瞑想の方法を分類して、様々な瞑想があることを説明しましょう。

瞑想には様々な分類方法がありますが、本ブログでは、仏教の諸派の基本的な分類法をいい加減に使いながら、次の4つに分けて考えます。

ただ、個々の瞑想法をはっきりと4つに分類できるものではなく、いくつかの性質を同時に持っていたりします。

* 仏教の修行階梯の体系的な説明に関しては、姉妹サイトの「仏教の修行体系」をご参照ください。

<集中する瞑想>

この瞑想は、何らかの対象に集中して、それを心に保持したり、それ以外の雑念をなくす瞑想です。

対象と完全に一体化して、思考やイメージ、感情などの反応をなくしていくことも多いようです。

仏教では「止」(パーリ語で「サマタ」、サンスクリット語で「シャマタ」)と呼ばれる瞑想法です。

ヒンドゥー教の古典ヨガは8段階で構成されていますが、その最後の3段階は下記の通りです。

6 ダラーナ(凝念・コンセントレイション):何らかの対象に集中

7 ディヤーナ(静慮・メディテーション):分析的・連想的に延長して保持

8 サマディー(三昧・コンテンプレイション):対象と完全に一体化

仏教では、これらは「止」であるとします。

ただ、7、8には「止」に収まらない部分もあると思います。

仏教やインド哲学は、無神論的、現世否定的、抽象的神秘主義の傾向が強いので、最終的には、対象をなくした集中を行います。

あるいは、対象のない意識状態に、究極的な存在を見たりします。

有神論的な宗教・宗派では、集中によって、最終的には至高存在や神に接します。

詳細は「集中する瞑想」をご覧ください。

<観察する瞑想>

外界や自分の心を自覚し、正しく観察する瞑想です。

日常的な常識、イメージや言葉を停止させて、あるがままに見つめる必要があります。

仏教では「観」(パーリ語で「ヴィパッサナー」、サンスクリット語で「ヴィパッシュヤナー」、英語で「マインドフルネス・メディテーション」、「インサイト・メディテーション」)と呼ばれます。

仏教では、仏教だけに特徴的な瞑想法であると言いますが、実際には、類似した瞑想は他宗教にもあります。

それぞれの宗教・宗派の教義、哲学に沿って対象を分析的に観察することもあれば、ただ、直観的に観察することもあります。

一般に、上座部仏教ではこの世のすべてが「無常」、「無我」、「苦」であることを観察し、執着を取り除きます。

大乗仏教では、すべてが実体のない「空」であることを観察し、執着を取り除きます。

密教では、すべての存在が母体としての「空」から生まれる実体のない存在であり、「空」と一体であることを観察し、執着を取り除きます。

上記した古典ヨガのディヤーナや、ジュニャーナ・ヨガにも観察する側面があります。

また、ギリシャ哲学などで使われる「テオリア」、キリスト教などで使われる「コンテンプレーション」は、「霊的・神的な本質を直観する」という意味で、「観照」と訳されます。

これらは、実在を対象にするので、「観察する瞑想」と言えるでしょう。

詳細は「観察する瞑想」をご覧ください。

<イメージする瞑想>

特定のイメージをありありと思い描く瞑想です。

一般に「観想」と呼ばれます。

ハタ・ヨガではディヤーナでも「観想」は良く行われます。

完全にイメージ世界の中に入り込んで、夢の中にいるように思い描くことが一般的です。

特定のストーリーの展開に沿って順次、思い描いていくことが多いです。

密教の場合は、イメージの生滅のプロセスや、その前後を大切にします。

基本的に、イメージは意図的にコントロールして思い描くことで、特定の心の状態に導きます。

しかし、逆に、特定の精神状態になった時に、特定のイメージが自然に現れるように、イメージを目標として方向付けて瞑想する場合もあります。

この場合は、ヴィジョンは「集中する瞑想」の結果だと言えなくもありません。

このブログでは「受動的な観想法」と表現します。

また、特定のイメージを意図的に思い描いた後、一定の範囲でそのイメージが自然に動くままに任せる場合もあります。

この場合、瞑想というより「夢見」に近い方法になります。

* 「夢見」については姉妹サイトの「夢見の技術」をご参照ください。

また、儀式的な行動を伴って観想を行う場合もあります。

逆に言えば、儀式は常に観想的な瞑想を伴うのです。

この瞑想法は、後期密教の生起次第で、特に複雑で高度な瞑想法として発達させました。

多くの宗教、特に秘教的な伝統には、それぞれに独特の観想のヴィジョンがあります。

詳細は「イメージする瞑想の基本」をご覧ください。

<気をコントロールする瞑想>

体の中を流れる「気」をコントロールする瞑想法です。

「気」はインドでは「プラーナ」、チベットでは「ルン」、ヨーロッパでは「エーテル(アイテール)」などと呼ばれます。

体の中に気を蓄積したり、気を凝縮したり、体の気の流路に気をスムーズに流したりします。

また、体の中にある気の凝縮体を溶かしたり、気の身体を浄化したり、気の身体を新しく作ったりします。

気は心身と密接に関係しているので、特定の姿勢や運動、呼吸、意識のコントロールなどと連動させて行います。

仏教では、後期密教の「究竟次第」に特徴的な瞑想法です。

ハタ・ヨガは基本的に「気」をコントロールするものですし、クンダリーニ・ヨガはその最終段階です。

仙道の内丹法も「気」をコントロールすることが核心です。

詳細は「気をコントロールする瞑想」をご覧ください。

<あるがままの瞑想>

意図的に心を集中したり、静めたり、心に現れたものを変えたりといったコントロールを一切行いません。

その状態で、すべての体験を、ただ意識し、自覚するだけの瞑想法です。

しかし、何も変わらないのではなく、意識することで、心に現れるものが自然に変化し、解放されるに任せます。

すべての現れに執着せず、同一化しません。

創造というのは、こういった状態でしか起こりません。

また、同時に、このコントロールしない状態で、心の現れた体験だけではなく、自分の本性にも気づくようにします。

そして、この気づきを常に保つようにします。

仏教では、ゾクチェンやマハームドラーに代表的な瞑想法です。

ヒンドゥー教では、ラマナ・マハリシやニサルガダッタ・マハラジのニサルガ・ヨガがほぼ同じです。

また、シャーマニズムの知恵の道の伝統にも、近いものがあるようです。

詳細は「あるがままの瞑想」をご覧ください。