https://plaza.rakuten.co.jp/atisha/diary/200505150001/ 【何でも許されるなら変容も早い (5)】 より
セラピー・グループでも、瞑想でも、そしてたぶんどんな場合でも、何があってもそれを許すという受容的な環境があるとものごとの変化・変容のスピードは早いのです。
例えば、インドのOSHOコミューンは、私の経験では、そこはとても受容性のある環境でした。
集まっている人々が、というだけでなく、そういう空気、雰囲気のある特別な場所でした。
ですから、例えばその人のなかの何かのエネルギーがどこかで止まっていたのなら、自然にそれを生きるということが起こっていたように思えます。例えば、子ども時代のどこかで何かのエネルギーが凍っているのならば、自然にそのエネルギーを生きるようになるような不思議な場所でした。
OSHOコミューンからの帰り道、ガジュマルの木の蔦でターザンごっこをしながら帰ったことを、いま急に思い出しました。絵描きになりたかったのにならなかった私は、気がついたら毎日、何枚もの絵を描く日々か続いたりもしまた。
だから、コミューンでは、セクシャリティーも、パワートリップ(エゴを満たす行為・権力闘争)も、トライハードで努力することも、野心も、欲望も、いわゆる瞑想的でない事柄が百花繚乱で毒々しく花開くことも起きましたが、OSHOと瞑想のおかげで、それを抑圧せずに「目覚めたまま生きる」ことができたぶんだけ、そういったものの変容が、起こりやすい場所でもありました。
気づけは、否定的なものは消えていき、肯定的なものは育っていくという原則があります。
聞いた話ですが、植物の成長も普通の場所よりもなぜか三倍早くて、植物学者が調査に来たそうです。
セラピーと瞑想の共通点
問題があったとしても、それを変えようとするよりも、少し誇張するというテクニックが、セラピーにはたくさんあります。
セラピーも瞑想といっしょで、問題を受け容れるということをベースとしているからです。
ハート瞑想の見地に立てば、受け容れることで生き生きとしたエネルギーがやってきて、変容を起こすともいえます。
カタルシス(発散浄化)も、内側に在るものに表現を許すことによって、それにエネルギーをあげているということともいえます。問題をなくす、捨てるためではありません。
だから、何にがあったとしても、現在そのままの状態でそこにいること。その瞬間にいることが大切です。
もしエネルギーが凍っていたら、凍ったままでいること。それは、ただハートにいればいいということです。というよりも、そのままでいたらハートがやってくる、というほうが正確な表現かもしれません。
そこにあることを許すということ。例えば傷みがあったとしても、それを許せば、エネルギーは流れだし、全体的になります。それが「もしあなたがアスホールならアスホールであることを許し、そしてアスホールネスになる。」ということです。
これはまた、ほとんどのセラピーの基本でもあります。
「マイトリー(慈):心理療法と瞑想の共通基盤」(ジョン・ウェルウッド)
心理療法や瞑想はいずれも多くの発達段階を人に通過させるが、わたしはそれらが重なり合う最大の点は、仏教でマイトリー「自分自身に対する無条件な友情」として知られるものを育むことに手を貸すことだとみなしている。普通、われわれが人々(や自分自身の一部)と親しくなるのは、彼ら(あるいはそれら)がある意味で楽しかったり、賞賛に値するからである。マイトリーとは、いかなる意味でも条件がつかない、自分自身との友情を指す。それは自分の経験に対して、必ずしも楽しいからという理由によってではなく、(実際に、その経験は苦痛であったり、楽しくなかったりすることもありうる)単に、自分が経験しているものだからという理由で友好的になることを意味する。マイトリーとは、われわれがこうすべきだと思っているやり方に従って暮らそうとすることではなく、自分自身を無条件に受け入れ、自分が人間であることを全面的に認めることを指す。(ジョン・ウェルウッド)
セラピー的には、何があったとしても、それをなくそうとせずに、どうせ変えるなら、少し大げさに誇張するぐらいの方がプロセスが進みます。
●「第一歩として、症状を受け入れ、余裕を与え、それまでさげすんできた症状と呼ばれる不愉快感に親しむことである。自覚をもって症状にふれ、できるかぎり心を開いて受け入れなければならない。これは自分自身が落ち込んだり、不安になったり、飽き飽きしたり、傷ついたり、困惑したりすることを許してやることを意味する。かつてあらゆる方法で抵抗してきたそれらの感覚の浮上を受け容れるのである。いや積極的にそれを推進するのだ。症状を招き入れて自由な動きと呼吸を許し、それをそのままの形で自覚しておくのである。これがセラピーの簡単な一歩であり、多くの場合、これで充分である。症状を本当に受け容れたとたん、その症状に隠されている影の大部分もまた受け容れるからである。そうなると、問題は消え去っていく。」
●「第一は問題に関連した筋肉をさらに硬直させ、圧力や緊張をこいに高めることである。」
(以上 いずれもケン・ウィルバー著 「無境界」より)
ところで話は違いますが、よしもとばななが究極のラブ・ストーリーと呼んでいたケン・ウィルバーとその妻トレヤの闘病記「グレース・アンド・グリッド」のなかで、たしかトレヤは、痛みをハートに吸い込むといういわゆるOSHOの世界ではアティーシャ瞑想と呼ばれているトンレンをしていたように記憶しているのですが、これはほんとうにトータルなら愛の物語でした。
「グレース&グリット―愛と魂の軌跡 春秋社」
以下出版社からの内容紹介
トランスパーソナル心理学の天才的理論家として彗星のように登場し、一世を風靡したケン・ウィルバーが、ようやく出会った理想の女性トレヤ。触れ合ったとたん恋に落ち、たちまち結婚した二人を待ち受けていたのは、トレヤの悪性の乳ガンと、悪夢のような闘病生活だった。5年後の彼女の死にいたるまでの愛と葛藤、女性としてのめざめ、さまざまなガン療法、介護のあり方、そして死の受容と超越が、トレヤの手記とケンの文章によって、息詰まるほどの生々しさで語られる、究極のラブ・ストーリー。
しかし、「何をするにせよ、強烈に、最高のところまでやり、お粗末にならず、怠けず、部分的ではなく、全身全霊でその中に入りこみ、完全な没頭が起こるにまかせる」ということは、体力を使うことだなあ、と思う人もいるかもしれませんが、体力なく、ベットから起きれなくて、寝たきりのように落ち込んでいるのなら、「強烈に、最高に、お粗末にならずに、怠けず、部分的ではなく、全身全霊でその中に入りこみ」その落ち込みに「完全に没頭」すればいいと私は考えます。
「あなたがもしアスホール(尻の穴=ひどい奴の意)ならアスホールネス(ホールネス=全体性、つまりまるごとひどい奴)になりなさい」
と変容の錬金術の先生のワドゥドゥが、めずらしくジョークをいったことを聞いたことがあります。
「私は死んでるみたいです。」という人にOSHOが、「それだったら、死んでいなさい。時々、道で立ち止まったり、ベットで倒れて死んだように横たわっていなさい。」といっているのを読んだこともあります。
どんな状態であれ、それとひとつになり分裂していないこと。それがトータリティーだと私は思います。
しかし、落ち込んでいるときにほんとうに落ち込むためのエネルギーすら、私たちはけちります。
0コメント