高天原の侵略 神々の降臨 ④

http://home.catv-yokohama.ne.jp/77/yowa/kamigaminokourin.html  【高天原の侵略 神々の降臨】 より

アマテラスとスサノオの人物像  

 天皇家の祖先とされるアマテラスではあるが、注意して記を読んでみるとその記事は驚くほど少ない。

アマテラス

スサノオ

日向の橘で誕生

日向の橘で誕生

スサノオを待ち受ける

海原へ行かずに泣いていた

天の安河で誓約

天の安河で誓約

服織りして後に天の岩屋籠り

田を荒らす

オシホミミ・次にホヒを降す

大気都比売を殺す

ワカヒコ・鳴女を降す

大蛇を退治する

タケミカズチを降す

大国主を苛めて後に許す

ニニギを降し宇受売に問わしむ

(高倉下の夢に現れる)

      

 上記の表を見るとアマテラスの伝承は、ほんの僅かしかなかったことが窺われる。

 独自の説話は訪ねてきたスサノオを、警戒しながら待ち受ける姿と服屋で服織りをしていたこと、天の岩屋に籠った事だけである。その他の説話は全て高木神と共同で行ったものである。

困ったことがあると隠れてしまう女らしい気の弱さ・気難しい一面を持っている他に、一朝事ある時には武装して戦陣に立ち、指揮を執る勇ましい面とをあわせもっている。だが作戦会議では配下の武将の意見を採用して、自分の意思を示さない優柔不断の側面をも有している。

人類の始祖神イザナギの子であることを除けば、普通のおばさんのようにも見える。占いを行ったこと、託宣を行ったことなどの神事に携わったことは一片も語られていない。

その事績や功績については一切記されていないことから、古事記著述以前にアマテラスのキャラクターや、ストーリーが設定されていなかったことが分かる。紀においても月読命を怒り別居したこと、稲を初めて植えたという事が述べられているが基本的な違いは見出せないようだ。

記の方が紀よりも古く素朴な伝承を伝えている、ということは多くの先学が言っている事である。古田武彦も紀にあって記にない記事は、大いなる疑いを持って臨むべしというような主旨を述べている。

こうした考え方を持っている論客は少なくないようだ。日本にいた先住の農耕民族が信仰していたのがアマテラスであり、後に渡来してきたのが高御産巣日神一族であるとする説がある。またその逆を唱える識者もいるが前者の説をとると違和感を感じない。

農耕民は太陽を軸として、日々の暮らしを立てている。その太陽の神が「天が照らす神」であり、やがてアマテラスと同一視されていき、太陽神とそれを祀る巫女と共にアマテラスと呼ばれていった可能性を考えたい。

ある時期から「アマテラス」は固有名詞ではなく、普通名詞となっていたかもしれないのである。

このことは大気都比売を殺したり、大蛇を退治して土地の人を助けたりしたスサノオとは対照的である。良いにしろ悪いにしろ、スサノオは活き活きとした説話となっているが、アマテラスに至っては一向にその人物像が伝わってこない。

松本清張はスサノオは狂言回しとして、無性格に作られている。記・紀の作者がスサノオに与えた役割はただ一つ、大巳貴の舅になることだけであったという。このようにスサノオが、天孫族と出雲を結びつける役割りを担ったと見る論者は少なくない。

 アマテラス像は、はるか遠い過去の記憶の片隅、一握りの伝説を膨らませてようやっと、少しの物語を形作ったという印象が否めない。とても高貴な至高の極みにある天皇家の祖先とは到底眼に映じないのである。

 このことは何を意味しているのだろうか。どこかの一地方に辛うじて、伝えられていた伝承だったのか、その土地の地神だったのか。古田武彦の言うように対馬の神様であったのか。

更なる探求が必要であるが、残念ながら今は詳らかにできない。松本清張はアマテラスは太陽神として、元々性別のなかったものを記・紀が構成される間に物語の都合次第で、男になったり女になったりしたと思うと述べている。

「アマテラス」の名前には「アマ」がついているが、高天原関連の名前には全て「アマ」がついている。アマを取れば「照らす」となり、行為か事物の神格化になりそうである。だとすると太陽の光を照らす鏡の神名化と考えられる。と言っている。(古代史疑)

 武光誠は七世紀後半に天皇家はアマテラスを、国全体の守神として位置づけようとした。そのため「大宝律令」によって豪族たちが、アマテラスの祭祀に強制的に参加させられるようになったとしている。

 アマテラスが始めて伊勢に移り住んだところはただの祠にすぎなかった。井上宏生は、天武とその妃・持統の時代になって皇祖神に昇格したと述べている。

 由緒がいま一つはっきりしない「ホツマツタエ(秀真伝)」では、アマテラスは男神であり96カ月もイザナミの胎内にいたとしている。またスサノオは紀伊で生まれたと述べている。

 同書ではイザナギの亡骸は淡路の伊佐奈伎神社に葬られ、その魂の緒が近江の多賀神社に戻ったとしている。更にニニキネが茨城県に最初の都を作り、後に富士山麓に広大な土地を開墾したとある。その関東の国を「ホツマの国」としている。

 また宮下文書(徐福の項で後述する)にあっては、スサノオはタカミムスビの血統であり、大陸から眷族千三百人を引き連れてきて、瑞穂の国・高天原を占領しようとしたと述べている。

 この時にアマテラスは山奥の岩穴に籠り、スサノオは大巳貴命によって捕縛され忠誠を誓い、出雲(隣国の信濃という)へ追放された。後に各地を平定し三種の神器を作りアマテラスに奉った。ちなみに同書では高天原は富士山の北麓にあったとしている。

スサノオは戸隠山で死去して、鳥上山に葬られたという。鈴木貞一はスサノオの陵を長野市の伊豆毛神社と想定している。

 大国主神の死生譚

 須佐神社に伝わる「須佐社由緒記寫」には、大宮の南西の原田村に湯山主尊誕生の山があり、名を「おろし子山」または「誕生山」という。との記事がある。また「須佐大宮略記」には、「原田村に誕生山という山あり、ここで大巳貴命が誕生した。反部村湯村にて産湯を使った。」と出ている。

 この両書の記事からは、湯山主尊と大巳貴命は同神であるとも受け取れる。でなければ、おなじ山から湯山主尊と大巳貴命の二人の偉人が誕生したことになってしまう。

 この伝えは紀の第一の一書と同じであり、その信憑性が浮かび上がってくる。紀には大国主神の記事は殆どないが、一書にはスサノオの息子とされ政策的に画策した跡が感じられる。

「石に焼かれて死んだ時にキサガイヒメとウムギヒメとが、母の乳汁を塗ったところ立派な男子になり蘇生した。」このくだりは性交から誕生の手順を思わせる。ここで本当に死んで、すでに産まれていた子が後に親の名前で呼ばれたのではないのか。大国主神が多くの名前を持っている事がそれを窺わせる。

「大国主神」は同じ文節の中ですぐに「大穴牟遅神」の表現に変わっている。この事は、今は大国主神としてつとに知られている存在だが、前は大穴牟遅神と呼ばれていた事を自ずから物語っている。

 出雲国風土記によれば、支佐加地売きさかじめと宇う武む賀が比ひ売めは、御祖神魂の命の子供になっている。

 大国主神を一目見たスサノオは、この男は葦原色許男命だと言って迫害した。これは大巳貴命が、侵攻の意図を持って根の国に来た事を推測させるものである。

 大国主神は他に幾つも名前を持っていた(呼ばれていた)。

 

 大穴牟遅神   (大巳貴 大汝命)

葦原色許男神

八千矛神

宇都志国玉神

大物主       別人?

大国玉神

倭大国魂神    大巳貴の荒魂

幸術魂辞代主

八嶋男命

伊和大神

大倭神社注進状その他によれば、大国魂神は大巳貴命の荒魂であるという。また大物主は大巳貴命の和魂という。(日本文化史論考)

妻とした女性は次の六人。

 八上比売 木俣神 沼河比売 須世理毘売命

 多紀理毘売命 盾比売命 鳥取神

 松本清張は大国主の名前のうち四つまでもが、大和のものであることから出雲は大和にあったとしている。また武光誠は大国主の名前の多くは、各地の農民が祀った神の名前・土地の神の集合体であると述べている。

吉田大洋は、大国主は代名詞であり、数代にわたって何人もいたという。これが事実とすれば、スサノオが六世も後代の大国主と交流があったのも頷ける。記がスサノオの六世としたのが、六代目の大国主であり最後の大国主かもしれない。

宇佐神宮の宇佐家でも、七代に亘り同じ名前を名乗っている事もあり、特に違和感は感じられない。親から相続した後に、代々名乗る当主の名前が決まっていたのだろう。

異常なる長命とされている武内宿禰もまた、何代にも亘って同じ名を名乗ったのであろう。紀の一書では大巳貴と大物主は同一神とされているが、松前健は大物主は大和固有の国津神であり、元々は関係なかったといっている。

だが三輪の神や賀茂の神が大巳貴の眷族とされたのは、記紀にとどまらず出雲の賀詞でもそうなっていると論述している。たしかに幾ら精力絶倫の大巳貴でも、こう広範囲に浮名を流すことは難しいと思われる。

しかし三輪の司祭家の大神氏の先祖、太田田根子は出雲臣の同族の神門臣の娘ミケ姫を妻としている他、十世の孫のオオミケモチは出雲のクラヤマツミ姫を妻にしている。

松前はこのことを、かって出雲勢力が三輪の家系に入り込んで来た事の反映であると述べている。また三輪山の麓に出雲ノ庄という地名が古くからあることや、狭井神社が薬法の神とされ、少彦名との関係をしのばせる。アジスキタカヒコネなどは、葛城の神でありながら出雲にも神社があったり、出雲風土記にも説話が載っているとその関連性を述べている。

出雲神話は大和朝廷によって取捨選択され、拾い上げられたものが記紀に組み込まれ、捨てられたものが出雲国風土記に載せられたというのは門脇禎二である。このことは、記紀神話と出雲国風土記との間には、同じものがほとんどないことからも分かる。出雲の人々が崇めてきた神々も、出雲の主な氏族の祖先神も高天原の神々の後裔に変歪されてしまった。

出雲の神々は主に大巳貴と神産日とスサノオの、三系流に結び付けられ神産日とスサノオの神系は子神との婚姻によって大巳貴に結合されている。スサノオは須佐の地に生まれた神で、神産日は島根郡、出雲郡、神門郡の神で大巳貴は本来「意宇王」が祀っていた神であろう。大巳貴と子神の神話・伝承は、佐太大神の居る秋鹿郡を除くすべての郡に亘っているとしている。

武光誠は、出雲は荒神谷の斎場が作られた二世紀半ばに、統一され全盛期を迎えたと論じている。荒神谷遺跡から出土した銅剣の四列は、それぞれ意宇郡、島根郡、出雲郡、神門郡の神社の数にきっちり対応している。

出雲各地の豪族が銅剣を一本ずつ持ち寄って祀りを行っていた。出雲王国は四世紀半ばまで続いていたと述べている。

大国主神の神話は、朝廷が神代史に出雲神話を取り込んだとするのが大方の見方となっている。昔話や童話に見られるようなほんわかとした、さもありそうな庶民に近い話が展開されていて、他の神話の部分とは何か異質なものを感じさせる。稲羽の白兎の伝説を、メルヘンチックなものではなく、沖ノ島からの宗像氏の撤収であるとする説がある。

兎は宇佐岐であり、兎神は宇佐岐神である。紀の第三の一書に、日神の生れませる三女神は芦原中国の宇佐嶋に天下り、いま海北の道の中にいますとある。この宇佐島は沖ノ島であろう。沖ノ島には海水で禊をするという厳しい掟がある。禊をして海風に吹かれると大変に辛いという。

韓半島への中継基地で休みどころでもあり、祭祀の場所でもあった沖の島が白村江の敗北により、数百年の間持っていた半島の権益から完全撤退を余儀なくされたため、宗像一族は沖の島に留まっている理由がなくなった。

このため大挙して九州の拠点に引き揚げることになり、安曇氏に船団の提供を依頼したが、謝礼の支払いに際してトラブルが生じたと推測する。ワニは安住氏を表象しているという。(神々の流竄)

 宇佐家の伝承では、この時に古代氏族のワニ族から迫害され、苦しんでいたのは因幡国の兎狭族であったとしている。

 記には大国主がスサノオの六世とする系図、娘婿としている系図と異なる二種が記されている。古田武彦は後者の系図が正しいものとして、前者には四世代の神の名前がはめ込まれていると論じている。

 新編古事記

 大国主には八十人の兄弟がいたが、兄弟はその国を大国主に譲る事になった。稲羽の矢上姫に求婚する時には大国主を従者として連れて行った。

 途中で於岐ノ島から渡って来ていた白兎に出会った兄弟たちは、嘘を教え悪さをするが遅れてやって来た大国主は真実を教え苦しみから救ってやった。

 

 この兎は、あなたが矢上姫を得る事になるでしょうとい言いその通りになった。今にいう兎神である。

 矢上姫は兄弟たちの求婚を拒み、大国主を選んだ。兄弟神は怒り大国主を殺そうとした。

 伯岐国の手前まで来たとき、山の上から大石を転がして大国主に抱きとめさせて焼き殺してしまった。

 悲しんだ親が天に舞い上がりカミムスビノに誓願すると、キサガイヒメとウムギヒメを遣わして生き返らせた。

次に兄弟たちは大国主を木の割れ目に挟み圧死させた。この時も母神が駆けつけ蘇生させる事に成功した。

 そしてここにいては危険だからと紀の国のオオヤビコの所へ行かせた。八十神は追いかけて弓を構えて引き渡すよう迫った。

 オオヤビコは大国主を逃がして、スサノオの根の堅州国へ行くことをすすめた。

 根の国での試練

 因幡から紀の国を経て舞台は出雲へと移ってゆく。従来、大国主などの説話は出雲での出来事・伝承とされてきた。ところが梅原猛はそうではなく出雲は大和にあり、大和での出来事であったとする。

 出雲は遠国の流刑地であって、地神系の流懺の地として設定されていたとする。そして出雲の歴史は古くないとみており、出雲大社も大国主の説話ができた頃、つまり八世紀初頭頃に建設されたとしている。

 従来からの出雲の中心勢力は意宇郡にあり杵築郡にはなかったとする。この論は一般的に受け入れられているようだ。

 新編古事記

 大国主はスサノオの所に行き、まず娘のスセリ姫と会った。スサノオは蛇の部屋に大穴牟遅神を寝かせた。

 スセリ姫は夫となった大穴牟遅神に蛇のひれを授けたため、蛇の難を避けられた。次にスサノオは百足と蜂のいる部屋に大穴牟遅神を入れた。

 この時も百足と蜂のひれを授けられて難を逃れた。スサノオは更に大穴牟遅神を野の中に入れて周囲から焼き殺そうとした。この時は鼠に逃げる場所を教えられてことなきを得た。

 スサノオは次に頭の虱を取らせる。そこには百足が多数いたが妻の機転により難を逃れスサノオは寝てしまった。

大穴牟遅神はスサノオの髪を柱に結び付けて、出口に大石を置いてスセリ姫と逃げ出した。この時スサノオの太刀と弓矢、詔琴をもって逃げた。

 スサノオは黄泉の比良坂まで追ってきて、その太刀と弓矢をもって汝の異母兄弟を追い落とし、大国主神・宇都志国玉神となって宇迦の山に太い宮柱を建て宮殿を作れと言った。

 大穴牟遅神は八十神をその太刀にて切り伏せ追い払い国つくりを始めた。矢上姫はやって来たが、スセリ姫を恐れて産んだ子を木の又に挟んで帰ってしまった。よってその神を木の又神・又の名を御井神という。

大国主神の妻と神裔

 記は白兎の話とスサノオの虐待の話が終わると、大国主神はすぐに八千矛神と呼称が変わっていて、越の国へ妻を求めに行く話となっている。

 大国主神と八千矛神は別神との説もある。大国主神は八上比売に妻問いした時も須勢理毘売に妻問いした時も歌は読んでいないが、八千矛神は越の沼河比売を妻問いする時には長い歌を交換している。

 この歌自体が誰の作であったのか問題は残るが、性格の違いの描写からは別神であった可能性が浮かび上がってくる。互いに大領主を連想させる名前を持っているところは、良く似ている事から弟とか親族であったのだろうか。

 別神であったが分り易くするためによく知られている大国主と接合されたものか。

 この項になると大穴牟遅神が八千鉾神の表現に変わっている。八千鉾神は越の沼河姫の所に求婚に行く。

 戸を挟んで歌の交換をした後、次の夜に会った。また妻の須勢理毘売は大変嫉妬深かった。そのため出雲から大和に行くときも歌を交換して愛を確かめあった。

大国主を祀る杵築大社(出雲大社)が杵築へ移ったのは、716年の事でそれまでは熊野にありクナトの大神を祀っていた。(謎の出雲帝国)熊野大社は意宇川の上流に位置する八束郡八雲村に鎮座している。祭神は熊野大神櫛御気野命であるが、別命はスサノオとも言われている。

熊野大社は元は杵築大社よりも上位の大社とされていた。出雲国造家が意宇の地より杵築大社に移ったことにより衰微していったとみられる。スサノオの系譜に大国主の系譜を繫いだものか。古事記は八島士奴美神と八島牟遅神を同神としている。

出雲国風土記の楯縫郡の条に、高天原の宮殿とみられている「天の日栖宮」が出てくる。この宮をモデルとして大国主の宮を造れと神魂命が指示している。古田武彦は大国主が実在とすれば、「矛神」の名を持っていたことから弥生期の人物とする。

そしてこの宮を(同氏の言う)「天国」隠岐の島海士町に比定している。その背景には黒曜石の流通があると論述している。