猿田彦の下駄

https://mintun.exblog.jp/20858226/  【猿田彦の下駄 3⃣ みちひらき】 より

魚根家(イン二ヤー)の下駄には、日付があった。一九六七年 十一月十三日

半世紀も前の話だ。ただ、比嘉康雄氏のイン二ヤー拝所図(1979年調べ)には

描かれていないので、後からこちらに移されたようだ。

下駄ははたして、猿田彦にちなんで奉納されたのか。いや、私はそう確信しているのだが…。系図上、猿田彦は綿津見神(海の神)の子であること、また安曇氏の祖神であることは、既に何度か書いた。

いっぽう沖縄では、海の神を「龍宮神」と呼ぶのだから、 竜宮神(猿田彦)は、イン二ヤーの始祖である。

さらに、古来、久高島で受け継がれたニライ大主(うふぬし)という神役も、イン二ヤーの女が継ぐとという決まりがあった。

ニライ大主について、比嘉康雄氏は次のような口伝を遺している。

・ニライ大主は島の最高神である ・聖地ニラーハラー(ニライカナイ)の主である

・しかし、結婚できない神役だったため途絶した ・正月にはニライ大主が先頭に立ち、行進をした

最後の口伝は、とても貴重な情報だ。正月神事の先頭に立つ…その神を、猿田彦と言わずして何と言おうか。「みちひらき」の神とは、まさに猿田彦のことであった。

ニラーハラー(ニライカナイ)とは「東方の聖地」のことだが、「始源の地」という意味も。つまりニライ大主とは「渡来神・猿田彦」のことでもある。

やはり去年の旧正月の伊敷浜。古来、数々の神事が行われた。

旧正月の行列神事。先頭を行くニライ大主の後には、ソールイガナシーや根人(ともに男性神役)や神女が、そしてまた島人たちもついて外間殿まで歩いたという。

〜先頭のニラー大主の親戚の人がビービタトゥという笛を吹き、行列して外間殿にお迎えし(中略)ニライ大主は外間の中央に座した。それから正月の行事が始まった〜

※比嘉康雄氏著『神々の原郷 久高島』より

正月行列の到着地・外間殿。(やはり去年の旧正月に撮影)。

今年は来たる2月19日。三線と太鼓で新年を寿ぐ風景が見られる。

男性が健康を祈願、神人が神酒を振る舞う酌とぅい(酌とり)。

外間殿に掛かっている七福神の掛け軸。なぜ久高島に七福神?と思っていたが、

寿老人(中左)は白鬚明神とも呼ばれる。つまり猿田彦のこと。ようやくその意図が飲み込めた思い…。


https://mintun.exblog.jp/20866103/ 【猿田彦の下駄 4⃣ つまりアマミキヨ】 より

ニライ大主とは、ニライカナイの主神。聖なる他界(常世の国)にはニライ大主がいる。

(※ここまでが比嘉康雄氏による「島人の他界観」)

そのニライ大主を代々司るが魚根家(イン二ヤー)。拝所には、猿田彦を思わせる下駄と杖が祀られている。それは本当に猿田彦大神のレガリアなのか。

誰かに聞こうにも、魚子家とニライ大主(神役)は途絶、ニライ大主が司祭した祭り(どれも行列するお祓い神事)を、リアルタイムで見た人も、由来を語る人も既にいない。

それでも、ニライ大主は猿田彦のことであり、渡来神であり、最高の国津神であり、地主神であり、つまりアマミキヨである。それゆえ、岐(くなと)の神、先導神でもある。

そう考える根拠のひとつに、アカララキ(曉の御嶽)がある。

王と聞得大君の一行は久高島行幸の際、この港(ちみんとぅまい)に着くとアカララキに参詣した。

まさに「神の島」を守る地主神、そして先導神である。

またテーラーガーミ(男たちによる太陽の祭り)で、お祓いの行進の出発地点になるのも、この御嶽。アカララキの下の港は、王府時代の大君の港。

遠く正面に、本島側にある斎場御嶽が見える。

ところで、アカララキに座す神は太陽神であり、龍蛇神でもある。

アカララキは、出雲大社の龍蛇神の小祠と似ていると語り部は言った。

私にもこの神体石が、トグロを巻いた蛇に見える。

こちら出雲大社「神在祭」。稲佐の浜で迎えられた龍蛇神。

絹垣(きぬがき)という白幕で囲われつつ大社へ進む。

一昨年の神在祭の夜、出雲地方で流れたTVニュースより。

さて、猿田彦に関して、語り部がまたひとつ重大なことを思い出した。

郷土芸能『長者の大主』にまつわる話だという。

「あの劇に、ニライ大主が登場するのですよ」

私は観たことがないが、南城市指定の指定無形民俗文化財になっている。

「沖縄の各地にある芝居ですね、夏祭りで演る」

「ニライ大主は長者の前に現れ、アマスのアマミツに授けた五穀の種を

与えて、作り方を教えるんです。『百名の長者の大主』ではギレー大主ですが、

 あの神様がニライ大主、つまり猿田彦大神なのです」

なるほど…太陽の霊力を継いだ渡来海人族の祖先神は、海においては龍宮神であり、

陸においては稲荷神だった。そう言えば…各地の稲荷神社には猿田彦大神が祀られている。


https://mintun.exblog.jp/20900223/ 【「魚根家(イン二ヤー)の“魚”とは、鰐鮫ですよ」】

と、聞いたときのことは書いておかねばならない。

昨年末、語り部が霊視した。「やはり和邇氏ですか?」と聞くと「和邇氏です」と言う。

古代大和豪族・和邇氏のトーテムは鰐鮫で、龍蛇神を崇めた。

そして猿田彦は和邇氏の祖神。ならば「下駄」が示すのは和邇氏なのだろう…とは思っていたが。

大和朝廷の成立には欠かせない氏族と言われるいっぽう、その名を記紀で見ることはほとんどなく、研究も少ない。

ただし、上古、玉城の和名に和邇氏の村があったという口伝は、ミントングスクで秘かに語られてきた。

魚根家(イン二ヤー)の拝所は、魔除けの「石敢當」とアジケー(シャコ貝)が並ぶ、のどかな集落内にある。

それでも、話をすぐには飲み込めなかった。

イン二ヤーの拝所があるのは久高島である。神の島とはいえ、祀られる必然はどこに。

「下駄だけで和邇氏と判断してよいですか?」「拝所の場所からしても、そうだと思います」「拝所の場所…?」一帯は、久高島で「くんぶち山」と呼ばれる。

その歴史がどれほど深いかは、確かに地名に表れている。

「くんぶち山」は漢字で「国淵山」。国の淵の山。「淵」を辞書で調べると「物事の出てくる根源」とある。

つまり「くんぶち山」とは、国ができた根源の山。ここが、日本という国の原郷と解釈できる。

いっぽう、イン二ヤーは「(魚)根家」。根家とは「もっとも古い家」という意味だが、すると、くんぶち山の魚根家は「国の根源にある元家」となる。

かつて「くんぶち山」の由来を島人に尋ねると、少し困った顔で、目を中空に泳がせていたものだ。ここはただならぬ歴史を秘めた場所なのだと思った。

↓久高島にある「くんぶち山」の御嶽付近。

威部(イビ)に石臼も祀られる。古代、石臼は御神体だった。

「くんぶち山で、何があったのですか?」私は聞いた。

「王権の委譲が行われたのだと思います」「王権の…」「国津神から天津神に、そして神武に」「何を譲ったのですか?」「神代の剣です」

剣とは記紀に登場する「神代三剣」のことで、現在そのひとつは石上神宮(奈良県)に祀られているという。

「誰が譲ったのですか?」「猿田彦ですよ、ミントングスクのソネ彦」

ソネ彦!!ミントン古伝の『如件のごとし』に、「アマミキヨの夫」として、その名が見える。

「猿田彦がソネ彦だったとは。で、ソネの意味は?」「私は、蘇・根彦なのだと思っています。または、祖・根彦。彦は日子、日の御子です」

「根」という字は、沖縄の歴史に頻繁に登場する。

根家には、祭祀を司る根神(女)と根人(男)がいる。百名玉城は「根の国」と呼ばれ、根所という旧跡がある。

話は飛んで、和邇氏関連の天皇の諡号にも「根子」がつく。

猿田彦と呼ばれた「蘇・根彦」が「アマミキヨの夫」で、記紀によって名前を変更された神なら、後世、末裔が願いを込めて「蘇る根の日子=蘇根彦=ソネ彦」と語り継いでも不思議はない。

「蘇民将来の蘇でもありますね」と、語り部。和邇氏、ソネ彦とは素戔男尊に繫がる系譜なのか。何やら「根の国」の真意が解けてくる気配…。

和邇氏の和邇は、和珥、和爾、丸子とも表記される。「マルチャは丸子の意味だろうと思う」と語り部は言う。

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