いのちと生命の違い

http://www.relnet.co.jp/kokusyu/brief/kkouen3.htm  

【『いのちと生命の違い』 元大阪大学蛋白質研究所所長 泉 美治】 より

(前略)

*難しい「いのち」の定義づけ

さて、今日のお話の本題でいますけれども、先日、三宅善信さんの方から、「何か生命(の問題)か臓器移植か、そのようなことを話してくれないか?」という話がございまして、このレジュメに書いておりますことだけでも、きっちりと話そうと思いますと数時間を必要とするぐらいに非常にややこしい分野の話でございます。今日はどこまで行けるか判りませんけれども、私自身が見ておりまして、宗教者の皆さん方、あるいは一般の皆さん方も含めてでございますけれども、それから、生化学をやっておる医学関係の人たちも含めまして、この「いのち」というものの取り違いをしているように思われるので、これについてお話をしてみたいと思うのでございます。同様に、医学関係の方から、逆に「宗教的な観点から、生命問題について話してくれないか?」と、両方から「話をしてくれ」をいわれるのも、そういう関係からでございます。

私、ここ(レジュメ)に書いてありますように、「臓器移植」―特に「心臓移植」―一般の臓器移植がどうのこうのいうのではなくて、特に問題になったというのは、心臓の―いわゆる生体臓器の―移植が中心の話でございます。それで、「脳死臨調」なんかで、いろいろと「脳死問題」と「生体臓器移植」とごっちゃになりまして、「死」の定義をせずに議論をされたというのが現実でないか、と私は思います。

もうひとつはですね、「いのち」というものに対しての理解の定義、いわば「いのち」の定義をせずに、脳死臨調は行われておった。ここが、混乱しているかぎり「あれでは絶対に終束するはずがない」と私は思うのでございます。どこが一番「いのち」というものについての理解が難しいかと申しますと、「いのち」という言葉を辞書で引いてもらったら判りますように、「生命の生命現象の属性」と書いてあります。それでまた、「生命現象」のところを引いたら「生命の属性」と書いてある。これでは、「鶏が卵より先や」と書いて、片一方で「卵が鶏よりも先や」と、まるっきり反対のことを書いてあるのと同じです。これでは、全く意味をなさん訳でございます。

こういうことが起こるのはなぜかと申しますと、「いのち」というものは、主体的にわれわれ誰もが自分の「いのち」というものを、誰一人として感じておらない人はないからであります。しかしながら、客観的に「いのち」というものを見た人も、それから、実際に「どういうもんや」ということを言えた人もないというものが「いのち」であります。ということは、「いのち」というものは相当抽象的な存在であるということで、話が非常に複雑になるというのが「いのち」の問題であろうかと思うのです。

皆さん方は、宗教界の錚そう錚そうたるお方でございますので、私よりも宗教的な意味での「いのち」というものはよくご存知と思いますので、まず最初に、医学的あるいは科学的にいう「生命」とはどういうものなのか?ということについて、お話をしたいと思うのでございます。

これは、ひとことで言わしていただきますと、科学的にいうておる「生命」というのは、「いのち」そのものじゃないんです。いわゆる「生命現象」なのです。お医者さんが、聴診器を当てて「もう死んだ」あるいは「まだ生きている」とよくいいますが、何も「いのち」そのものを見ていうているのでなはくて、いわゆる「生命現象」すなわち、心臓が動いておるか動いておらないか、脈があるかないかということで、それを判断しておるということです。「いのち」は見えるものではないんです。「いのち」は、生命現象を通して、「そこにいのちがある」ということが判るのが、「いのち」というものなんです。

したがって、科学の取り扱っているのは、「いのち」ではなく「生命現象」なのです。それを、「自分が今、感じておるいのちそのものを、科学は解明しておる」と理解されるところに、話がややこしくなる原因があるのでございます。生命現象というものを、これを「いのち」そのものと、もし置き換えますと、「いのち」にはいろんなレベルができてくるというおかしなことになります。「脳死問題」がやかましくいわれておったころに、「科学がもっと進んだら……」あるいは「科学が明確に生命を捕まえないから、いわゆるいのちが規程できない」というような、そういう錯覚をほとんどの方がされておったのではないかと思うんです。

しかしながら、現実には、科学が進歩すればするほど、科学的にいう「生命」というものは不可解なものになってゆくということでございます。たとえば、「脳死」というようなもの、あるいは「植物人間」というような状態が現れたというのは「医学が進歩したから」でございます。特に、「脳死」の場合は、「自分で呼吸して、自律的に自分の体をコントロールする能力を失っている」わけです。

皆さんは、「心臓が止まったらすぐに死ぬ」と思うておられますが、心臓が止まったらなぜ死ぬかと申しますと、心臓が止まりますと、やがてもう血液が環らないようになって、体中で一番酸素を消費するのは脳でありますが、脳は、だいたい十五分ぐらいの血液の循環が止まりますと、もはや元の状態に戻らない状態になってしまう。ということは、目の眉間のちょうど裏側のところにリンゴの芯みたいな形をした、視床下部という場所があり、その内側に、脳幹という小さい場所があり、この部分が体全体のコントロールをやっておる。あらゆる神経が通過しておるちょうど芯のようなところであります。

ですから、それ(脳幹)が止まりますと、私たちの体を作っておる臓器―心臓とか筋肉とかいろんなものを、桶おけの側板とか底板とかいう部分に例えますと、ちょうど脳幹というのは、桶の「わっぱ」みたいなもんでして、それを全部まとめておるそういう機能を持っているのが脳幹であります。そこが、心臓が止まって数分ないし十数分のうちに、脳幹の機能が止まって「脳死」が来て、そして、脳死が来てから、またしばらく経って呼吸が止まり、全部がずうっと止まってきて、徐々に体全体に死が及んでいくということになるわけであります。

昔は、強制的に呼吸をさせるような方法はありませんでした。心臓が止まりますと、電気でショックを与えてもう一回心臓を動かすというようなこともできませんでしたので、心臓が止まれば必然的に「脳死」が訪れて―脳幹の機能を失うことを「脳死」というのですが―しかし「脳死がきたから、即、死が来る」という問題ではないんです。それからしばらく時間が経ってから「本当の死」が訪れてくるわけであります。

したがって、昔は、心臓が止まったらそれ以上は医学的に救う道がなかったから、まあいえば「ご臨終です。誠に残念でした」と医者が言えば、万事混乱なく事は終わっておったわけでございます。今では、強制的に呼吸をさせたり、心臓を動かしたり、いろんなことができますので、それで、中枢(脳幹)のコントロールができなくなりましても、心臓と肺の機能を動かすことが人為的にできるようになりましたから、しかも、栄養の方は、全部注射で蛋白質に代わるものを注入することができるようになりました。

これは、私自身が薬屋としてただひとつやったことですが、蛋白質に代わるアミノ酸の輸液というのがありますけれど、皆さんが病気を長いことされましても、ひとつも痩せることなしに、肉や魚を食べなくても元気に生きられるのは、これはアミノ酸の点滴をやるからですけれども、その点滴を日本が最初に開発したもんですが、それのきっかけを作ったのは、ある成分のうちひとつだけ結晶にできなかったものを作る方法を私が考えついたというか、見つけたというか、そういうことがきっかけで、今、世界中でアミノ酸の輸液が使われているのです。

私自身もこれを発明して良かったんか、悪かったんか……。自分がそういう状態になったら「使わんといてくれ」と言っている(会場笑い)のですが……。飯を食べようという意識もなければ、おしっこに行こうという意識もなければ、何にもないわけなんですけれども、しかしながら、能動的に呼吸をし、心臓を動かす能力だけは自分でちゃんとできるわけで、だから、栄養剤を強制的に入れてあげれば生命は保てる。このような状態にあるのが「植物人間」であります。こういう状態ができたわけでございます。

そこで、「死ぬ」ということからもう少し詳しく考えてゆきますと、「生命現象ということが生命そのものである」と置き換えますと、どういうことが起こるかと申しますと、いろんなレベルの生命があるということです。レジュメにも書いておりますけれども、「個体」と書いてあるのは、私たちの体まるごとです。まるごとのいのちといいながら、これがもう既に「脳死」とかあるいは「植物人間」と、個体が生きているのか、死んでいるのかということになると、そこがややこしくなってくる。

それから、臓器移植ができるというのは何かといいますと、脳の細胞というのは、ものすごいエネルギーを使っているのであります。体中で一番使っている。皆さんもちょっと想像外だと思いますが、私たちの体の中で一番エネルギーを使っているのが脳なんです。結局、コンピューターの電力の供給のようなもんです。

ですから、例えば、われわれが戦争中、腕に銃弾が当った時でも、上腕を緊縛して血液を止めても、三十分に一回ぐらい緊縛をほどいて、血を流してあげれば、一日や二日止血してでもなんとかいけるわけです。ところが、脳は―近頃、首吊りがはやっておりますが(会場笑い)―首吊りをしますと、七~八分でみな「あの世」に行ってしまう。なぜかと申しますと、脳はたくさんの酸素を消費しておるのを、それがパタッと止まるとですねえ、組織全体がだめになってしまうからなのです。手や足などは、徐々にしか酸素を使っておらない。止まれば止まったようにですね、じわじわと生きるということができますけれども、脳はそれができないというのが、ひとつの特徴なんです。

そういうことで、脳が駄目になっても、心臓や腎臓などは、そう簡単には生命現象はなくならない。ですから、臓器レベルでは「脳死」が訪れましても、非常に長い臓器であれば数時間、十数時間でも、かろうじで生きておる。私の住んでいる地域(兵庫県三田市)は、ここ十五年ほど前までは土葬でしたけれども、土葬の墓をなにかのはずみで棺桶に穴を空けたりしたら、「頭の毛を剃って入れてあったはずやのに、えらい髪の毛だけが伸びておった」という話はようあります。あれなんかは、皮膚の組織は組織としては、非常に長い期間生きておるということです。そうなりますと、「臓器レベルでの死」というもの、あるいは、「生命現象」というものは、「体全体と関係があって、また、関係がない」ということが言えるわけです。

*遺伝子は生命か物質か?

いわゆる、ライフサイエンス(生命科学)が進歩しますと、問題がかえってだんだんと複雑になってくるんですね。たとえば、「受精卵」がそうです。既に、精子を掛け合わした卵、それが、数年でも保存できるわけです。現実に畜産の世界では、もう日常茶飯事のことであります。皆さんもご存知のように、畜産業界では乳牛の受精卵は売買されておる。ドライアイスで冷やして輸送して、世界中で売り買いしておる現状があるわけです。それじゃ、この「受精卵」はちゃんとしてやれば、現実にそれから牛一匹できるわけですから……。

あるいは、人間でも「体外受精」はアメリカでは堂々ともう商売をやっております。そうなりますと、受精卵を生命現象と捉えますと、「いのち」があるのかないのか、はなはだややこしい。「受精卵」に「いのち」があるとして、それなら、その受精卵になる直前の卵や精子に「いのち」がないのかといったら、これも「精子バンク」といいまして、アメリカでは商売になっております。「これは数学に強い人の精子や」とか「これは〇〇に強いやつや」とか、もう種子屋と一緒ですわ。そういう状況になってきますと、精子というのは、精子だけでは一人前の生き物にはなりませんが、しかしながら卵と掛け合わしますと、一人前の「いのち」になる。すると、「これに生命があるんかどうか……」。こうなってきますと、はなはだ「いのち」というのは、こういう生命現象ということを「生命」と置き換えてみますと、複雑になってくるわけなんですね。

それ(体外受精)ぐらいのところですと、まだ、皆さんの常識のところですが、最近、問題になっておる「クローン」になってくると、もっと問題がややこしくなってきます。ひとくちに「クローン」といいましても、いろんなクローンがあるんです。一番問題なのは「体細胞クローン」。これは、われわれのからだは何十兆という細胞からできておりますけれども、その細胞一個一個に全部、遺伝子を一揃い持っておるわけなんです。その一組の遺伝子には、私たちの全身を造るのに必要な設計図が完全に全部入っておるわけなんです。

ですから、理屈から言いますと、私の体には何十兆という私を造るのに必要な設計図が入っておるわけです。ただ問題は、例えば、皮膚になっておる細胞の設計図は、皮になるようなところだけを残して、その他の全部遺伝子が働かんように、情報が出んように、ブロックされておるわけです。そういうものが、果たしてこれを解いて一匹の「生き物」を「造り出す」ことができるかどうかという問題があったんですけれども、最近、英国で「羊が体細胞クローン技術で誕生した」と盛んに報道されておりましたので皆さんご存知のことと思います。あれはですね、乳首のところの細胞から羊一匹を造り出した訳です。この仕組みは、「未分化」といいまして―受精後の発生段階で、ある細胞が手の指に変わっていくとか、脳に変わっていくとか、そういう未だ方向性が出ておらない細胞を「未分化」といいますが―いわゆる、そのなかに特定の目的に応じるように、ブロックされておらないというような状態です。

いわゆる「受精卵」は、一組の遺伝子からどんどんと細胞分裂をくりかえしてゆくのですが、人間の場合ですと、三ヶ月経ったら、われわれの脳の細胞が全部用意されてしまうわけです。妊娠三ヶ月の胎児が持っておる胎児の脳の細胞は、減ることがあっても増えることはない。一個一個の細胞がだんだんと大きくなっていくだけのことです。

ですから、「未分化」というのは、DNAの中から「脳になる設計図だけを使え」と、あるいは「手になる設計図だけを使え」と、そういう司令がまだ出ておらない。そういう状態の「何にでも変わりうる」細胞を「未分化」というんですけれども、それが、乳首の付近にあるわけなんです。それの中の遺伝子を採りますと、ちょうど受精卵の中の遺伝子と全く同じものがあるわけでして、それを使いまして、「ドリー」という名の羊のクローンができて問題が起こったわけなんです。これが今や、牛でも行われている。これなにも、ヒトで起こって不思議ではないということでございます。

そういうことになりますと、「細胞一個一個に生命があるのか?」といいますと、あるいは、こと遺伝子になりますと、これはもう、現在のわれわれの分類では「遺伝子(DNA)は化学物質」になっておるわけでして、遺伝子を生命体とは考えておらない。遺伝子というのは、冷凍しておくと無限にそのままの状態を保てる。現在では、「単なる物質」と考えられるようなもんだと……。生命体と物質のちょうど中間とされるウイルスよりもまだ物質的なものと考えたらいいんじゃないかと思うわけです。

そうなると、「遺伝子は生命があるのか?」というと、ちょっとわけが判らない。いうことで、いわゆる生命というものは、生命現象を生命と取り違えますと、非常にややこしいわけでございます。ですから、科学者がいっておる生命と、一般の人がお考えの生命、あるいは、われわれが常識的にいう生命と、相当内容が違うということが、この話でお判りになれたかと思うんですが……。

* 「死」は「いのち」の終わりか?

それから、今度は、いのちを「生きておるという証」としますと、反対の「死ぬ」ということ、つまり裏側から見てみますと、レジュメには「死の意味について」と書いてありますが、科学的に「死の意味は何か?」といいますと、「個体レベルでの死」というものは、単なる生き物と無生物、これのちょうど境目が死ということになります。

いわゆる「宗教が説く死」というのは、「必然のものである」と考えますが、「死は生命の終焉」という考え方そのものが考えものであって、私はコルモス(現代における宗教の役割研究会)でもよく言うんですが、宗教家の方は、「あの世がある」と言うてしまわれるんで、非常に誤解を招かれておる。「あの世はあると信じよ」というべきです。誰も判らんのです。お釈迦さんも「判らん」と言っておるのです。宗教の立場は、あくまで「あると信じよ」というべきです。

一方、科学者の「あの世はない」というのも間違いなんです。誰も「あの世がなかった」という報告は受けておらんわけですから「あの世がない」ということも言えないわけなんです。「ないと思う」としか言えんわけなんです。「ある」と断言し、「ない」と断言することが、宗教と科学が断絶しておる非常に大きな原因だと思っておるのです。

科学をやっておる者は、「私は判らんけど、来世はないように思う」と、そこまでで止めておけばよいのに、それを「あるなんて思うのは、非科学的だ」というと、はなはだことが穏やかでなくなる。誰も「来世がない」と科学的に証明した者はおらんわけで、あの世から帰って来た者はおらんわけで、だから、「あるもないも判らん」とお釈迦さんが言われておるのが、最も科学的にも正しい解答ではないかと思うんです。

ちょっと話が飛んできましたが、問題は、科学は「死」というものは「生物と物質とを区切る一つの出来事」と、ただ単にこう考えているかというと、そうじゃない。科学が最も問題としておるのは、個体の生命、個体の死というものがあって、種の生命が保たれるということです。生命の存在があるわけなのです。種の生命ということは、「永遠の生命」のことです。もっとも人間だけが往生際が悪いんですわ。人間以外の生き物は全部、種の存続のために自分の「いのち」があるわけなんです。カマキリの雄なんかは、種を付けた後は、雌に栄養をつけるために喰われてしまう。自分の「いのち」は子孫、種の存続のためにすべて費やしておる。人間だけが往生際が悪い。

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