柳沼源太郎

https://www.city.sukagawa.fukushima.jp/shisei/rekishi/jinbutsuden/1002503.html 【柳沼源太郎 Yaginuma Gentaro】 より

牡丹に一生を捧げ、世界一の牡丹園に

郎須賀川の牡丹園を語るうえで、最も重要な人物が、柳沼源太郎です。

もともとこの牡丹園は、明和3年(1766)、須賀川の薬種商「伊藤祐倫」が、牡丹の苗木を薬用のために、現在の兵庫県宝塚市から買い求め、栽培したことが始まりと言われています。そして明治時代の初め、この牡丹園が伊藤家から柳沼家に譲渡され、薬用目的のものが鑑賞用へと切り替わることになったのです。

源太郎は、須賀川町の2代目収人役で、中町の商家「糸八木屋」の経営者・柳沼信兵衛の長男で、信兵衛亡き後、牡丹園経営を引き継ぎました。現在の牡丹園の名声を築き上げた人であり、その取り組みには寝食を忘れる程であったと言われています。

明治8年生まれの源太郎は、牡丹園の経営を軌道に乗せるには、専門的な栽培の勉強をしなければと、15歳の時に上京し、開成中学を経て東京農家大学に学び、そして帰郷後は、家業の糸八木屋を弟に任せ、自分は牡丹園に移り住み、牡丹栽培一筋に励みました。牡丹の時期に満足のいく見事な花を見せるには、ただひたすらに、四季を通じて手入れするしかないと、作業員たちとともに励み、特に冬の手人れを怠らなかったと伝えられています。

また、源太郎は、牡丹栽培に精力を傾ける一方で、俳人としても優れた才能を発揮し、大正時代には、原石鼎の門に入り、破籠子(はろうし)の名で数々の名句を残しています。例えば、牡丹園内に建立された源太郎の胸像に刻まれている、「園主より身は芽牡丹の奴かな」という句は、「人は私のことを牡丹園の園主と呼ぶが、そんなおごり高ぶった気持ちはなく、愛らしい芽牡丹に心から仕えている一人に過ぎない」という牡丹を愛する心を表現しています。

そして昭和7年、この牡丹園は、文部省からその価値が認められ、国の「名勝」の指定を受けることになったのです。しかし、不況が続いた当時は、牡丹園も例外ではなく、経営難の苦境に立たされていました。現に源太郎は、経営補助申請と、町への移譲の願書を提出していますが、町でもこの総面積8.64ヘクタールの牡丹園を管理運営することは、財政上大変困難な時代でした。幸いにも、柳沼家には資産家が多く、一族共同で手を取り合い、この難局を切り抜けました。

牡丹園に一生を棒げ、また俳人としても活躍した源太郎は、その美しさを後世へと引き継ぎ、昭和14年、64歳でその生涯を閉じました。

そして、昭和32年に財団法人化を経た牡丹園は、その後も源太郎の心とともに受け継がれ、国の名勝として現在に至っています。


https://www.kikkou-sukagawa-haiku.org/%E6%A1%94%E6%A7%B9%E3%81%8D%E3%81%A3%E3%81%93%E3%81%86-%E3%81%A8%E9%A0%88%E8%B3%80%E5%B7%9D/ 【桔槹(桔槹吟社)と須賀川】より

桔槹吟社について

桔槹吟社は1922年(大正11年)7月、柳沼破籠子(源太郎)・矢部榾郎(保太郎)・道山草太郎らが創設し、同人誌『桔槹』を創刊した。師系は、原 石鼎(鹿火屋創刊主宰)。 『桔槹』とは「はねつるべ」のこと。<はねつるべが新しい水を汲みあげるように、俳句はいつも新しくありたい>というのが、吟社の創設以来の運営理念。 平成29年9月号で通巻1100号を数え、会員は須賀川市を中心に郡山市、いわき市、福島市、喜多方市、さらに東京・神奈川・埼玉・千葉・栃木・茨城などで約200人が、西暦2022年の創刊100周年を目指して活動している。2019年4月現在、福島県内で、月刊で発行する俳誌は『桔槹』のみとなっている。

桔槹吟社の創立同人の柳沼破籠子(源太郎)は、須賀川牡丹園の初代園主。当時から牡丹園では、その年に美しく咲いた牡丹に感謝して、冬の初めに、枯枝を燃やす牡丹供養が行われ、併せて句会を開いていた。この牡丹供養の話が吉川英治の小説『宮本武蔵』にも登場し、次第に初冬の風物詩として知られることとなる。昭和53年に初めて歳時記に載り、その後『牡丹焚火』が季語として定着したのは、この行事を営々と継続してきた桔槹吟社の先人の功績による。 そして、須賀川にはもう一つの火祭り『松明あかし』がある。『松明あかし』は地域に親しまれ、暮らしに根付いた伝統と荘厳で勇壮な美しさがあり、桔槹吟社は、季語に相応しいと中央俳壇・関係者に呼びかけ続けてきた。その結果、2018年11月に刊行の角川書店『俳句歳時記・冬』第5版にはじめて季語として採用された。地方都市に二つの季語の行事があるのは全国的にも珍しく、俳句の街須賀川の面目躍如たるところである。須賀川が俳句の街といわれるのは、江戸時代宿場町として栄え、豪商が俳句を嗜んだことに由来する。松尾芭蕉は、奥の細道の旅の途次、須賀川の豪商で俳人の相楽等躬宅に8日ほど逗留し、<風流の初(はじめ)やおくの田植えうた><世の人の見付けぬ花や軒の栗>などの句を残している。

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