https://rekisanpota.blogspot.com/2016/03/blog-post.html 【なぜ全国にこんなにも「不動滝」が点在しているのか?】 より
急な坂をひーこら言いながら登っては下り登っては下り、山歩きは自分との戦いである。そんな戦の最中、ここぞというときに手を差し伸べてくれるのが川のせせらぎであったり、水の冷たさだったりする。中でも滝に出会った時の爽快感・圧倒感は言うまでもない。
そんな「滝」をいくつか見てきた方なら不思議に思った方も多いのではないだろうか。
全国各地、様々な場所に「不動滝」と呼ばれる滝が存在しているのだ。
地名コレクション 不動滝には表記ゆれも含め(2016/3/3現在)135件の不動滝が掲載されており、おそらく滝の名称としては最も多いと思われる。
不動ってなに?
不動は「不動明王」を指す。日本の仏教ではかなりメジャーな信仰対象で、「○○不動尊」と呼ばれる寺院を目にすることも多いのではないだろうか。
「不動」という名前から、動かざること山の如し、無言で仁王立ちしている姿を想像する方もいるかと思うが、実際の姿は右手に剣(倶利伽羅剣)、左手に羂索(投げ縄みたいなもの)、背面に迦楼羅焔(火焔光の一種)をまとい、怒りの形相で睨みつけているのが一般的である。どちらかというと生命感・躍動感があり不動の名とはかけ離れている。それもその筈、不動という名はその形相から付けられたものではなく、サンスクリット語のアチャラ(動かざるもの)ナータ(〜様のような尊称)を直訳したものである。
ここで着目するのは「明王」という尊格。これは密教(真言宗・天台宗など)における最高仏尊である大日如来の命を受け、民衆を仏教に帰依させようとする役割を持った仏尊を指す尊格である。
不動明王が「密教」における重要な崇拝対象だったということがポイントとなってくる。
密教と滝行
密教を日本に持ち込んだのはかの有名な空海である。空海は唐で密教を学び、日本に帰国した際にいくつかの不動明王を持ち込んでいる。密教が日本に伝来すると、日本古来の山岳信仰と結びついて「修験道」として知られる信仰が成立する。
この密教や修験道における修行の一つが「滝行」である。
白装束を身にまとい滝に打たれる姿を見たことがある人も多いだろうし、実際に体験したことがある方もいるだろう。
滝行では不動明王の真言を唱えるケースが多い。これは不動信仰でよく読まれるという「聖無動尊大威怒王秘密陀羅尼経」を典拠としたものである。この経典は普賢菩薩が文殊菩薩と衆生(生けるものすべて)に向けて不動明王の教えを説くというストーリーになっている。その中に次のような一節がある。
或入河水 而作念誦 若於山頂樹下 塔廟之處 作念誦法 速得成就
(超意訳:河水に入って念ずれば不動明王の功徳を得られる。)
この経典を根拠に、滝行を行うことで不動明王の教えを会得しようする動きが全国的に広まったものと考えられる。このような滝の傍には不動明王が祀られていることが多く、それまで名も無き一修行の場として存在していた滝が、いつしか「不動滝」と呼ばれるようになったのではないだろうか。
https://www.minyu-net.com/isan/0523/isan87.html 【乙字ケ滝(須賀川市・玉川村)//悠久の流れ 芭蕉も感動//】 より
阿武隈川にある唯一の滝で須賀川市と玉川村を結ぶ国道118号の境にかかる。石英安山岩の断層を流れ、落差は約5メートルと小ぶりなものの、水かさを増したときに約100メートルの川幅いっぱいに水が流れ落ちる様子が「小ナイヤガラの滝」とも称され、1990(平成2)年に「日本の滝百選」に選ばれている。
名称は、水が「乙」の字の形をして流れ落ちることに由来するとされ、「増水時の流れの形」と「側面から見た断層の形」の2つの説がある。
1689(元禄2)年には俳人松尾芭蕉が「奥の細道」の旅で須賀川から郡山へ向かう途中に立ち寄った。芭蕉は当地で「五月雨の滝降りうづむ水かさ哉」の句を詠み、雄大な滝の流れを目の当たりにした感動を残している。
その句を刻み込んだ句碑が右岸の滝見不動尊御堂の傍らに建立されているほか、河岸には芭蕉とともに随行の曾良の石像もたたずみ、今もその足跡をたどることができる。
一方、左岸の乙字ケ滝遺跡は同市最古の遺跡で、約2万年前の石器や石おのなどが出土した。江戸時代は阿武隈川の舟運最大の難所といわれ、北側岸壁に堀割工事をして船を通した運河の跡があり、往時をしのぶことができる。
かつては滝一帯が景勝地であると同時に、修験場や信仰の地でもあった。現在は駐車場を備えた公園として整備され、春には桜が咲き誇り、松並木が風情を醸し出す。自然が生み出した悠久の流れが静かに来訪者を迎える。
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