https://www.city.sukagawa.fukushima.jp/taimatsu_akashi/1003837.html 【松明あかしの由来】 より
晩秋から初冬の夜空を焦がす須賀川の松明あかし。四百二十年余前の戦国の代の悲運を偲ぶ、須賀川市が全国に誇る慰霊の行事として知られています。
今から四百二十年前、豊臣秀吉が全国統一に向けその勢いを増やそうとしていた矢先、伊達政宗は梁川から勢力を増して、米沢に居城を構え、東北地方を支配しようとしていました。当時、会津と対立していた二階堂盛義公は、永禄九年、会津芦名家と和睦し、七歳の子 盛隆を人質として会津に送りました。天正二年、会津城主・芦名盛興の死に伴い、盛隆は乞われて芦名盛隆として会津城主となりました。その結果、須賀川二階堂とは一心同体となり、二階堂氏は威勢が高まり、二階堂の領地は、岩瀬郡のほか、田村、安積、石川など六十八ヶ村の五万七千石にまでに及ぶようになりました。
ところが、天正十二年、盛隆は二十四歳で家臣に殺害されてしまい、その後継ぎには、伊達家からは政宗の弟小次郎を、佐竹家からは義重の二男義広をとの強い要望があり、芦名家の家臣も悩みましたが、結局佐竹義広が十一歳で婿入りしたので、政宗は会津芦名家に対し、強い敵愾心をもつようになりました。
天正十七年六月、伊達政宗は二十三歳、芦名義広は十五歳で、磐梯山麓の摺上原で戦いました。政宗は会津黒川城主・芦名氏を滅ぼし、その余勢をかって須賀川城を攻撃しようと、密かに二階堂家の重臣に内通服属の密書を遣わし、策略をめぐらしていました。そのため、須賀川二階堂氏と兄弟にあたる岩城家の竹貫中務少輔、植田但馬守ら五百騎、佐竹家より河井甲斐守ら二百騎が、須賀川方に加勢のためやってきました。城の内外では風説が入り乱れ、須賀川城内は「戦うか」、それとも「和睦するか」で、大きく揺れ動いていました。このときの須賀川城主は、十八代城主・二階堂盛義がすでに没していたため、後室の大乗院でした。大乗院は政宗の叔母であり、気丈な戦国女将でもあったため、芦名家を滅ぼし、南奥羽に勢力を拡大しようとする政宗を快しとしていませんでした。
政宗は、また、須賀川の家臣を通して、大乗院に伊達家に和睦するよう求めてきました。しかし、政宗の計略を憤った家臣や町民は、十月十日の夜、手に手に松明をともし、町の東の丘、現在の十日山に集まりました。そこで、人々は決死の覚悟で須賀川城を守ることを決議し、須賀川城主である大乗院に決戦を進言したのでした。大乗院は、城内に二階堂家譜代の武将を集め、「私の孫であった芦名家を滅ぼして、須賀川を目指す政宗に、なんで降伏しましょうぞ。私は伊達家の娘でありますが、今では、須賀川二階堂家の城主です。今や政宗は、次々に計略をめぐらして、降伏を仕掛けているという風聞が流れていますが、義を重んじ節に死のうとする者は私と一緒に戦い、城と運命を共にしようぞ」と、涙ながらに切々と話されました。この言葉に、家臣達は感きわまって熱い涙とともに大きな溜息がもれてきました。この時、二階堂家の筆頭家老で和田城主・須田美濃守は、つと前に進み出て、「それほどまでの御決意とあらば、私ども歴代の恩顧を忘れて、いかで政宗側につきましょうや」と、千用寺と妙林寺の法印立ち会いのもと、家臣一同、一致団結して政宗と決戦する忠誠を熊野牛王に御誓書を書き、それを燃やし灰にして酒に入れて呑み合い、堅い誓いをしたのでした。
一方、政宗は、次々と重臣に密書を送り、内通服属を強く求めてきました。
天正十七年旧暦六月政宗は二万三千余騎の大軍をもって、磐梯山麗の摺上原で芦名氏に大勝し、余勢をかって、須賀川城を目指しました。十月二十六日未明、伊達政宗は大軍を率いて須賀川を東西に流れる釈迦堂川の北側にある陣場山・現在の須賀川桐陽高校付近に本陣を構え、大軍を釈迦堂川左岸に配置しました。一方、須賀川勢は城外の長禄寺・現在の長松院付近に白旗をたて旗本を守護し、釈迦堂川右岸に布陣しました。
決戦場となったのは、八幡崎・大黒石口・現在の須賀川病院付近と雨呼口・現在の神田産業付近で、辰の刻(午前八時)に攻撃が開始され、須賀川勢は圧倒的な勢力の差にもかかわらず善戦し、敵味方入り乱れての壮絶な戦いとなりました。八幡崎・大黒石口では須賀川勢二百余騎が中心となり、その南方に佐竹勢二百余騎、北方に岩城勢三百余騎が布陣し伊達勢が次々と新たな兵を送り込むなか一進一退の血みどろの戦いが続き、敵味方の多くが武人としての最期を遂げました。雨呼口では、守谷筑後守が守将となり旗本と岩城の加勢による軍で戦い、初戦での戦闘で須賀川勢が勝利したものの、伊達勢は新手の兵を増強し再び雨呼口に押し寄せてきました。
御神火隊の写真
このとき、和睦を唱えていた二階堂家家臣団の一人でもあった守谷筑後守は政宗に内通し、城本丸の風上にあった長禄寺に火を放ったため町中が火の海と化し、須賀川城は多くの家臣とともに炎に包まれ、文治五年・一一八九年から四百年間南奥羽の雄として権勢を誇った二階堂家・須賀川城は遂に落城しました。また、八幡崎城・現在の八幡山での戦いでは最大の激戦となり、須賀川の兵は本丸落城後も踏みとどまって戦い、その殆どの兵が戦死しました。落城の時、本丸にいた大乗院は、自害しようと懐刀を抜いたのですが、そのとき、須賀川の家臣と名乗る者に止められ、火炎の中を救い出されました。しかし、家臣と名乗った者は伊達方でありました。
その後、政宗は「伯母の意に任せよ」と命じたので、大乗院は仁井田から福島市の杉の目城、そしていわき市の岩城家、常陸の佐竹家へと移り住むこととなり、最後は須賀川の地で、長禄寺方丈や菊阿弥のせわのもと、四十二歳の生涯を閉じました。
松明あかしは、この戦いで戦死した多くの人々の霊を弔うため、新しい領主の目をはばかり、ムジナ狩りと称して続けられ、須賀川の伝統行事となった火祭りです。昔は、旧暦の十月十日に行なわれておりましたが今では、十一月の第二土曜日に、須賀川二階堂家の戦死者のみならず、伊達家の戦死者を含めての鎮魂の想いと、先人への感謝の気持ちを込め五老山で行なわれております。この五老山は、天正九年、三春城主・田村清顕方と須賀川城主・二階堂盛義の老臣五人が、講和の交渉をしたことから「五老山」と呼ばれるようになった所です。
三千代姫の悲話
二階堂氏が須賀川をめぐって争ったときに、悲劇的な出来事が起こったと伝えられています。慰霊の火祭り「松明あかし」が、始まる約百四十年前の室町時代の悲話です。それは、二階堂氏の興亡を描いた軍記物『藤葉栄衰記(とうようえいすいき)』の中に記されている話です。
嘉吉三年(1443)、二階堂氏の当主であった式部大輔が亡くなり、十二歳の為氏が跡を継ぐと、岩瀬郡の管理を任されていた治部大輔が、勝手な行動をするようになりました。そのため、鎌倉では式部大輔の弟の民部大輔を監督者として派遣しましたが、勝手な行いをやめさせることはできませんでした。そこで、文安元年(1444)の三月には、為氏自らが鎌倉を出発し、治部大輔を攻めましたが抵抗されたため、和田へ陣を移しました。
その後、為氏と治部大輔は和睦し、為氏と治部大輔の娘、三千代姫(当時十二歳)が結婚した上で、三年後に、治部大輔が須賀川城を為氏に渡す約束をします。しかし、三年を過ぎても、治部大輔は城を渡す様子はありませんでした。そのため為氏は、やむなく妻を離別し父親のもとに送り返すのですが、その途中、暮谷沢で戦いが起こりました。その暮谷沢では、治部大輔の家来たち(須賀川勢)が、三千代姫を送りに来た為氏の家来たち(和田勢)を待ち伏せしていました。須賀川勢は、和田勢を激しく攻め立てます。和田勢は追いつめられましたが、この時大きな雷が須賀川勢の陣中に落ち、人馬もろとも吹き飛ばされてしまいます。これを見た須賀川勢は田畑の中をはうように逃れていきました。一方の和田勢も何とか負けずに済みましたが、これ以上先へ進むことはできなかったため、ここに三千代姫の輿を置いて帰ることを決意しました。
小松明行列の写真
こうして暮谷沢に残された三千代姫は、もはやこれまでと思い、武士の妻としておめおめと実家に帰るわけに行かないと言う気概と『二夫に交みえず』と言う当時の武士の妻としての頑なまでの信念から、僅か十五歳にして自害し、乳母や付侍も主君に殉じました。
この時詠んだ辞世の句
「人問わば岩間の下のなみだ橋 流さでいとま 暮谷沢とは」
この悲劇を知った為氏は思い悩み、戦う気力さえ失いました。しかし、家来たちに励まされ元気を取り戻した為氏は、文安五年(1448)に治部大輔を倒し、須賀川城に入城することができたのです。現在、暮谷沢は「栗谷沢」とその名を変え、三千代姫の霊を弔うために建てられた「暮谷沢の碑」や三千代姫堂などがあります。翠ヶ丘公園の一角にある栗谷沢にも、ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか。
八幡山えん義
今から四百二十年前の天正十七年六月、伊達政宗は会津黒川城を滅ぼし、その余勢をかって須賀川城を攻撃しようと、ひそかに岩瀬地方西部の諸将に密使をつかわしていました。
その時の須賀川城主は、二階堂盛義の後室大乗院で、気丈な女城主であり、しかも政宗の叔母でありました。
旧暦十月二十六日辰の刻(午前8時)釈迦堂川を挟んで合戦の火ぶたが切られました。
決戦場となった処は、八幡崎・大黒石口(現在の須賀川病院)の付近から雨呼口(現在の神田産業)の付近です。敵味方入り乱れて壮絶な戦いとなり双方、多くの武人達が最後を遂げました。
また、八幡崎城(八幡山)の戦いは、中でも最大の激戦地となり、須賀川の軍勢は本丸落城後も踏みとどまってこの地で戦い、ほとんどの兵士が討ち死にをしました。
八幡町町内会としては、この武士達の霊を慰めるべく、平成十年より慰霊祭としての衍義を執り行っているものです。
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