阿武隈川の「月の輪の渡し」と松尾芭蕉

http://datenokaori.web.fc2.com/sub157.html   【阿武隈川の「月の輪の渡し」と松尾芭蕉】より

元禄2年(1689)5月、松尾芭蕉が文字摺観音に立ち寄った帰り、阿武隈川を渡った「渡し」はどこ?「おくのほそ道」にある「月の輪の渡し」は虚構なのか・・・

芭蕉は二本松城下を過ぎて、阿武隈川を渡り、安達ケ原の黒塚の「岩屋」を一見した後、福島の町に入った。そしてここに一泊した。芭蕉は翌日山口村の「文字摺石」を見た後ち大鳥城遺跡や飯塚(飯坂)の湯に寄るつもりであった。翌朝早く芭蕉は出立した。山口村へ行くには阿武隈川を渡らねばならなかった。芭蕉は「岡部の渡し」で渡し舟に乗った。

 「おくのほそ道」の文章は次のようになっている。

あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋て忍ぶのさとに行。遥山陰の小里に石半土に埋てあり。・・・(中略)・・・

     早苗とる 手もとな昔 しのぶ摺

 月の輪のわたしを越て、瀬の上と云宿に出づ。

 この句の初案は「五月乙女に しかた望まん しのぶ摺」であったとされる。また芭蕉真筆の懐紙には「さなへつかむ 手もとやむかし しのぶ摺」の句が伝えられている。芭蕉は地元の子供たちから文字摺石の由来を聞いたが、それほど感動したようには書かれていない。

 さて飯坂へ向かうには再度阿武隈川を渡らねばならない。芭蕉は対岸の瀬上宿を経由して飯坂へ行こうとした。岡部の渡しに戻ってもよかったが、逆戻りの感がある。やはり、やや下流にある「月の輪の渡し」を渡るのが便利であった。芭蕉の同行者曽良は「旅日記」には、つぎのように書いている。

 ソレヨリ、瀬ノウエへ出ルニハ、月ノ輪ノ渡リト云テ岡部渡ヨリ下ナリ。ソレヲ渡レバ十四五丁ニテ瀬ノウエ也。

 「月の輪の渡し」から瀬上宿までは「十四五丁」(約1500m)であった。元禄2年当時の阿武隈川は洪水のために現在の阿武隈川より東へ大きく迂回蛇行していた。その流路は今の胡桃川にほぼ沿っていたとみられる。芭蕉たちは文字摺観音から北方角に進み、そして川沿いに西へ曲がり、月の輪山のすぐ西側付近にあった「月の輪の渡し」に着いた。

 ここは現在の月の輪団地(月の輪山)の西側の場所である。現在も「月の輪」の字名が残っている。ここで渡し舟に乗り対岸に着くと、そこから約1500m~1700mで瀬上宿である。この曽良の距離感はほぼ正しいだろう。しかし現在「月の輪の渡し」碑が立っている場所は間違った別の場所にあり、そこからだと瀬上宿まで2000m以上となる。

 「月の輪の渡し」は虚構の場所ではなく、実在した

 この誤った場所の「月の輪の渡し」碑からの距離を根拠に、芭蕉は「月の輪の渡し」は渡らず、実際は「箱崎の渡し」を渡り、瀬上宿に向かったと主張する方もいる(M氏説、「福島の進路」2017年7月号所載)。「箱崎の渡し」~瀬上宿の距離はほぼ1500mだという。すなわち芭蕉は「箱崎の渡し」を渡ったのに、文学上の効果を高めるために「月の輪の渡し」を渡ったことにしたという。「月の輪の渡し」は芭蕉の虚構だとされている。

 守谷氏はまた、「阿武隈川舟運図」(明和6年(1769)作成、福島市蔵)に「岡部の渡し」と「箱崎の渡し」が記載されているのに、「月の輪の渡し」が記載されていないのは、「月の輪の渡し」がまだ存在していなかったからだとし、芭蕉来福の当時も、「月の輪の渡し」は存在していなかった筈としている。

 しかしながら、この論理は間違いである。宝暦11年(1761)、既に「箱崎の渡し」近くの「舟戸の渡し」が存在している事実がある(松浦丹次郎著「高子二十境」)。にもかかわらず、この「舟戸の渡し」は「阿武隈川舟運図」に記載がない。すなわち、「阿武隈川舟運図」には主な「渡し」しか記載されていないのである。

  歴明月湾、至瞀人宅、瞀人行装既成。送行者屡満戸外。晒相與倶発。於是乎送行者如雲。笑言唖唖。行里許、抵武隈川。乃謝送行者還。舟中唯與僕従五人耳。余顧見瞀人而笑曰、(中略) 忽得大道、行二三里。渉松之水。盾信夫山、而歩十餘里、至福島城下(熊阪台州作「西遊紀行」)

 「西遊紀行」は熊阪台州の関西旅行記で、明和8年(1771)の発刊。瞀人は向鎌田の人。台州の親友である。宝暦11年、台州は彼と二人で関西旅行へ旅立った。「明月湾」は「月の輪山」の西側に残っていた阿武隈川の河川跡で三日月形に水が溜まっていたので、この名がある。瞀人宅から一里(約650m)先の阿武隈川で渡し舟に乗り、奥州街道に出た。更に行くこと二里~三里(約1500m)で松川を渡った。このときの阿武隈川の「渡し」は「舟戸の渡し」以外に考えられない。

 「箱崎の渡し」と福島渡利の弁天様

 次の漢詩は、中木維明が文化10年(1813)10月に上洛したとき、阿武隈川の渡し場で兄好問が別れの漢詩を贈ったが、それに対する維明の返歌である。この渡し場はおそらく箱崎の渡し(瀬上の渡し)であったと思われる。その日は冬の雪が降っていた。夕暮れ時に川鵜が岸辺の木に宿り、白鷺は釣り磯に佇んでいた。

 「物氏碑文」とは荻生徂徠の碑文という意味である。一般には「妙音廟碑文」と呼ばれている。妙音廟は弁天社の別名である。渡利弁天社は最初は福島の渡利椿館の山上にあり、元禄16年(1703)ころに今の渡利天神社境内へ移った。「妙音廟碑文」は弁天社の由来を記す資料である。元禄の当時、江戸への米の移出や塩荷の買入れには、川と海を利用する舟運が便利であった。渡辺友以は阿武隈川舟運を開いた人で、荻生徂徠は渡辺友以の業績についても記している。碑文全文は「徂徠集」に収められている。この碑文には、阿武隈川舟運路を完成させた渡辺友以を讃え、渡辺の息子貞嘉が舟運の安全を祈って祀った水神「弁財天」(妙音天女さま)の由来などが書かれている。しかしこの碑は行方が分からない。碑は完成しなかったようだ。

 また「雲錦」は旧山口村の文知摺観音境内にある名所「文字摺石」のことである。「隆公」は藤原家隆。「遂憐氷下同沈木」とあり、阿武隈川の埋もれ木を詠んだ家隆の歌「君が代に阿武隈川の埋もれ木も 氷の下に春を待けり」をひいているのが分かる。二つとも古歌に詠まれた名所である。最後の句は、家内の女たちは来春私が帰ってくるのを待っていよう、とある。起承転結の見事な詩である。風景の中に歴史や文化を読み込みながら別離の心情がうたわれている。家隆の歌は格別この場に活かされている。物氏碑文も阿武隈川の渡河の安全と関わっている。

   渡隈川用家兄送客之韻

 雪道四山向帝畿 隈川暮留混征衣  

 昏鵜日短集津樹 白鷺風□立釣磯  

 物子碑文雲錦表 隆公歌詠月毫揮

 遂憐氷下同沈木 家女春来待我帰

 中木維明が石碑が存在しない「物氏碑文」を何故知っていたのか・・・。天保12年(1841)に志田正徳が『信達一統志』を著し、「福島妙音廟碑」の本文が収録されたが、中木維明の漢詩はそれ以前のことである。もちろんこれは「徂徠集」からの写しであろう。中木維明は、この碑文が「徂徠集」に掲載されているのを知っていたほどの、教養人だった。志田正徳もその一人と言える。福島の人々の学問の高さに驚かされる。

 ※「渡し」と「河岸」の違いについて

「渡し」は川を渡る場所で、人々が川の対岸へ渡し舟に乗って渡ること。主要な街道が川と交差する場所に設けられた。一方、「河岸」は江戸へ輸送する米を小鵜飼舟に積み込む場所である。福島河岸・瀬上河岸・伏黒河岸・桑折河岸・梁川河岸などがあり、所属する村々が数十ヶ村単位で決められていた。一部塩荷や藍玉荷などの商品荷物の移入にも河岸が利用された。