隅田川右岸の小河川と掘割

http://hix05.com/rivers/river03/river031.html 【太田道灌時代の江戸城周辺図】より

上図は大田道灌が江戸城を築いた頃の時代における江戸周辺の地図を現したものです。現代との重ね図から読み取れるとおり、現在とは大分異なった様相を呈していました。

もっとも大きな相違は海岸線です。現在の大手町あたりから芝にかけての部分は日比谷入江と呼ばれた入江状の海になっており、その先に江戸前島と呼ばれた半島状の土地がぶら下がるように突き出ていました。

河川の流れも現在とは大分異なっています。当時平川と呼ばれた神田川は、途中小石川を合流して日比谷入江に流れ込んでいました。小石川は現在はありませんが、ほぼ白山通り沿いの低地を流れていたものと思われます。また、石神井川は不忍池を中継点にして南北方向に流れ、直接江戸湾に流入していました。

この地に道灌が築いた江戸城は、ほぼ現在の皇居東御苑に相当する場所で、北の丸の台地を背にして日比谷入江の海に臨んでいました。守りを重視した築城術であったといえましょう。

http://hix05.com/rivers/river03/river032.html 【2 家康入府後の江戸】より

天正18(1590)年、秀吉から関東の地を与えられた家康は早速江戸に入り、道灌の築いた江戸城を根拠にして、領地の経営に乗り出しました。

家康のまず取り掛かった仕事は、根拠地としての江戸の町づくりでした。その政策の柱は、舟運による経済基盤の整備と、家臣や町人たちを住まわせる城下町の整備でした。

舟運については、江戸城本丸先と江戸湾を結ぶ道三堀を開削しました。ほぼ今日の日本橋川の流れに相当するものです。さらにその先に小名木川を開削することにより、行徳の塩や船橋の野菜、米など物資を確保するルートが作られました。これはまた、日比谷入江を舟運の機能から切り離すことにより、江戸城の面前に商船が出入りすることをやめさせる魂胆もからんでいたとされています。

これにあわせて、平川を道三掘につなげ、日比谷入江でなく江戸湾に流入するようにしました。これはおそらく治水上の配慮からでしょう。これにともなって、従来の平川の最下流は本川から切り離された運河のようなものになりました。運河の先端には飯田河岸と呼ばれる市場が形成されていくことになります。

城下町の整備に関しては、江戸城周辺に家臣団の屋敷地を配するとともに、道三堀を中心にした下町地区には町人たちを住まわせました。しかし、豊臣政権下の一大名に過ぎなかった間は、江戸城を始めとした町の大規模な整備をすることを控え、やがて来るべき時代の到来をうかがっていた節があります。

慶長8(1603)年、征夷大将軍を拝命して幕府を開き、名実ともに日本の支配者になった家康は、本格的な江戸の改造に取り掛かりました。

江戸城の改築に当っては、全国の諸大名に工事を請け負わせ、各地から石を持ち寄らせて石垣を築かせたり、本丸、西丸などの城郭を漸次整備していきました。この築城工事から発生する土や、神田台地の切り崩しなどにより生じた土を以て、日比谷入江を埋立て、そこに町人たちのための町割りを実施しました。

上図は、家康存命の頃の最後の時期の江戸の状況を現しています。城郭や掘割の整備が進み、日本橋を中心とした町人町が整備されつつある状況がよくわかります。


http://hix05.com/rivers/river03/river033.html 【 幕藩体制確立期の江戸】より

慶長19(1614)年、大阪夏の陣において豊臣氏が滅亡し、その2年後の元和2(1616)年には、家康が死亡しました。こうして、徳川幕府の時代は黎明期から興隆期へと入っていきます。

秀忠から家光へと続くこの時代において、江戸の改造は規模を拡大しながら続けられました。隅田川右岸の埋立が進み、広大な土地が現出したのに伴い、町人町が飛躍的に発展するようになります。海岸線もほぼ今日に近づいた形になってきます。

河川については、神田台の切り崩しが続けられ、平川の流れを隅田川へと結びつける流路変更が行われました。このころ、石神井川も現在と同じような流れに変ったと思われます。

江戸城の築城も大規模に続けられました。本丸を中心として、何重にも堀が巡らされ、最外郭には、神田川をとりこみ、四谷、溜池から汐留川に至る外堀が完成しました。寛永13(1636)年のことです。

この外堀には要所に枡形門が設けられ、江戸城の防備のためと、人の出入りの監視に用いられました。俗に江戸36見附と言われるものです。西洋諸都市における城門のようなものでしょう。


http://hix05.com/rivers/river03/river034.html 【江戸城三十六見附】より

寛永13(1636)年に完成した江戸城は、神田川から汐留川に及ぶ最外周に外堀を配し、その中にいく重もの内堀と運河を巡らせていました。いわば水に囲まれた城郭都市だったのです。

各々の堀には城内に入るための橋が架けられ、橋の内部には枡形門が設けられました。枡形門は、敵の侵入を想定した防衛のための砦でありましたので、この頃の江戸城はまだ戦略上の考慮に基づいて築城されたことがわかります。

地図には両国橋以下の隅田川の橋も記載されていますが、江戸城完成の頃にはそれらの橋はいまだ架けられておらず、城全体が外部からの浸入に対して厳重に防護されていたのでした。

主な門について、見てみることにしましょう。

浅草橋御門 奥州道中の起点となる門で、戦略上高い位置づけを与えられていました。明暦の大火の際には、この門が閉じられたため、大勢の人が逃げ場を失い焼け死にました。

喰違橋門 明治の初期、この門の石を使って万世橋が作られました。

四谷門 甲州道の起点となった門です。

芝口見附 東海道の起点となった門です

大手門 江戸城の正門ともいうべきもので、多くの大名はこの門をくぐって本丸に拝殿しました。

一ツ橋門、清水門、田安門 徳川三卿の一橋、清水、田安の各屋敷があったところです。家の名はそれぞれ門の名からとられたといいます。


http://hix05.com/rivers/river03/river035.html 【 江戸の上水道】より

江戸は、市街地の大部分が海に近い低湿地であったために、良質な井戸水が得られませんでした。そこで、幕府は千鳥が淵や赤坂溜池などの貯水池を作って水の確保に努めましたが、拡大する都市人口の圧力に直面して、次第に上水道の整備に取り掛かります。

最初に作られたのは神田上水です。これは平川の水を小石川の関口で取水し、石樋で市中に供給しようというものでした。樋は関口から後楽園を通り、水道橋あたりで神田川をまたぎ、神田、日本橋方面へと通じていました。神田川を渡る際には橋に木製の樋を通しました。水道橋という名前はこのことから生まれたものです。

玉川上水は、玉川の水を水源にしたもので、羽村の堰から取水した水を導くために堀を作り、それを通じて江戸の市中に給水したものです。この堀は武蔵野台地のゆるい傾斜を利用した人口の河川で、羽村から四谷の大木戸まで43キロの長さをわずか8ヶ月で掘ったといいます。1,654年のことです。大木戸から先は、石樋や木樋を通して、赤坂、麻布、芝方面へ給水していました。

このほかにも、徳川時代の一時期、補助的にいくつかの上水があったといわれます。

亀有上水は、曳舟川ともよばれ、本所地区に給水していました。ほぼ現在の曳舟川通りに相当するものです。作られたのは万治2(1659)年のことです。

青山上水は玉川上水の分流とも言うべきもので、四谷大木戸付近から取水した水を樋を通じて青山、麻布方面へ給水しました。作られたのは万治3年(1660)年のことです。

三田上水は、渋谷の笹塚付近で玉川上水から取水し、樋を通して、三田、芝方面へ給水し、最後は品川あたりで目黒川に落としていました。作られたのは、寛文4(1664)年のことです。

千川上水は、武蔵境から玉川上水を分流させ、東北の方角にそって巣鴨までほられた堀です。巣鴨から先は、樋を通じて、本郷,下谷方面に給水していました。作られたのは元禄9(1696)年のことです。

徳川時代の江戸庶民にとって貴重な水道であったこれらの上水に、大事件が起こりました。

享保2(1772)年、時代の儒学者に室鳩巣というものがおりました。この者が、地下水道の発展によって地下水脈が絶たれ、その結果火事が多発するようになるという珍説を主張しました。何だか風が吹けば桶屋が儲かるを思い出させる類の説です。ところが、幕府の要人たちがその節を採用して、上水道をことごとく破壊しようとしたのです。さすがに神田と玉川の二大上水は生き延びましたが、外の上水は廃止されてしまいました。

学説の一貫性ということからは、廃止した水道を埋め戻すのが筋なはずですのに、樋はそのままに残されたのです。換骨堕胎とはこのことをいうのでしょう。

なんぼう世には をかしきことのさうらふぞ、といいたくなりますね。


http://hix05.com/rivers/river03/river036.html  【芭蕉と神田上水】より

松尾芭蕉は、正保元(1644)年、伊賀上野に農民武士の子として生まれ、元禄7(1694)年、旅先の地大坂において、馬歯51をもって没しました。もとより説明の要もない偉大な俳人ですが、この人が芸術とはあまり縁のない、土木技術の技師として、神田川の上水工事に携わっていた時期があることが知られています。

どのような時期、どれくらいの期間、どのような役柄で、この工事にかかわったか、その詳細については諸説紛々として定まった説がないのが実情ですが、文献等から読み取れる範囲内で、事実を洗い出して見ましょう。

芭蕉は、寛文12(1672)年、門人の小沢卜尺とともに江戸に下ってきて、日本橋にあった卜尺の家に起居するようになります。この年から、延宝8(1680)年に深川の芭蕉庵に遷るまでの数年の間に、何らかの形で神田川の水道工事に携わったとするのが大方の通説です。

神田上水は、家光の時代(1629)に作られた後も、江戸の市街人口の増大や、樋が木製だという技術的な理由から、なんども改修や修繕が加えられてきました。なかでも延宝五(1677)から八年にかけて行われた改修工事は、大規模なものだったらしく、小石川北岸の石垣を作り替えたり、木樋の容量アップなどが施されています。

芭蕉はこの工事に携わったのではないかとするのがまず一説です。その根拠として弟子の森川許六があらわした「風俗文選」という書があげられます。その一文に次のような下りがあります。

「世に功を遺さんが為に、武小石川之水道を修め、四年にして成る、速やかに功を捨てて、深川芭蕉庵に入りて出家す」

これが芭蕉の水道工事に携わったことにふれた最も古い記録です。文脈からして上述した延宝の大修理だったのではないかと推測されているわけです。

また、徳川時代中期、蓑笠庵梨一というものが「奥の細道菅菰抄」という日記を著していますが、卜尺の二代目に聞いた話として、次のようなことを書いています。

「しばしがほどのたつきにと、縁を求めて水方の官吏とせしに、風人の習ひ俗事にうとく、その任に耐へざるにや、職を捨てて深川といふところに隠れ・・・」

この文は、卜尺が芭蕉を水方として紹介し職を斡旋してやったと読み取れます。卜尺は日本橋の大名主として、水方を勤めていた町年寄りたちと交際があったので、芭蕉を使ってくれと口を利いても不自然ではないとされてきました。

この二つの記録や前後の傍証から、どうも芭蕉は治水の技術を天職のようなものとしてもち、江戸へ出てきたのも、この技術を以て身を立てるためではなかったかと、推論する者も現れています。この説によれば、芭蕉は伊賀にいた時代に、治水の技術を学んだのだろうとされています。

現在、江戸川公園近くに、関口芭蕉庵という芭蕉ゆかりの施設が立っています。もともとは、弟子たちが芭蕉の句を地中に埋めて墓がわりに参拝したことから発したものですが、この近くには神田上水の水番所があったものです。芭蕉は、日本橋の家に起居しながら、この番所に通って神田川のメンテナンスに従事し、やがて延宝の大修理の際にはその陣頭指揮にあたったのではないかと、推測されもします。

梨一は「任に耐へず職を捨てて去った」と記していますが、実際には俳諧での名声が高まるにつれて、水工事よりもそちらのほうが忙しくなってきた事情があったものと、これは芭蕉の名誉のためにも、いえるのでないでしょうか。

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