年の瀬も乙字ヶ滝に落ち合へり

乙字ヶ滝(石河滝)・日本の滝百選  Otsuji Falls

 五月雨の滝降りうつむ水(み)かさ哉  芭蕉

 年の瀬も乙字ヶ滝に落ち合へり  高資

https://www.minyu-net.com/serial/hosomichi/FM20200406-475653.php 【【旅の終わりに】俳人・長谷川櫂さん(上) 『時の激流』どう生きるか】より

はせがわ・かい 1954年、熊本県生まれ。東大法学部卒。読売新聞記者を経て、創作活動に専念する。「朝日俳壇」選者、サイト「一億人の俳句入門」で「ネット投句」「うたたね歌仙」主宰、「季語と歳時記の会(きごさい)」代表、俳句結社「古志」前主宰、東海大特任教授、神奈川近代文学館副館長。読売新聞に詩歌コラム「四季」連載。蛇笏賞、奥の細道文学賞、ドナルド・キーン大賞選考委員。「俳句の宇宙」など著作多数。66歳。

 松尾芭蕉が「おくのほそ道」の旅に出て330年の節目に開始した連載「おくのほそ道まわり道」は、白河や須賀川、福島など県内各地をはじめ、奥州・北陸のかなたまで俳聖の足跡をたどり、名句誕生の地を訪ねてきた。そして前回「むすびの地」大垣に至り、いよいよ終幕を迎えた。この旅の余韻の中、俳人の長谷川櫂さんに、芭蕉は「おくのほそ道」の旅を経て、どう変わったのか、何をつかんだのか、この旅の意味について聞いた。

 「おくのほそ道」を紀行文だと思っている人が多くいます。しかし、これは文学作品です。芭蕉が奥州・北陸を旅したのは事実です。ただ、その旅を素材にして練り上げた文学作品と割り切って考えないと、何かもやもやしたものが最後まで残ります。「おくのほそ道」をたどる場合、純粋な旅の記録である「曽良日記」に沿って歩くと、芭蕉が書いた本文からどんどんはずれ、逆に本文通りに行こうとすると、決してたどれない場所があります。

 最初と最後に川

 さて、文学作品にはテーマがあるわけですが、「おくのほそ道」の最大のテーマは「時間の猛威」です。

 人間は皆、時間の中で生きている。そして、時間の流れによって、世の中はどんどん移り変わってしまう。人間は年を取って死に、また新しい人が生まれる。この変転極まりない人間界が、時間によって出来上がっている。そんな時間の猛威の中で、人間はどうやって生きていったらいいか、はかない人生を人間はどう生きればいいのか―。

 これは原文にはっきり書いてあるわけではありません。全体を読んで浮かび上がってくる「おくのほそ道」の壮大なテーマです。

 「おくのほそ道」の旅は、江戸の深川を出て、150日ぐらいかけて大垣に到着します。この旅の前と後とで芭蕉は、一体どう変わったのでしょう。つまり、芭蕉はこの旅で何をつかんだのか。それを探求することが、この作品と取り組むときの正面玄関だと思います。芭蕉がつかんだことによって「おくのほそ道」は出来上がっているわけですから。

 これは気付かれていないことですが、非常に分かりやすい切り口があります。「おくのほそ道」の旅は、深川から隅田川をさかのぼって始まる。一方、旅の終わりの大垣では、芭蕉は船に乗り揖斐(いび)川を下って伊勢へ向かう。要するに、川で始まって川で終わる物語です。

 川は一体何を表しているのかというと、時間の大きな流れだと考えられます。芭蕉だけでなく、鴨長明の「方丈記」も「行く川のながれは絶えずして...」と始まっている通り、日本文学において、川というのは時間の比喩です。その川に浮かぶ船というのは、人生、人間の比喩であるわけです。

 この、時間を表す川の場面で始まり終わる構成は、「おくのほそ道」で芭蕉がつかんだことを考える上で、大きなヒントになると思います。

 かるみをつかむ

 二つの場面で、芭蕉は1句ずつ残しました。出発の時に詠んだ句は〈行春(ゆくはる)や鳥啼(なき)魚(うお)の目は泪(なみだ)〉。最後の大垣で残した句は〈蛤(はまぐり)のふたみにわかれ行(ゆく)秋ぞ〉。ともに、集まってくれた門人らとの別れの句です。

 別れというのは、時間の激流の中の人間が、必ず体験しなければならないことで、生き別れも死別もあります。その別れにどう対処していくか。これが、時間の中をどう生きていくのかという問題の、具体的な問いになるわけです。

 この二つの句を見比べると、明らかに感じが違います。最初の〈行春や―〉は、漢字が多く、漢詩の一節のような印象があります。最後の〈蛤の―〉は、平仮名が多く、調べも非常になだらかです。それに「ほそ道」の原文を見ると分かりますが、〈行春や―〉は1行で書いてあるのに、〈蛤の―〉は3行の分かち書き、和歌の昔ながらの書き方になっています。

 つまり、ともに別れの句でありながら、出発の時の句は非常に重たい句になっている。これに対し結びの時の別れの句は軽い句になっている。この重さの違いが、芭蕉が「おくのほそ道」の旅を続け、つかんだものなんですね。それが、いわゆる「かるみ」です。150日の旅を続けているうちに、芭蕉の句というのは、これほど軽くなったということです。

 ただ、それは単に言葉の表現―漢字が多いとか、分かち書きであるとか、調べがなだらかだとかという俳句の表現の問題ではありません。芭蕉の人生観そのものです。芭蕉は、この旅で何かを見つけて吹っ切れた。それによって、俳句が軽々としたものになっていったのではないか、と推測できるわけです。

 この二つの句によって浮かび上がる、芭蕉の人生に対する考え方の違いが、「おくのほそ道」の成果と言えるのではないでしょうか。


https://www.minyu-net.com/serial/hosomichi/FM20200420-479783.php 【【旅の終わりに】俳人・長谷川櫂さん(中) 宇宙の中に「不易流行」】 より

「おくのほそ道」の旅の成果として「かるみ」があると前回話しましたが、本文には「かるみ」の「か」の字もなければ、芭蕉のもう一つの俳諧理念「不易流行」の「ふ」の字も出てきません。ただ、この旅の後の芭蕉の発言や行動から、「かるみ」「不易流行」はこの旅の過程でつかんだものだと、多くの研究者も推察しています。

では、芭蕉は旅のどこで「不易流行」「かるみ」を捉えたのか。本文では全く触れられていないため、読む側の「読み」にかかってきます。

私の読みを申し上げると、まず「おくのほそ道」は、その面影が歌仙と似ています。

歌仙は、36句から成る連歌・俳諧の形式で、6句、12句、12句、6句と、4部で構成されます。同じように「おくのほそ道」も、よく読むと4部に分かれていることが見えてきます。芭蕉にとって歌仙は、自分の骨髄というくらい命を懸け練り上げた文芸でした。ですから、ほかの文章を書くときにも、歌仙の影響が出てくるわけです。

どのように分かれているかというと、白河の関、尿前(しとまえ)の関(宮城県大崎市)、市振(いちぶり)の関(新潟県糸魚川市)の三つの関で区切られています。

 そして、それぞれの関所の前後には必ず難所が置かれています。白河の関の前には、毒気を放つ殺生石。尿前の関の後には、山刀伐(なたぎり)峠など命からがら越える峠道。市振の関の前には、親不知(おやしらず)・子(こ)不知という海沿いの難所があります。芭蕉は、こうした難所を越え新しい世界へ進んで行く。これは、試練を経て姫君を手に入れるという物語の手法です。それを芭蕉は「おくのほそ道」に自由に取り入れて構成したわけです。

 では、この四つの部分は、それぞれ、どういうテーマで描かれているでしょう。

 最初の、深川から白河の関までは、寺や神社が次々と出てきます。芭蕉は、雲巌寺や日光など各地の寺社仏閣にお参りし、〈夏山(なつやま)に足駄(あしだ)を拝む首途(かどで)哉(かな)〉などの句を詠み、旅の安全を祈願します。つまり長旅の助走ともいえる祈りの期間が、白河の関まで続きます。

 歌枕、重要な働き

 白河の関を越えると、いよいよ「おくのほそ道」の本題に入ってきます。ここからは歌枕が重要な働きをします。

 芭蕉は、白河の関から信夫文知摺(福島市)や末の松山(宮城県多賀城市)など多くの歌枕を訪ね平泉に至ります。しかし、ことごとく失望します。なぜなら川の流れが変わり、道は付け替えられ、木は生え替わり、ほとんどの歌枕は、かつての姿をとどめていなかった、と芭蕉は理由を記しています。

 例えば末の松山。ここは〈君をおきてあだし心をわがもたば末の松山波の越えなん〉(「万葉集」)、つまり「末の松山を波が越えないように、私があなたへの思いを裏切ることも決してない」という和歌がある通り、永遠の愛の誓いの歌枕です。しかし芭蕉は「今は墓場になっている」と非常に皮肉な文章を残しました。

 時間の流れによって姿を変えたり、行方が分からなくなっている歌枕。この状況は人間の人生そのままである、という感想を芭蕉は持つわけです。

 しかし、その中で、変わらない歌枕がいくつかありました。

 その一つが壷(つぼ)の碑(多賀城市)です。芭蕉は、変わらずにあった、この歌枕に大感激し「千歳(せんざい)の記念(かたみ)」という言い方をしています。ただ、これは仙台藩が多賀城碑を壷の碑と認定したもので、後に違うことが分かりました。

 もう一つが平泉の中尊寺です。〈五月雨(さみだれ)の降(ふり)のこしてや光堂〉、ほとんどの歌枕は失われているけれど、光堂は五月雨に降り残されて今も光を放っている―。五月雨は、川が時間の比喩であるのと同じで時間を思わせる。つまり、時間の猛威にもかかわらず光堂は残っていることに、そこで気付いた―という句です。まさに、この句が象徴しているのですが、時間によって世界はどんどん変わっていく―というのが第2部の大きなテーマで、ただし芭蕉は、その中にも変わらないものがあるのではないか、と気付き第3部へ進むのです。

 月や太陽、銀河を意識

 続く第3部は(スケールの)大きな句が多く並んでいます。まず、出羽三山で〈涼しさやほの三(み)か月の羽黒山〉〈雲の峰幾(いく)つ崩(くずれ)て月の山〉という月の句。次に酒田へ出て〈暑き日を海にいれたり最上川〉と、太陽の句が続きます。

 越後路に入ると〈文月(ふみづき)や六日も常(つね)の夜(よ)には似ず〉〈荒海(あらうみ)や佐渡(さど)によこたふ天河(あまのがわ)〉という天の川の句が二つ並んでいます。

 このように宇宙の天体が次々と登場し、異様な感じがします。これが一体どういう意味かという学問的な研究は、ほとんど目にしませんが、明らかに特徴的なものとして天体が詠まれている。そして本文にも、芭蕉が宇宙を意識していたことが記されています。

 月山に登る途中の「日月行道(じつげつぎょうどう)の雲関(うんかん)に入(いる)かとあやしまれ」のくだり。日月行道の雲関は、太陽と月が運行している宇宙空間のこと。つまり「宇宙の中に紛れ入るような気がする」と書いている。これが第3部のテーマです。そして、この体験を基に「月日は百代(はくたい)の過客(かかく)にして―」という「おくのほそ道」の冒頭の名文が書かれました。

 さらにいえば、芭蕉は「不易流行」という理念を、この第3部で「日月行道の雲関」を旅しているうちにつかんだのだと思うのです。

 時間が全てを押し流していくけれど、変わらないものがある。第2部から第3部に持ち越された、このテーマを抱きつつ芭蕉が宇宙を眺めていると、太陽は移動し、昇ったり沈んだりする。月も満ち欠けし、天の川も移り変わっていく。宇宙は常に変化を繰り返している。けれど宇宙全体としての実体は何も変わらない。芭蕉はそう気付くわけです。この、変化を繰り返しているものが、実は何も変わらないんだということ、これがまさに不易流行なんです。

 不易流行というと、不易〈変わらないもの〉と、流行〈変わるもの〉が別々に存在するという意味に捉えられがちですが、流行しながら何も変わらない、つまり「不易=(イコール)流行」です。この不易=流行をつかみ、芭蕉は第4部へと向かうのです。


https://www.minyu-net.com/serial/hosomichi/FM20200427-481851.php 【【旅の終わりに】俳人・長谷川櫂さん(下) かるみの先に心の安寧】 より

前回は、「おくのほそ道」の第3部にあたる尿前(しとまえ)の関から市振(いちぶり)の関までの旅で、芭蕉は宇宙空間に入って行くような体験をし、「変化をくりかえしているものこそ実は何も変わらないのだ」という「不易流行(ふえきりゅうこう)」という宇宙観をつかんだという話をしました。

 この第3部は「おくのほそ道」の中でも重要なので、もう少し続けます。

 その最後に七夕を詠んだ句が二つ置かれています。〈文月(ふみづき)や六日も常(つね)の夜(よ)には似ず〉〈荒海(あらうみ)や佐渡(さど)によこたふ天河(あまのがわ)〉です。

 1句目は、織り姫とひこ星が逢(あ)う七月七日の七夕、その前の七月六日の夜も、いつもと違うように見える―。といっていて、恋する星のときめきを詠んだ句です。

 2句目は、まさに星の恋の句です。この句を読むと、海の向こうに佐渡があり、その上に天の川が横に流れているイメージが浮かびますが、句が詠まれた出雲崎あたりでは、天の川は、佐渡に向かって縦に延びている。ではなぜ「よこたふ」といったのかというと、佐渡を枕に天の川が横たわっているわけです。織り姫とひこ星が今、佐渡を枕に二人寝ている―。言葉はみやびやかですが、星のベッドシーンが描かれているのです。

 この宇宙の恋から人間の恋へ一転するのが次の市振です。〈一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月〉の句が置かれ、遊女たちと同じ宿に泊まった芭蕉たちは、一緒に付いていきたいと言う遊女たちを振り切って旅を続けた、と書かれています。恋を商いにする遊女、最下層で生きる人間の恋が出てくる。宇宙から一挙に、人間の世界に展開する、ここが見どころなんですね。そして、この句から人間界をたどる第4部が始まっていくのです。

 ここで確認しておきたいのは、不易流行は、芭蕉の宇宙観だということです。ところが旅を終えた後、弟子たちと話しているうちに俳諧の作り方に応用されていき、芭蕉は俳諧にも不易流行があると言いはじめる。弟子の(向井)去来はそう書いています。宇宙観である不易流行が文学論として応用されるわけです。ただ不易流行は、もともと芭蕉の宇宙観だったということをしっかり押さえておく必要があります。

 宇宙からの視点

 さて不易流行という宇宙観をつかんで人間界に戻ってきた芭蕉は、この第4部でいろんな人との「別れ」を次から次に経験します。

 市振での遊女との別れに次いで出てくるのが、金沢の俳人、(小杉)一笑との別れです。芭蕉が訪ねていくと、一笑はすでに死んでいました。次に出てくる大きな別れは、曽良との別れです。江戸からずっと付いてきた曽良が、山中温泉で体を壊し、一人で先に旅立ってしまう。さらに、金沢から同行した弟子の(立花)北枝とも、加賀の国から越前に入る時、別れています。そして最後、大垣で多くの人々と別れて伊勢へ旅立つ―という経緯をたどります。

 芭蕉は第3部とは打って変わって、第4部では生き別れや死に別れを次々と経験する。同時に、この過程で言葉がだんだんと軽くなっていき、芭蕉は最後に〈蛤(はまぐり)のふたみにわかれ行(ゆく)秋ぞ〉という句を置きました。これが、人間の世界を宇宙的な観点からながめる「かるみ」に芭蕉が気付いたことを示しているわけです。

 人間界にどっぷりつかっていると、誰と別れなくちゃいけない、誰に死なれてしまったと一喜一憂して大変です。無常な時間にもみくちゃにされる人間界にどっぷりつかるのではなく、宇宙の高みから人間界を見下ろす―これが「かるみ」なんですね。

 この「かるみ」はある意味で非情な精神なんです。親と死に別れようが、子と生き別れようが、それを軽々と乗り越えていく。そういう精神です。それが、芭蕉に安心の境地を提供したのではないかと思うのです。

 では、芭蕉はこの「かるみ」を「おくのほそ道」のどこでつかんだのでしょうか。本文から見る限り、第4部で、不易流行という宇宙観を人間の世界に当てはめたとき、それが「かるみ」という形をとったのだろうと思います。つまり、人間の世界の不易流行が、「かるみ」という言葉で語られているのです。

 その「かるみ」の成果として、〈蛤のふたみに〉の句が最後に置かれているのだろうと思うんですね。

 以上が、私が考える「おくのほそ道」の構造です。

 古典はずす試み

 こうして芭蕉は「おくのほそ道」の旅に出発する時抱いていた「時間の猛威の中で、どうやって生きていくのか」という問いに対する一つの解答として「かるみ」をつかみました。

 旅の後、亡くなるまでの5年間、「かるみ」を創作で実践することに取り組みます。しかし、その過程で芭蕉は非常な困難にぶつかりました。

 旅の後、関西にとどまった芭蕉はまず京都の弟子、去来や(内藤)丈草と俳諧選集「猿蓑」を作りますが、そこに収められた句や歌仙は、西行や能因らの古典作品を下敷きにした作品でした。当時の江戸時代前半は古典主義の時代で、芭蕉も古典の中で育った人です。「おくのほそ道」の句や文章も、古典の知識がないと読み進められません。

 ただ「猿蓑」は、それ以前の選集の、宗祇など固有名詞が出てくる露骨な古典主義ではなく、古典を「面影」にして詠む作品が多く並んでいます。「源氏物語」の原典では光源氏が門から出る場面を、門から入る場面に変えるというふうに少しずらして詠む。面影という洗練された古典主義の「猿蓑」は芭蕉最高の選集と評価されています。

 ところが「かるみ」にとらわれた芭蕉は、ここにとどまることができませんでした。考えてみれば、古典主義ほど文学にとって重苦しいものはありません。そこで芭蕉は古典から逃れようと考えた。古典になじんだ京都の弟子たちから離れ、江戸に出て、今度は両替商の手代たち、今で言えば大銀行の部課長のような経済人と歌仙を巻き、俳諧選集「炭俵」を作りました。作品は古典を下敷きせず、日常の言葉で詠まれています。米相場などお金勘定の話もたくさん出てきます。

 芭蕉は、古典から離れようとしたわけです。しかし芭蕉にとって、これが苦しいんですね。古典の中で育った人だから、古典を自分からはずすのは苦痛でもあった。それに疲れ果てて大坂へ向かうのですが、大坂に着くと亡くなってしまいました。古典をはずすことは、芭蕉にとって自殺行為だったわけです。

 最後に行き着く

 ただ、大坂で亡くなる前のひと月の間に、生涯の名句がいくつも生まれました。例えば〈秋深き隣は何をする人ぞ〉。この句は、これだけで分かる。古典とは何の関係もないようにみえる。しかし実際は杜甫の漢詩を踏まえている。けれど、原典を知らなくても、ちゃんと分かるという句作りになっているのです。

 そして芭蕉最後の句が〈旅に病んで夢は枯野をかけ廻(めぐ)る〉。これも、そのまま分かりますよね。しかし、杜甫の詩を下敷きにしています。

 一度は、古典をはずすことが「かるみ」と考えた芭蕉ですが、実は古典を踏まえて古典を意識させない、そこに道があった。これが死の直前、最終的に行き着いた芭蕉の「かるみ」の境地だったのです。 =おわり