意識と本質

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【【読書余滴】井筒俊彦の、芭蕉・リルケ・マラルメの「本質」論的分析 ~東洋哲学の共時的構造化~】より

イスラム哲学の術語に、「本質」は二つある。マーヒーヤとフウィーヤである。

 前者は普遍的(一般的)本質であり、自己同一性を規定する。後者は個別的(特殊的)本質であり、一切の言語化と概念化を峻拒する。両者は共に存在者の「本質」である。あらゆる事物には、この二つの次元の異なる「本質」が認められる。

 「『松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ』と門弟に教えた芭蕉は、『本質』論の見地からすれば、事物の普遍的『本質』、マーヒーヤ、の実在を信じる人であった。だが、この普遍的『本質』を普遍的実在のままではなく、個物の個別的実在性として直感すべきことを彼は説いた。言いかえれば、マーヒーヤのフウィーヤへの転換を問題とした。マーヒーヤが突如としてフウィーヤに転成する瞬間がある。この『本質』の次元転換の微妙な瞬間が間髪を容れず指摘言語に結晶する。俳句とは、芭蕉にとって、実存的緊迫に充ちたこの瞬間のポエジーであった」

 一々の存在者をして、そのものたらしめているマーヒーヤを、芭蕉は連歌的伝統の術語を使って「本情」と呼んだ。千変万化してやまぬ天地自然の宇宙的存在流動の奥に、万代不易な実在を彼は悟った。

 本情とは、個々の存在者に内在する永遠不易の普遍的「本質」だ。内在するといっても、花は花という『古今』的「本質」のように、事物の感覚的表層に露わに見える普遍者ではない。事物の存在深層に隠れた「本質」である。

 「物と我と二つになりて」・・・・つまり、主体客体が二極分裂し、その主体が自己に対立するものとして客観的に外から眺めることのできるような存在次元を仮に存在表層と呼ぶ。この存在表層を越えた、認識論的二極分裂以前の根源的存在次元が、芭蕉の見た存在深層である。 

 このように、本来的に存在深層にひそむ「本情」は、登園、表層意識では絶対に捉えられない。つまり、普通の形での「・・・・の意識」の「・・・・」にはにはなりえない。「・・・・の意識」とは、二極分裂的自我意識だからである。モノの「本情」に直接触れるためには、「・・・・の意識」そのものの内的機構に、ある根本的な変質が起こらなければならない。この変質を、芭蕉は一見すこぶる簡単な言葉で表現する。「私意をはなれる」と。私意を離れて、つまり二極分裂的でない主体としてモノを見るのだ。

 このような方向に自己を絶えず美的に修練していくことが、すなわち芭蕉のいわゆる「をのれが心をせめて、物の実(まこと)しる事」(『許六離別ノ詞』)だった。芭蕉のいわゆる「風雅の誠」である。

 しかし、かかる美的修練を積んで存在深層を垣間見ることのできるようになった人にも、あらゆるモノの「本情」が常住不断に露わになっている、とは芭蕉は考えなかった。経験的世界に生きる/生きなければならぬ存在者として、人は普段は「・・・・の意識」で事物に接している。ただ、「内をつねに勤めて物に応」じる特別の修練を経た人、すなわち「風雅に情(こころ)ある人」、の実体験として、モノを前にして突然「・・・・の意識」が消える瞬間があるのだ。そういう瞬間にモノの「本情」がチラッと光る。「物の見えたる光」だ。一瞬のひらめく存在開示だ。

 人がモノに出会う。異常な緊張としてのこの出会いの瞬間、人とモノとの間に一つの実存的磁場が現成する。その場(フィールド)の中心に人の「・・・・の意識」は消え、モノの「本情」が自己を開示する。

 この実存的出来事を、芭蕉は「物に入りて、その微の顕れ」る、という。「物に入る」と、人の側においては、モノが「・・・・の意識」の対象ではなくなる。二極分裂的意識主体が消去する。「その微が顕れる」と、モノの側では、それの「微」、すなわち普通は存在の深部に奥深く隠れひそんで目に見えぬ「本情」が自らを顕す。この時、そこに自己を開示するものは「本情」だ。すなわち普遍的「本質」だ。

 この永遠不変の「本質」が、芭蕉的実存体験においては、突然、瞬間的に、生々しい感覚性に変成して現れる。普遍者が、瞬間的に自己を感覚化するのだ。そして、この感覚的なものが、その時、その場におけるそのモノの個体的リアリティなのである。人とモノとの、ただ一回かぎりの、緊迫した実存的邂逅の場(フィールド)のなかで、マーヒーヤがフウィーヤに変貌する。だが、すべては一瞬の出来事にすぎない。だから、「物の見えたる光、いまだ心に消えざる中(うち)にいひとむべし」。「その境に入って、物のさめざるうちに取りて姿を究」めなければならない。 

 以上、もっぱら服部土芳『赤冊子』に依拠して、芭蕉の詩論と思われるものを「本質」論的に分析してみた。

 存在の真相を徹底的に掴もうという情熱に憑かれた詩人たちの思想から、哲学的「本質」論が学ぶべきことは、当然、多い。

 芭蕉は、不変不動のマーヒーヤの形而上的実在性を認める。ただ、マーヒーヤをそのまま存在の深層次元に探ろうとするかわりに、それが感性的表層に生起してフウィーヤに変成する、まさにその瞬間にそれを捉えようとする。存在の真相をマーヒーヤ、フウィーヤの力動的な転換点に直観しようとする。

 これに対して、同じく存在の真相を探る詩人でも、個別存在者のフウィーヤだけに意識の焦点を合わせ、ひたすらその方向に存在の真相を追求していく人もいる。リルケのように。この型の詩人にとっては、マーヒーヤは始めから概念的虚構であって、なんら実在性をもたない。

 リルケの「即物的直視」は、ただ事物の個体的リアリティを、その究極的個体性において直視するにとどまる。

 芭蕉とリルケは、「即物直視」を事とする詩人の二つの型だ。

 これとは別に、同じく存在の意識体験的な真相開明に執拗な情熱を抱きながらも、一切の「即物的直視」を排除し、マーヒーヤをそのイデア的純粋性においてのみ直視しようとする詩人もいる。そのきわめて顕著な例はマラルメだ。

 マラルメのようなイデア追求型の詩人の普遍的直感は、哲学の領域では、普遍的「本質」の実在論に直結するのである。

   *

 以上、参考文献の主としてpp.57-61に拠る。

【参考】井筒俊彦『意識と本質』(岩波文庫、1991)


http://the-whale-circus.com/basyou_matuo/

【【井筒俊彦「意識と本質」】松尾芭蕉いわく主体と客体という分断意識が消える瞬間に「本質」が立ち上がる】より

「さて―」事件を解く鍵となった5・7・5のリズムに気づいたときから、名探偵はリズムに合わせて真相を語りだした。

こんにちは、たわら(@Whale_circus)です。

「お月さま 雲をかきわけ 顔を出す」

この俳句を知っているだろうか。かつて朝日新聞に掲載された俳句だ。

月を擬人化し、地球に生活する人々を照らすために、よいせよいせと、雲に顔を押し付けているような夜空を詠んだ句である。

詠んだのは小学生だった僕だ。夏休みに祖父に促されてとっさに詠んだ記憶がある。新聞社に送ればあら不思議、あっさり新聞に掲載された。新聞紙デビューである。応募が少なかったのだろうか、名句なのだろうか、真相はヤブの中だ。

じいちゃんありがとう。言葉、に興味を持ち始めたのはそれからだったかもしれない。

夏の終わりのほほえましいエピソードは、突如回転し、別の疑問として結晶する。

俳句や詩を詠むとはいったいどういう行為なのか、と。

今回の記事に登場する碩学は再び井筒俊彦である。その著書「意識と本質」は本質論である。

その中で哲学的「本質」をとらえるために俳人や詩人の「本質」論を彼はみていく

ここではかの有名な松尾芭蕉の世界への接し方を見ていく。

1 2つの本質:普遍的「本質」と個体に内在している「本質」

上記の記事にも紹介しているが、僕らは通常、花、石、木という言葉で世界を認識している。

花の「本質」、石の「本質」、木の「本質」を知っているから、それらの言葉を使って指し示すことができる。石を見て花という言葉を使わないし、木をみて石とは呼ばないだろう。それは言語化しなくとも、それぞれの本質を知っているからである。

究極的に、同じ花は二つとしてないが、総称して「花」と呼べることは可能です。あなたとまったく同じ人間はいないが、あなたと僕は同じ「人間」であるのと同様であろう。花を花たらしめるもの、人間を人間たらしめるもの、それが「本質」なのだ。

つまり、この世界とは普遍的「本質」の網目に切り取られた世界だということです。

しかし別の立場もある。一部の俳人や詩人はいいます。この「本質」は個別的リアリティーを不当に扱っているのではないか、と。例えば、同じ花でも、「いま、この場所に咲いている、僕が見つめている瞬間に立ち上がっている、そのものを独自に存立させる「そのもの性」」を捉えようとする立場のことです。

日常言語(普遍的「本質」)で捉えれば「花」かもしれないが、その詩人が見ているものには「そのもの性」(個別的「本質」)がある。それを詩的言語で捉えるのだ。リルケという詩人はこの立場だそうだ。

芭蕉はその二つを結びつけるような立場をとる。

2 芭蕉の世界の眺め方

結論からいえば、芭蕉は普遍的「本質」が個別的「本質」に次元転換する瞬間を詩的言語に結晶させる立場だった。

「俳句とは、芭蕉にとって、実存的緊迫に充ちたこの瞬間のポエジー」であったと井筒はさらりと書いている。

芭蕉にとっての普遍的「本質」は事物の存在深層に隠れた「本質」だ。

存在深層については井筒の説明を借りることにする。

「物と我と二つにになりて」つまり主体客体が二極分裂して、その主体が自己に対立するものとして客観的に外から眺めることのできるような存在次元を仮に存在表層と呼ぶとして、ここで存在深層とは、この意味での存在表層を超えた、認識的二極分裂以前の根源的次元ということである。

井筒俊彦 1991 「意識と本質」pp58

ぼくが何かを見る、のような認識以前の根源的次元に普遍的「本質」が隠れていると芭蕉は考えたのだ。

芭蕉いわく美的修練を積むと、ものへの意識が消える瞬間が、実体験としてあるそうだ。

そして、主客に分断された日常意識が消えたときに、一瞬だけ普遍的「本質」が自己開示するのだ。

この永遠不変の「本質」が、芭蕉的実存体験においては、突然、瞬間的に、生々しい感覚性に変成して現れるのだ。普遍者が瞬間的に自己を感覚化すると言ってもいい。そしてこの感覚的なものが、その時、その場におけるそのものの個体的リアリティーなのである。

井筒俊彦 1991 「意識と本質」pp59

その瞬間に詩的言語でそのリアリティーを言葉にするのだ。このような背景を知るとあの俳句もまた違って響くことだろう。

「古池や 蛙飛びこむ 水の音」

「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」

古池、蛙、岩、蝉。どの存在深層に隠れた「本質」を言葉にしたのだろうか。

まとめ

芭蕉の「本質」について井筒俊彦に学んだ。俳句を詠む、それはただ5・7・5のリズムに合わせて言葉を選ぶだけではないのだ。

主客が溶けて混ざりあった根源的次元において、一瞬だけ光る「本質」を詩的言語で捉えようとする熱情に感嘆してしまう。

小学生だった僕は、月と根源的次元で出会ったのだろうか。真相はヤブの中、ということにしよう。