須賀川(後半)

kota-k.sakura.ne.jp/new_page_130.html 【奥の細道(6)須賀川(後半)】 より

【神炊館(おたきや)神社】 

 前回紹介した芭蕉記念館から北上し長松院の脇を過ぎた先の十字路の左手に神炊館神社がある。

 鳥居右側の前に建つ『神炊館神社』の石標は、山岡鉄舟 揮毫と案内があった。また、鳥居の左側に「由緒」が掲げられている。

【由緒】

 主祭神は建美依米命。同命は、成務天皇の御代に初代石背国国造として当地に赴任しました。着任するや、社檀を築き収穫された新穀を炊(かし)いて天神地衹に捧げて政治の成功を祈願しました。社名はこの古事に由来しています。その場所(現西川茶畑町)は、「社壇様」と呼ばれましたが後に社殿が築かれ、「神炊館神社」と名づけられました。後世当地を支配した二階堂氏は、城郭内に諏訪社を建立し建美名方神を勧請しましたが、落城後の慶長三(1598)年に両神社を併せて新たに社殿を造営し、諏訪大明神と称しました。会津城主上杉景勝公の庇護を受けていましたが、北門の石鳥居は景勝公寄進のものであります。正徳二(1712)年、正一位の神階を授けられ、「岩瀬総社諏訪大明神」を称し、末社は郡内八十社に及びました。松尾芭蕉が「奥の細道」行脚の途次、当神社を参拝したのは、元禄二年四月二十八日でした。(「曾良随行日記」)

 明治十一年現在の社名に復称し、須賀川町の総鎮守となり、現在に至っています。

     神炊館神社社務所

【山岡鉄舟 揮毫】 

 天保七年(1836)生、明治二十一年(1888)薨

 名は高歩(たかゆき)。通称、鉄太郎。幕末・維新期の剣客で、一刀正伝無刀流の開祖。剣術に優れ書を能くした。西郷隆盛を説き、勝海舟との会談を成立させ、江戸城無血開城に貢献した。明治天皇の侍従を勤め、子爵、従三位、勲二等に叙せられている。海舟、高橋泥舟とともに「幕末三舟」の一人。無私の精神を貫いた剛毅武人型の模範として後世に名高い。

 この書は、明治十七年と推定される。

 鳥居をくぐって参道に入るとすぐ左側に『奥の細道 諏訪明神』と刻まれた石碑が立っている。

 狛犬の間を更に進むと、参道の途中左側に奥の細道碑と三基の石灯篭が建っている。

 その先、小さな橋を渡ると正面の本堂へと続く。

【「奥の細道碑」について】

 『宗祇戻(そうぎもどし)』(柿衛文庫蔵)は、宝暦四(1754)年、白河の俳人和知風光が編集した俳句の本。挿絵に松尾芭蕉の肖像と諏訪明神(神炊館神社)に奉納されていた芭蕉真筆の句として

  「うらみせて涼しき瀧の心哉」

に説明を加えて掲載しています。

(この句は岩波版『芭蕉俳句集』(492)、加藤楸邨『芭蕉全句』(525)に収録されています)

 『曾良随行日記』(天理大学図書館蔵)は、元禄二(1689)年、松尾芭蕉の「奥の細道」の旅に随行した弟子の河合曾良が書きとめていた日記。須賀川には四月二十二日から二十九日まで滞在しました。碑に刻まれているのは、二十八日諏訪明神に参詣した時の一節です。

 「二十八日 発足ノ筈定ル。矢内彦三良来而(きたりて)延引ス。昼過ヨリ彼宅ヘ行而(ゆきて)及暮(くれにおよぶ)。十念寺・諏訪明神へ参詣。朝之内、曇」

 三基の石灯篭は、芭蕉が参詣した元禄年間に当神社に奉納されたものです。

     平成十八年十二月 総鎮守 神炊館神社

【石井家】 

 神炊館神社を出た所の十字路をそのまま真っ直ぐ(東方向)渡ったすぐ右側に石井家がある。

 特に説明等は無いが、千本格子の趣のある家である。

【宮の辻】 

 石井家の前を進み「松明通り」を左折し、次の信号を右折したすぐ先左側に宮の辻がある。

 須賀川の幕末の女流俳人市原多代女の生家があった場所に造られた小さなポケットパーク。

 左から多代女の説明碑、『宮の辻』と刻まれた石柱、投句箱が並んでいる。

【市立博物館】 

 宮の辻から更に東に進むと、右カーブし始める左上に市立博物館があり、正面入口の右奥に芭蕉の句碑がある。

 自然石に、『翁 五月雨耳 飛泉婦梨 う川む 水可佐哉(さみだれに たきふり うつむ みかさかな) 」と刻まれている。

 脇に説明板が立っていなかったら、素人には読めない文字だった。

【松明通り】 

 市立博物館から宮の辻に戻り、次の信号を左折して県道(旧奥州街道・松明通り)に入る。

 松明通りの両側の歩道上ある電気設備には、数々のウルトラマンの仲間達のシルエットが描かれている(左の写真)。

 少し進んだ中町の東側に「柏屋」があったので、大好きな薄皮饅頭を購入する。

 その「柏屋」の斜め向いには大束屋珈琲店(左の写真で一番左側に見えている店)がある。

 この大束屋珈琲店は円谷英二監督の生家で、円谷英二や円谷プロのゆかりの品が展示されている。コーヒーを飲みながら思い出に耽るのも良いだろう。

【結いの辻】 

 松明通りを南下して国道118号線の信号を渡った次の十字路の東角に結の辻という広場がある。向かいは前回訪れた等躬屋敷跡のNTTである。

 結の辻は、伝統的建造物を模した建物(休憩所・トイレ・水屋等)や辻行灯が建つ綺麗な広場で、県道に面した角に芭蕉と曾良の石像(左下の写真)が建っている。

 また、「すかがわ絵地図」や「芭蕉七泊八日の旅日記」も掲げられている。

【芭蕉七泊八日の旅日記】

 元禄二年(1689)の春、俳人・松尾芭蕉は、門人・河合曾良とともに、江戸深川から、大垣まで六百里(約2400キロ)に亘る「おくのほそ道」の旅に出ました。

 芭蕉四十六歳、曾良四十一歳のときです。

 行程のほとんどが未知の地であり、心許ない旅立ちでしたが、敬慕する西行や宗祇・義経などの先人の跡を追い、己の俳諧を突き詰めてみたいという思いに突き動かされたのでした。

 芭蕉は、みちのくの玄関口、白河の関を越え、途中、阿武隈川を渡り、磐梯山を仰ぎ見ながら、四月二十二日(陽暦六月九日)に須賀川に入り、かねてから親交のあった知人、相楽等躬宅に草鞋をぬぎ、八日間滞在しました。

 等躬は、須賀川宿の長であり、問屋業を営んでおり、須賀川俳壇の中心的人物でもありました。

 当時の須賀川は、奥州街道屈指の宿場町として経済的、文化的にも繁栄をきわめており、多くの俳人を輩出し、今もなお、俳諧文化が受け継がれています。

【曾良旅日記による芭蕉八日間の足跡】

四月二十二日(陽暦六月九日)

須か川、乍単斎宿、俳有。

 須賀川に入った芭蕉たちは本町の相楽等躬(本名・伊左衛門)宅に辿り着いた。

 その夜、芭蕉、曾良、等躬の三人による三吟歌仙の会をもうけた。芭蕉は、みちのく入りの感慨を込めた「風流の初やおくの田植うた」を詠んでいる。

四月二十三日(陽暦六月十日)

同所滞留。晩方へ可伸ニ遊、帰ニ寺々八幡ヲ拝。

 夕方に等躬屋敷の一隅に庵を結ぶ隠遁僧・可伸(俗名、染井弥三郎 俳号、栗斎)を訪ねた。

 芭蕉は隠棲する可伸のつましい生き方に共感を持ち、翌日可伸の草庵で歌仙の会を催す約束を交わして、帰りに近隣の寺や八幡社などを参拝した。

四月二十四日(陽暦六月十一日)

主ノ田植。昼過ヨリ可伸庵ニテ会有。会席、そば切、祐碩賞之。雷雨、暮方止。

 この日は、等躬宅の田植えの日であった。

 昼過ぎより、須賀川の俳人たちが芭蕉たちを迎え、可伸の草庵にて七人による歌仙の会が催された。

 この歌仙で、芭蕉は「かくれ家や目だたぬ花を軒の栗」と発句を詠み、この句は後に「世の人の見付ぬ花や軒の栗」と推敲される。

 俳席のあと、等雲(吉田祐碩)による蕎麦きりの振る舞いを受けた。

四月二十五日(陽暦六月十二日)

主物忌、別火。

 二十五日は等躬宅の物忌の日で、飲食や動作を慎んで心身を清め、けがれにふれないように別におこした火を使用するのが習わしだった。

四月二十六日(陽暦六月十三日)

小雨ス。

 小雨模様のこの日は、芭蕉は、江戸の杉山杉風宛に旅の状況を認めた書簡を送っている。

四月二十七日(陽暦六月十四日)

曇。三つ物ども。芹沢の滝へ行。

 二十七日は曇りであった。芭蕉、等躬、曾良による二ツの「三つ物」(発句・脇句・第三句から成る)『四句』の俳席がもうけられた。その後芹沢の滝を訪れている。

四月二十八日(陽暦六月十五日)

発足ノ。筈定ル。矢内彦三良来テ延引ス。昼過ヨリ彼宅ヘ行テ及暮。十念寺、諏訪明神ヘ参詣。朝之内、曇。

 二十八日は出発の日であったが、地元の俳人たちの勧めで、郡山の途次、石河の滝(乙字ヶ滝)に立ち寄ることにした。

 しかし、雨が降り続いていたために水かさが増し、川の徒渡りが難しいことから出立は翌日に延期された。

 同日、矢内彦三良宅に出向いて暮れ時まで過ごし、帰りに十念寺、諏訪神社(神炊館神社)に参詣した。

四月二十九日(陽暦六月十六日)

快晴。巳中剋、発足。石河滝見ニ行。

 二十九日は快晴の空の下、用意されていた馬にまたがり、等躬宅を後にした。

 途次、「乙の字」の形をなして勇壮に流れ落ちる乙字ヶ滝(石河の滝)を眺め、郡山へ向った。

 「五月雨の滝降りうづむ水かさ哉」

【相楽家の金木犀】 

 結の辻(広場)の一本東よりの細道(上記「広場」の写真で、広場と奥のビルの間の道)を右に入って行くと、突き当たりに樹齢400年を超えると云う相楽家の金木犀の巨木が見える。

 突き当りを道に従って右、左へと曲がれば、左の写真の様に民家の庭先に良く見える。

【よってけ広場】 

 相楽家の金木犀から再び県道に戻って南下する。

 次の信号(十字路)の東角に大町よってけ広場がある。西側には「須賀川南町郵便局」がある。

 この広場には、この町出身の円谷幸吉の写真と足型等が飾られている。

【東京オリンピックと円谷幸吉】

 昭和三十九年(西暦1994年)十月十日、第十八回オリンピックが東京で開かれました。このオリンピックはアジアで初めての大会で、第二次世界大戦のため、実現できなかった第十二回東京大会の復活でもあり、更に戦争の混乱から見事に立ち直った日本の実力を世界に示す機会でもありました。この日を記念して後に「体育の日」が制定されましたし、東海道新幹線が開通したのもこの時でした。

 東京オリンピックの最終日は十月二十一日でした。オリンピックでの最終競技は「オリンピックの華」マラソン競技が行われます。このマラソン競技に日本代表選手の一1人として出場したのが須賀川出身の円谷幸吉選手でした。

 午後三時過ぎ、東京・代々木の国立競技場に最初に入ってきたのはエチオピアのアベベ選手でした。続いて来たのは日本の円谷幸吉選手でした。日本の選手が入勝するのは至難の技と云われて来たオリンピックのマラソン競技で、当時の世界の王者、アベベ選手に次いで二位で帰ってきた円谷幸吉選手にスタンドの観衆は皆総立ちになって声援を送りました。 42.195Kmを走り抜き最後の二百メートルで追い上げてきたイギリスのヒートリー選手に追い抜かれ、三位になってしまいましたが、日本初の陸上競技での日の丸の旗が代々木の空に掲揚され、日本国中がその偉業を讃えました。

 円谷幸吉は昭和十五年五月、須賀川市大町で生まれました。県立須賀川高校に入学してすぐ、陸上部に入り学校の行き帰りは必ず走り、夜も毎日家の近くを走って長距離ランナーとしての実力をつけました。卒業後は陸上自衛隊に入隊し、隊員として勤務する傍ら青森・東京間の駅伝やその他の大会で活躍し、その成果を認められて自衛隊体育学校に入学、各地のマラソン大会で入賞するほどになりました。東京オリンピック開催の前年のプレオリンピックで遂に日本代表選手としての一人として選ばれ、東京オリンピックでは見事に期待に応えた円谷幸吉選手でしたが、その後の身体の不調と次のオリンピックへの責任に苦しみ、昭和四十三年一月九日自ら命を絶ってしまいました。まだ二十七歳の若さでありました。

【乙字の滝】 

 奥の細道は、このよってけ広場のある交差点を右折(東へ)する。

 その先「笠間稲荷神社」の二又を右に進むと、程なく「鍋師橋バス停」があり、その左奥に「御嶽山神社」がある。このバス停前に円谷幸吉の生家があるのだが、車なので良く分からないまま通り過ぎてしまった。

 奥の細道は、その先の大通りをそのまま直進し、「六軒」を過ぎ、「福島空港」への大通りを渡ると国道118号線に合流する。

 そのまま国道118号線を南下するとやがて「乙字ヶ滝」の案内標識が出てくるので、それに従って左の道へ入ると、大きくカーブした先に阿武隈川に架かる赤い橋が見えてくる。この橋から左を見ると乙字ヶ滝の段差が見える。

 橋を渡った左側に駐車場があり、ここが滝の見学場所である滝見不動堂の入口である。駐車場には、乙字ヶ滝の古い説明板があった。

【乙字ヶ滝】 (駐車場の説明板)

 那須高原に源を発する阿武隈川が滝をなして乙字の形をしている。水嵩が増した時は百メートルの滝幅いっぱいに落下する水しぶきは、松の緑に映えて雄大である。

 元禄二年(1688年)松尾芭蕉が「五月雨の滝降りうつ水かさ哉」の句を残し、句碑は滝見不動堂の傍らに建っている。昔は川を遡る鱒・鮎・鮭を城主に献上する御用梁場であり、また、阿武隈川舟運のため、滝の北壁を掘割りして舟を通した跡がある。

 上流には慶長十年(1605年)会津蒲生領時代からの浜田用水の横断堰があり、明治三十八年(1905年)より水力発電にも利用されている。北岸の乙字ヶ滝遺跡よりは、旧石器時代の石斧等が出土した。

     須賀川市

 駐車場から「芭蕉句碑」「滝見不動堂」の案内板に従って川沿いの道を降りてゆくと滝見不動堂に着く。不動堂の左手から乙字ヶ滝の雄大な姿を見学する事が出来、不動堂の右手には芭蕉の句碑が建っている。

 この日の乙字ヶ滝は雨で水量が多く見応えがあった。

【乙字ヶ滝】 日本滝百選入選

 古くは竜崎滝・石河滝とも称した。川幅百米・巨巌横に連なり乙字の形をなす。川の中央を玉川村と須賀川市の境界とする。

 江戸時代白河藩領の頃、遠く海より遡上した鮭・鱒・鮎が滝を飛び跳ねるうちに梁に落下する魚が多かった。多い日には一日に千尾を越える程でこれの売却代は狩猟者の収入となった。

 また、ここでとれた初漁は白河藩主に献上する事とされ、藩役人がこの辺に番所をおき看視した。

 この役人の食事、宿泊など賄い一切地元竜崎村が負担した。そのかわりに藩に納入する雑税人夫役などは免除された。

 左の写真で、左奥の赤い橋が先程渡ってきた橋。

【滝見不動堂】

 不動明王を本尊とする。和讃には大同三年(808)弘法大師の開基と伝える。本尊は寄木造彩色の不動明王。制作年代・作者共に不詳。祭日は四月八日。江戸時代初期より代々の白河藩主が参詣探勝し、堂宇修復費として竹木資材金品等を寄進した。

【通船掘割】

 河川のほぼ中央を流下する辺りが通船掘割である。江戸時代末期の寛永ニ年頃、白河郡川原田村(現・中島村)の佐藤良平・明岡村(現・矢吹町)の円谷茂平・三春領鬼生田村(現・郡山市)セブンの藤田逸作・翌三年には大和久村(現・矢吹町)の芳賀市右衛門が加わり四名の共同事業として私財を投じて川原田村から鬼生田村間約五十キロメートルの舟運を企画した。幾多の困難と障害を克服して凡そ十年後の文久二年から舟運通船を開始した。最も通船を妨げたのは乙字ヶ滝であった。しかし漸く掘割をうがち舟を曳き通すことができた。

 ここで使用した舟は「新鵜飼船」を称する十二駄(米二十四俵)積と七駄(米十四俵)積のニ種であった。船の大きさは三丈六尺(約十二米)幅五尺(一、六五米)であった。

 この当時の米壱俵は四斗七升入り位であった。その荷物は米を主として、木羽、油、蠟、塩、砂糖、そばなどがあった。

 明治元年末には福島から白河間延長が許可され、明治政府が助成したが、陸運におされて衰退をたどり、明治十年年頃には廃業のやむなきに至った。

【芭蕉の句碑】

  五月雨の滝降りうつむ水かさ哉  はせを

 この碑は、文化十年(1813)に東都(江戸)の一阿が地元竜崎須賀川の俳人連の協力を得て建立した。

【聖徳太子像】

 明治四十年十一月二十二日・地元の建設発起人小林寅五郎外二名・世話人小林留吉外五名の尽力により建立。像高ニ・六米。このような巨石の太子像は珍しい。

 太子信仰は、建築(特に木工)業者の守護神として信奉されている。

 この外に乙字ヶ滝の周辺には歴史(農業用水路、発電所、堰、河岸場等々)民俗(昔ばなし、習俗)文学碑、記念碑、絵馬などが数多く残されている。

     玉川村教育委員会

 不動堂の先に、芭蕉と曾良の石像が建っていた。

 この後、車のトラブルで夜になってしまったので、この先の行程を諦めて、直接郡山駅前のビジネスホテルへ向った。従って下記芭蕉の辻には行っていないが、田村神社には明日行くつもりである。

 奥の細道は、乙字ヶ滝の駐車場のすぐ後の道を左折して阿武隈川に沿った自転車道を左カーブして進んで行く。

 自動車では無理な道である。駐車場から3.5Km程進むと「男滝橋」の下に出るので、その先で橋の上の道に出る。

 「水郡線」の踏切を渡ったら、直ぐ左折する。「市野関区民館」の先で右折して、「大福寺」前を通り「小作田」を北上する。

 再び「水郡線」の踏切を渡り、車も通れない様な川沿いの道から、線路沿いの道を北上し「「雲水峰(うすみね)橋」に通ずる道に出る。

 この道に出たら右折して、少し進むと芭蕉の辻に着く。ここの南側には八流(はちる)の滝がある。

 芭蕉の辻を過ぎたら、「小塩江郵便局」の所を左折して、県道233号線を北上。その先県道から離れて「小塩江中学校」の前を通り、三度「水郡線」の踏切を渡って国道49号線に合流する。

 「守山東入口信号」で左斜めの道に入ると、1.3Km程で田村神社に到着する。

 田村神社を後に、「山中交差点」で再び国道に合流して北上する。4.3Km程で「金山橋」を渡り、東北新幹線の高架下をくぐったら次の「日出山交差点」を右折する。

 県道355号線を北上し、東北本線をくぐると郡山駅に到着する。