す か 川

http://www.ne.jp/asahi/sakawa/windbell/05_02sukagawa.html  【す か 川】 より

 ● おくのほそ道 本文

 とかくして越行まゝに、おうくま川を渡る。左に会津根高く、右に岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野の地をさかひて山つらなる。かげ沼と云所を行に、今日は空曇て物影うつらず。すか川の駅に等窮といふものを尋て、四、五日とヾめらる。先「白河の関いかにこえつるや」と問。「長途のくるしみ身心つかれ、且は風景に魂うばゝれ、懐旧に腸を断て、はかばかしう思ひめぐらさず。

    風流の初やおくの田植うた

 無下にこえんもさすがに」と語れば、脇・第三とつヾけて三巻となしぬ。

 ● ぼくの細道

 白河を後にした芭蕉翁は、この日は矢吹に宿を取った。この間約15キロほど。途中、時間を食う事件があったわけでも、歩き疲れたわけでもない。次の須賀川まで足を延ばしても20キロを少々超える程度だ。その須賀川には、実はかねてから訪問を予定している人物がいるのだ。

 にもかかわらず手前で宿を取ったのは、到着時刻が人を訪問するにはふさわしくなかったからだろう。

 相良等躬。等躬とはもともと親しい関係にあったが、須賀川宿の駅長(宿役人のトップ)にして各種物資の流通を扱う問屋であったらしい。要するに土地一番の顔役だ。そういう人を訪ねるのだから、時刻や姿かたちを改める必要があった。

 芭蕉翁はそういうことにも気を配る常識人だった。

    十念寺

 須賀川滞在中、芭蕉は付近の名所古跡を訪ね歩いている。そのひとつ、十念寺。

 浄土宗の寺で、1500年代に創建された古刹。

 十念とは、十種の思念を行う行法。十種とは、念仏、念法、念僧、念戒、念施、念天、念休息、念安般、念身、念死。

 まあ、小難しいことはどうでもよい。

 この寺には、右下のような句碑がある。

 句碑、と一言で言うが、句碑とか歌碑、文学碑というものは、ただ建てればいいってもんじゃない。その言葉の芸術性を損なわない背景、雰囲気ってもんが大事だと思う。

 某所で見た句碑にいたっては、隣り合って墓参り用の水汲み場があり、ひしゃくが立てかけてある有様だった。

 その点、須賀川周辺に建てられた句碑は、おおむね及第点を越えているといえる。中でもこの十念寺の句碑は立派だ。

     神炊館神社

 「しんすいかん」神社、と読んでも間違いではないが、それは通称で、正しくは 「おたきや」神社、と読む。

 珍しい名前だ。珍しいはずで、日本全国、ここしかない名前だそうだ。

 全国にひとつしかないこの名前は、その昔主祭神、建美依米命が、新米を炊いて神に感謝した、という故事に由来する。

 ということは、本社、末社のない単立神社か?

 そうでもない。

 人はこの神社を「諏訪明神」もしくは「お諏訪さま」と呼ぶ。これは知っているぞ。信州諏訪湖沿岸に本拠を置き、全国に末社を有する諏訪大社のことだ。

 室町時代、須賀川の城主二階堂為氏が、信州の諏訪神を遷座合祀したことによるという。

 曾良の日記にも「諏訪明神」と書かれているところを見ると、古くからそれが通称となっており、曾良にも芭蕉にも、「おたきや」とは読めなかったのかもしれない。(^○^)

 芭蕉は、この神社に一句を奉納している。

   うらみせて  涼しき瀧の  心哉

 右写真は、神炊館神社の句碑を拡大したもの。冒頭の「宗祇戻」とは、宝暦4年、白河の俳人何某が編集した俳句の本で、芭蕉の肖像とともに上記句が掲載されている。句の文字は、この神社に奉納されていたものを復刻したもので、芭蕉真筆。


http://hide-ogr.la.coocan.jp/honsyu/hosomichi/No15/hosomichi_no15.htm 【須賀川】より

10:15 須賀川本町。須賀川は芭蕉が8日間も滞在したので黒羽と同じように関連の史跡がたくさんある。先ずはこの長い滞在の世話をした相楽等躬(本文では等窮)と「世の人の見つけぬ花や軒の栗」の主人公、栗斎こと可伸の関連史跡。

 等躬は初め乍憚(さたん)または乍単斎(さたんさい)と号し、問屋を営んでいた関係でしばしば江戸へ行くことが多く、その際に俳諧を学んだ。芭蕉とは、その師同士がともに松永貞徳の門下であったので孫弟子同士、いわば従兄弟のような関係で旧知であった。芭蕉が訪れた当時、須賀川宿の問屋を営む傍ら今の市長にあたる駅長の要職を兼ねていて奥州俳檀の宗匠として活躍していた。現在、須賀川市本町にあるNTT須賀川の敷地一帯が住居跡だと言われている。

 可伸は、栗斎と号し、等躬屋敷の一隅に庵を結んでいて、この庵に「大きなる栗の木」があった。芭蕉が本文で書いたように、可伸は世を厭いでひっそりと暮らしていたが、皮肉なことに芭蕉の立ち寄りをきっかけに、この栗の木が有名になって、可伸自身も時の人となった。こうしたことへの戸惑いを表す句文が残っている。

「予が軒の栗は、更に行基のよすがにもあらず、唯実をとりて喰のみなりしを、いにし夏、芭蕉翁のみちのく行脚の折から一句を残せしより、人々愛る事と成侍りぬ。梅が香に今朝はかすらん軒の栗」。

 中世では集落単位で田植えが行われていて、田植え歌が歌われていたが、本百姓が家族単位で田植えをするようになってからは次第に歌われなくなり、江戸近辺ではすでに消えていた。それがみちのくに入ると、そういう光景が見られ歌声に接したので芭蕉には新鮮に感じられたのだろう。これが等躬への挨拶句「風流の初めやおくの田植え歌」になった。

本町NTTの近くの道路側にある軒の栗庭園。町内会の人達が設置したもので、近くには軒の栗通りなる道路もある。石像は等躬

庭園内にある芭蕉師弟の石像。

市内にはこのような紙芝居風の案内板が各所にある

市役所の駐車場の隅にある芭蕉記念館

可伸庵跡

記念館の「蕉翁、可伸を訪れる」のふすま絵

長松院

長松院にある等躬の墓

町中にある芭蕉史跡の散策イラストマップ

長松院の裏に、何だこれは、と思うような塔が建っている。観音寶塔とやらで塔の壁一面に般若心経の文字が一字ずつはめ込まれている

妙林寺。明治時代にこの寺の住職であった張堂寂俊(号を龍禅子または大龍という)は有名な書家

張堂寂俊が書いた中尊寺・金色堂の標柱のレプリカ

神炊館神社

参道にある芭蕉の「うらみせて涼しき瀧の心哉」の句と曾良の随行日記の諏訪明神参詣の条

乙字ヶ滝へ

 芭蕉は8日間の滞在中、寺や神社を回ったり、歌仙に招かれたり、芹沢の滝を見物したりした。またある日にはそば切りをご馳走になったりしたことが曾良の日記から判る。ある雨の日には杉風宛に手紙を書いた。芭蕉は黒羽からも手紙を出したようで、この須賀川からの手紙は黒羽以降の出来事やこれからの予定、自分も達者で健康には気を付けていること、また曾良も元気で貴方(杉風)のことばかり話していて、特に出立の際、見送ってくれたくれたことが誰よりもうれしくて、泣いておりますとも書いている。この手紙を見ると杉風の人柄が良く判るし芭蕉が本当に杉風を心から信頼していることが判る。「謎の旅人曾良」の作者、村松友次さんはこの手紙から深川からの出発はその筋からの達しで秘密裡に行われ、「むつまじきかぎりは宵よりつどひて舟に乗りて送る」とあるのは、実は杉風だけがこっそりと千住まで送ったのではないかと推測している。

 おくのほそ道本文には触れていないが、曾良の随行日記、俳諧書留に依ると芭蕉達は須賀川滞在7日目の4月28日(新暦6月15日)に郡山へ向けて出発の予定であったが、この日来訪した矢内彦三郎や等雲という人の勧めで、名所「乙字ケ滝(石河の滝)」に立ち寄ることにした。しかし降り続く雨のため水かさが増し、阿武隈川の徒渡りが難しいことから出立を翌日に延期した。

 翌日、快晴となったので等躬が用意してくれた馬に乗って乙字ヶ滝へ向かった。私も同じ道を辿るが、途中にある須賀川牡丹園にも寄ってみることにする。須賀川は牡丹の町としても有名、特にこの牡丹園は明和6年(1766)に薬用に植栽したのが始まりで、今や牡丹の古園として東洋一と言われている。

 また、昭和39年東京オリンピックのマラソンの銅メダリスト、円谷幸吉の生まれ故郷でもある。マラソンで3位だったばかりでなく、トラックの1万mでも6位入賞を果たした。しかしオリンピック後、前から悪かった持病の腰痛が悪化したり、ほぼ決まりかけていた婚約を「次のオリンピックの方が大事」と上官が認めず(自衛隊では結婚に上官の許可が必要だった)、結果的に破談となってしまい、これに抵抗したコーチの畠野洋夫が突然転勤になってしまって頼りになる人を失ったりと悪条件が重なった。一方で生真面目な円谷は周囲の期待に応えるため、オーバーワークを重ね、病状は悪化して手術し、一応は回復したがもう以前のように走れる状態ではなくなった。その結果メキシコオリンピックの年、1968年1月9日「幸吉はもうすつかり疲れ切つてしまつて走れません」の遺書を残しカミソリで左頚動脈を切って自殺した。家族への感謝と自身の苦悩を綴ったこの遺書の言葉は世間に大きな衝撃を与えたが、川端康成によって、「美しくて、まことで、悲しいひびきだ。千万言も尽くせぬ哀切」と評された。円谷も君原も私より2才上でほぼ同世代、当時私も一応長距離をやっていたので特に記憶が生々しい。

 須賀川市内で手に入れたパンフレットによると、乙字ヶ滝に向かう途中に円谷幸吉の生家があって記念館になっているとあったので該当の場所(大町の御嶽山神社の近く)を探してみるが見当たらない。近所の人に聞いてみると、以前そこにあったが文化会館に移設されたとのこと。3Kmくらい戻らなければならないそうなので諦めた。

 同じ円谷姓でゴジラをはじめ怪獣映画の特撮でお馴染みの円谷英二も須賀川の出身で、町中にモニュメントがあるそうだが、気付かなかった。どちらも通常「つぶらや」と読んでいるが当地では本来「つむらや」が正しいそうだ。

13:30 牡丹園。

15:00 乙字ヶ滝。ここからしばらく阿武隈川沿いのサイクリングロード、さらにJR水郡線に沿ってK141を歩く。

17:40 川東駅近くの孫八内というところに、神尾茂という戦前の朝日新聞編集局顧問で、日中友好に貢献したという人の顕彰碑があり、ちょっとした公園になっているのでここを借りて野営。

大町のポケットパーク「よってけ広場」にある

円谷幸吉の顕彰碑と写真

ここにも紙芝居案内板があった

須賀川の牡丹園。あまりたくさんあるので

どこを見ても同じ感じ

須賀川市と中国洛陽市は牡丹が縁で友好、交流を続けているが、その証として洛陽市の伝説美女、牡丹仙子をモデルにして建設された牡丹姫の像

乙字ヶ滝。滝と言うほどの落差はない

芭蕉と曾良の像。

かげ沼や軒の栗庭園にあった物とよく似ている

文化10年(1813)建立の句碑

「五月雨の瀧降りうつむ水かさ哉」

神尾茂顕彰碑の前で野営