https://takashikun.blogspot.com/2019/07/50.html 【奥の細道紀行 第50章 須賀川宿「結(ゆい)の辻」】 より
須賀川市街地の中心にある結の辻に立ち寄った。目的はそこに建っている芭蕉と曾良の像に逢うため。しかし遺憾なことに幾ら目を皿にして隈無く探索しても見当たらない。事情が有って撤去されたか。代わりに大きな案内板「芭蕉七泊八日の旅日記」を撮影。この旅日記とは「曾良の随行日記」を指す。
↑上段の抜粋「‥‥芭蕉は、みちのくの玄関口、白河の関を越え、途中、阿武隈川を渡り、磐梯山を仰ぎ見ながら、四月二十二日(陽暦6月9日)に須賀川に入り、かねてから親交のあった知人、相楽等窮宅に草鞋をぬぎ、八日間滞在しました。等窮は、須賀川宿の長であり、問屋業を営んでおり、須賀川俳壇の中心的人物でもありました。当時の須賀川は、奥州街道屈指の宿場町として経済的、文化的にも反映をきわめており、多くの俳人を輩出し、今もなお、俳諧文化が受け継がれています。」
☆中段・下段は曾良の随行日記本文とその現代語訳が掲示されている。煩を厭わず書き出すことにする。
〇四月二十二日(陽暦6月9日)須賀川に入った芭蕉たちは本町の相楽等窮宅にたどり着いた。その夜、芭蕉、曾良、等窮の三人による三吟歌仙の会をもうけた。芭蕉は、みちのく入りの感慨を込めた「風流の初やおくの田植うた」を詠んでいる。
〇四月二十三日(陽暦6月10日)夕方に等窮屋敷の一隅に庵を結ぶ隠遁僧・可伸を訪ねた。芭蕉は隠棲する可伸のつましい生き方に共感を持ち、翌日可伸の草庵で歌仙の会を催す約束を交わして、帰りに近隣の寺や八幡社などを参拝した。
〇四月二十四日 この日は、等窮宅の田植の日であった。昼過ぎより、須賀川の俳人たちが芭蕉たちを迎え、可伸の草庵にて七人による歌仙の会が催された。この歌仙で、芭蕉は「かくれ家や目だたぬ花を軒の栗」と発句を詠み、この句は後に「世の人の見付けぬ花や軒の栗」と推敲される。俳席のあと、等雲による蕎麦きりの振る舞いを受けた。
〇四月二十五日 二十五日は等窮宅の物忌の日で、飲食や動作を慎んで心身を清め、けがれにふれないように別におこした火を使用するのが習わしだった。
〇四月二十六日 小雨模様のこの日は、芭蕉は、江戸の杉山杉風宛に旅の状況を認めた書簡を送っている。
〇四月二十七日 二十七日は曇りであった。芭蕉、等窮、曾良による二つの「三つ物」(発句・脇句・第三句から成る)「四句」の俳席がもうけられた。その後、芹沢の滝を訪れている。
〇四月二十八日 二十八日は出発の日であったが、地元の俳人たちの勧めで、郡山への途次、石河の滝(乙字ヶ滝)に立ち寄ることにした。しかし、雨が降り続いていたために水かさが増し、川の徒渡りが難しいことから出立は翌日に延期された。同日、矢内彦三良宅に出向いて暮れ時まで過ごし、帰りに十念寺等、諏訪神社(神炊館神社)に参詣した。
〇四月二十九日 二十九日は快晴の空のもと、用意されていた馬にまたがり、等窮宅を後にした。途次、「乙の字」の形をなして勇壮に流れ落ちる乙字ヶ滝(石河の滝)を眺め、郡山へ向かった。
「五月雨の滝降りうずむ水かさ哉」
↓案内板に嵌め込まれていた芭蕉と曾良の旅姿図。渡辺光徳画。
〇以下、《曾良随行日記》に訪ねたことが明記されている①「芹沢の滝」、②「十念寺」、③「諏訪神社(神炊館神社)」、④「乙字ヶ滝(石河の滝)」の探訪記。
https://takashikun.blogspot.com/2019/07/51.html 【奥の細道紀行 第51章 ①芹沢の滝】 より
《曾良随行日記》『(四月)27日 ‥‥芹沢の滝へ行く』
芹沢の滝の探訪は難儀した。須賀川の郊外にあった。ごみ捨てに出てきた物知りの奥さんの懇切丁寧な説明を受けられなかったらとても到達できなかった。
↑「芹沢の滝跡 「おくのほそ道」の旅で松尾芭蕉と河合曾良の二人は、元禄二年四月二十二日(陽暦6月9日)須賀川に着き、相楽等窮宅に七泊した。歌仙を二巻まき、神社やお寺を参拝したが、四月二十七日には「芹沢の滝」を訪れた(曾良随行日記)。「芹沢の滝」は、丘陵地の小川が滝をなしている所で、芭蕉たちが訪れた日は、連日の雨で滝の水かさも多く壮観であったと想像される。「芹沢の滝」は、もともと現在の場所から、東南へ五十メートル程の場所にあったが県道改良工事のため、平成四年十一月に現在地に移設された。」
道とも思えぬ通路を行く。瀧の左に碑が並んでいる。
芭蕉句碑かと思ったが、仔細に検討すると違う。二句刻まれていて、右に「往古(いにしえ)の五月雨(さみだれ)の瀧これぞ此(これ)」とあり、どうやら十念寺に登場する多代女の作らしい。左の句は「五月雨を田に引(ひく)瀧の水かさ哉」とあり、清民の作。
「移築 芹沢の滝 この滝は、元禄二年(1689)「奥の細道」の途上当地に滞在した芭蕉が、曾良や土地の俳人と共に訪れた所であり、江戸末期の地元の女流俳人市原多代は、芭蕉が
《さみだれは瀧降りうづむみかさ哉》の句の発想を得た所だとも言っている。」
https://takashikun.blogspot.com/2019/07/52.html 【★奥の細道紀行 第52章 ②須賀川「十念寺」】 より
『曾良随行日記』『28日 発足の筈定まる。矢内彦三郎来りて延引す。昼過ぎより彼宅へ行きて暮に及ぶ。十念寺・諏訪明神へ参詣。‥』
芭蕉句碑 《風流のはじめや奥の田うゑ唄》
観音堂か?
お堂の前に江戸時代の女流俳人・市原多代女の辞世の句碑。「終(つい)に行く道はいづくぞ花の雲」。この多代女が芭蕉句碑を建立した。
東京オリンピック・マラソン銅メダリスト「円谷幸吉」氏の墓がある。彼は自殺した。
https://takashikun.blogspot.com/2019/07/53.html 【★奥の細道紀行 第53章 ③諏訪明神(神炊館神社)】より
須賀川市街地を走り回って諏訪明神(神炊館神社←「おたきや」と読む)発見。
↓「奥の細道碑」案内
↑「「奥の細道碑」について ‥‥‥「曾良随行日記」は、元禄二(1689)年、松尾芭蕉の「奥の細道」の旅に随行した弟子の河合曾良が書きとめていた日記。須賀川には四月二十二日から二十九日まで滞在しました。碑に刻まれているのは、二十八日諏訪明神に参詣した時の一節です。
「二十八日 発足の筈定まる。矢内彦三良来而(きたりて)延引す。昼過ぎより彼宅へ行而(ゆきて)及暮(くれにおよぶ)。十念寺・諏訪明神へ参詣。朝之内、曇。‥‥」
↓「宗祇戻(そうぎもどし)(柿衛文庫蔵)は、宝暦四(1754)年、白河の俳人和知風光が編集した俳句の本。挿図に松尾芭蕉の肖像と諏訪明神(神炊館神社)に奉納されていた芭蕉真筆の句として《うらみせて涼しき瀧の心哉》に説明を加えて掲載しています。」
https://takashikun.blogspot.com/2019/07/54.html 【★奥の細道紀行 第54章 ④石河の滝(乙字ヶ滝)】 より
『曾良随行日記』『(四月)廿九日 快晴。巳中尅(みのちゅうこく、午前10時頃)、発足。石河滝(を)見ニ行(此間、さゝ川ト云宿ヨリあさか郡)。須か川ヨリ辰巳ノ方(南東)壱里半計(ばかり)有。滝ヨリ十余丁下ヲ渡リ、上ヘ登ル。 歩ニテ行バ滝ノ上渡レバ余程近由。阿武隈川也。川ハゞ(幅)百二、三十間も有レ之。滝ハ筋かヘニ(筋変えにor筋交に)百五六十間も可有。高サ二丈、壱丈五六尺、所ニ より壱丈計ノ所も有レ之。』
〇阿武隈川唯一の滝「乙字ヶ滝(石河の滝)」に着いた。上流から見ている。
「乙字ヶ滝 那須高原に源を発する阿武隈川が滝をなし乙字の形をしている。水嵩が増した時は百メートルの滝幅いっぱいに落下する水しぶきは、松の緑に映えて雄大である。元禄二年(1689)松尾芭蕉が《五月雨の滝降りうつむ(埋む)水(み)かさ(水嵩)哉(かな)》
の句を残し、句碑は滝見不動の傍に建っている。昔は川を遡る鱒・鮎・鮭を城主に献上する御用簗場であり、また、阿武隈川舟運のため、滝の北壁を掘割りして舟を通した跡がある。‥‥」
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