12弟子と「ユダ」および「マグダラのマリア」


https://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2012-09-19 【「イエスの妻の福音書」】

一枚の色あせたパピルスにはイエスの妻への言及があった

(  「イエスの妻の福音書」

(一行目)「私にではない。私の母が私に生命をあたえた」

(二行目)「弟子たちはイエスに言った」 

(三行目)「否認する。マリアはそれに値する」

(四行目)「イエスは彼らに言った。「私の妻は…」」 

(五行目)「彼女は私の弟子になることができるだろう」

(六行目)「悪い人間は増長させておけ」

(七行目)「私について言えば、私が彼女と暮らしているのは・・・するためだ」

(八行目)「似姿」  )

ハーバード大学・神学大学院で初期キリスト教の歴史を研究している研究者が、4世紀にコプト語で書かれ「イエスは彼らに言った。「私の妻は…」」という聖書のどこにも見られないフレーズを含むパピルスの切れ端を発見した。

 色あせたパピルスの断片は名刺より小さく、虫メガネを使えば判読できる黒インクで書かれた文字が片側に8行にわたって並んでいる。イエスが妻をもっていることを記す行の下には、「彼女は私の弟子になることができるだろう」と書かれているという物議を醸しそうな別の一文が含まれている。

 この発見は火曜日にローマで行なわれたコプト語研究の国際会議でカレン・L・キング( Karen L. King)教授によって公表された。キング教授は福音書の新たな発見についての本を数冊出版し、アメリカで最古の寄付講座であるハーバード大学・神学大学院のホリス教授職に就いた最初の女性である。

 パピルス断片の由来は不明であり、その所有者は匿名を希望している。火曜日までに、キング博士はその断片をパピルス古文書学とコプト語言語学のごくわずかな範囲の専門家にしか見せていないが、専門家たちはそれが偽造ではない可能性が非常に高いと結論づけた。しかし、彼女と彼女の共同研究者は、もっと多くの学者が関与して、自分たちの結論を覆してくれることを熱望していると言っている。

 多くの問いが未解決の中、この発見は、イエスが結婚していたかどうか、マグダラのマリアがイエスの妻だったかどうか、イエスは女性の弟子をもっていたかどうかについての論争に再び火をつけることになるかもしれない。専門家たちによれば、こうした論争は、キリスト教が誕生した最初の数世紀にすでにあったという。しかし、世界中のキリスト教が聖職における女性の地位やどこまで結婚を認めるべきかという点で混乱している今日こそ、こうした論争は相応しいものなのだ。

 この議論は特にローマ・カトリック教会で活発だ。変化を求める声があるにもかかわらず、バチカンは、イエスによって設定された規範があるために、女性や既​​婚男性は聖職者になることはできないという教えを再三表明してきたからだ。

 キング博士はインタビューに応じ、先週の木曜日、ハーバード大学・神学大学院の最上階にある彼女の研究室で、ニューヨーク・タイムズ紙、ボストン・グローブ紙、ハーバード・マガジン誌に対して、ガラス・ケースに収められたパピルスの断片を公表した。

 彼女は、この断片が、歴史上の人物であるイエスが実際に結婚していたことを示す証拠として見なされるべきではないと何度も警告した。この文章は、イエスが生きていた数世紀後に書かれたものであるからだし、別の初期に書かれた、歴史的に信頼性のあるキリスト教の文献は、この問いには答えてくれないからだ、と彼女は言った。

 しかし、この発見は刺激的だ、なぜなら、それは、古代の文献としては、イエスが妻について語ることに言及している(知られている限りでの)最初のものだからである、とキング博士は述べた。それは、イエスが独身だったか結婚していたか、そして彼の信者はどちらの道を選ぶべきかについて初期のキリスト教徒の間で活発な議論があったことを示すさらなる証拠を提供しているのだ。

 「この断片は、初期のキリスト教徒のなかには、イエスが結婚していたという伝承をもっていた者たちがいたことを示唆しています」と彼女は言った。「以前から知られていたことですが、2世紀には、キリスト教徒は結婚してセックスをすべきかどうかについての論争と並行して、イエスが結婚していたかどうかをめぐる論争があったのです」。

 キング博士が「イエスの妻の福音書」と彼女が呼ぶものについて初めて知るようになったのは、ある個人収集家からのメールでそれを翻訳してくれないかと依頼を受けたときだった。キング博士(58)はコプト語文献の専門家で、ユダの福音書、マグダラのマリアの福音書、グノーシス主義、古代における女性についての書物を書いてきた。

 このパピルスの断片の所有者は、ギリシャ語やコプト語やアラビア語で書かれたパピルスを収集している人物で、氏名・国籍・居住地が特定されることを望んでいないのだが、それは、キング博士によれば、「このパピルスを買いたいという人々にしつこく追い回されたくない」からだという。

 この断片がいつ、どこで、どのようにして発見されたのかは知られていない。収集家が前のドイツ人の所有者から1997年に買い取った一束のパピルスの中に、この断片はあった。その束にはドイツ語で書かれた手書きのメモが付いていたが、そのメモは、今や故人になったベルリンのエジプト学の教授の名前をあげて、この断片をイエスが妻に言及するテクストの「唯一の例」と呼んでいる。

 所有者は2011年12月にハーバードの神学大学院にこの断片を持ちこみ、キング博士に預けた。3月になって、彼女はその断片を赤いハンドバックに入れニューヨークにやって来た。ニューヨーク大学の古代世界研究所の所長であるロジャー・バグノール(Roger Bagnall)と、プリンストン大学の宗教学の準教授であるアンマリー・ルイエンダイク(AnneMarie Luijendijk)という二人のパピルス研究者にそれを見せるためだった。

(  ハーバード大学・神学大学院の研究室で、4世紀にコプト語で書かれイエスの妻への言及を含んでいるパピルスの断片をかかげるカレン・L・キング教授  )

 彼らは鮮明なまま拡大してその切れ端を検討した。それは、わずか4×8センチのとても小さい切れ端だった。文字はにじみがあり不揃いで、素人の手になるものだったが、それは、多くのキリスト教徒が貧しく迫害されていた頃には珍しいことではなかった。

 それは、ギリシャ文字を使用するエジプトの言語の一つであるコプト語で書かれていた――もっと正確に言うと、エジプト南部の方言であるサヒド方言のコプト語だった、とルイエンダイク博士はインタビューで語った。

 これは多分本物だろうと彼らに確信させたのは、パピルスの繊維上のインクの褪色と、破れた端の曲がった繊維に付着していたインクの痕だった。裏面はとても薄れてしまっていて、「私の母」、「三つの」、「前にそしてそれは」という5つの単語しか読みとれず、しかもそのうち一つは部分的にしか読みとれなかった。

 「偽造するのは不可能でしょう」と、キング博士の論文にも貢献したルイエンダイク博士は語った。

 バグノール博士は、これを誰かが偽造したとすれば、その人はコプト語文法と筆跡学と宗教上の観念の専門家でなければならなかっただろうと推論した。彼がこれまで見たことのある偽物は、でたらめな言葉の羅列以上のものではなかった。もしこれがセンセーションを引き起こしたり誰かを金持ちにするために仕組まれた偽造であるなら、なぜこんなにも長い間世に知られずにいたのだろう?

 「誰かがこんな偽物を作ったというもっともらしいシナリオを作るのは困難ですね。ひねくれたパピルス古文書学者がこの世にいっぱいいるわけでもないですしね」とバグノール博士は言った。

 この断片はほぼ四角形になるように引き裂かれ、その結果、テクスト本文は隣接する上下左右の部分を失ってしまった――たぶん利益を最大化するためにもっと大きかった部分を細分化した業者の仕業だろう、とバグノール博士は述べた。

 それゆえ、文脈の多くは不明である。しかし、キング博士は「私の母は私に生命を与えた」や「マリアはそれに値する」という断片の中の一文に注目している。それらはトマスの福音書やマリアの福音書の一節に似ているからである。専門家によれば、これらの福音書は2世紀後半に書かれてからコプト語に翻訳されたようだ。キング博士は、この断片もまた2世紀のギリシア語のテクストから書き写されたものだろうと推測している。

 「私の妻」という言葉の意味に異論の余地はない、とキング博士は述べた。「これらの言葉が何か他のことを意味することはありえませんね」。「私の妻は…」の先の部分は切り取られている。

 キング博士はカーボン・テストを使ってインクの年代を測定することはしなかった。それをするには多くのものを削り取らなければならず、この遺物を破壊してしまうからだ。それでも、化学組成によっておおよその年代を決定できる分光法によってインクを分析する予定ではいるそうだ​。

 キング博士は論文を『ハーヴァード神学学会報(Harvard Theological Review)』に提出し、同誌は三人の学者に査読を依頼した。二人はその信憑性を疑問視したが、その二人が見たのはその断片の低解像度の写真だけだったし、パピルス古文書学の専門家が現物を見てそれを本物だと判断したことをその二人は知らされてなかったのです、とキング博士は語った。その二人のうちの一人は、文法と翻訳と解釈に疑問を呈した。

 エルサレムにあるヘブライ大学の著名なコプト語学者であるアリエル・シーシャ-ハレヴィー(Ariel Shisha-Halevy)にも査読が依頼されたが、彼は9月にメールで「私は――言語と文法に基づいて判断すると――このテクストは本物であると思います」と述べた。

 大きな疑問は和らいだので、『ハーヴァード神学学会報』は1月号にキング博士の論文を掲載する予定である。

 キング博士は、陰謀説をかき立てるのを避けるためにも、所有者に名のり出るよう説得するつもりだと述べた。

 イエスに妻がいたという考えは、ベストセラーで映画にもなった『ダ・ヴィンチ・コード』の中心をなす思いつきだった。しかし、キング博士は、暗号やその作者に関わろうとは思っていないと述べた。「せめてものお願いですが、ダン・ブラウンが正しかったことがこれで証明されたなどとは書かないで下さいね」。

http://www.ozawa-katsuhiko.com/08jesus/jesus_text/jesus07.html 【12弟子と「ユダ」および「マグダラのマリア」】より

歴史的にいうならば「イエス」を「神の子、救世主キリスト」としていったのは「弟子たちによる教団」であったということができます。

何故なら、彼らがそれを世界に流布しなければ、歴史的にイエスもキリスト教も小さな波風のように歴史の中に埋没して存在しなかったでしょうから。つまり、イエスが「救世主キリスト」となっていったのは、先ず第一にイエスの「教え、思想」があり、第二にそれを文字通り自分の人生として実践していた「イエスの活動」があり、この段階で多くの人々に「神のようなイエス」が実感され、それが弟子たちの場面で「復活のイエス」と理解されて、それがさらに教義として世の中に流布されていった、という経緯で「救世主、イエス・キリスト」が成立していったと考えられるわけです。

その使徒たちの宣教活動については「使徒言行録」が詳しく伝えてくれていますが、とりあえず、使徒たちはイエスの捕縛の段階で「みんな逃げていた」と福音書は伝えていました。

そして、「マグダラのマリア」を代表とする「女たち」だけが最後の最後までイエスを見守っていたことも福音書は包み隠さず伝えています。その女たちの知らせによって弟子たちはイエスの復活を知らされたとなっていました。

 この段階でようやく弟子たちは再結集してきたとなっています。

もっとも先に示しておいたように、「ヨハネ」での疑いのトマスだけではなく殆どすべての弟子たちは疑っていたとされていますが、ともかく再結集してきたようでした。

このあたりの経緯は歴史的には謎としかいえません。「何か」があったのだとしか考えられないわけで、通常それが「イエスの復活」として説明されるわけです。

そして、集まった弟子たちに「聖霊」が宿り、ここに強固な宣教の弟子たちの集団が形成されていったと「使徒言行録」は説明しています。

この宣教から「キリスト教団」というものが形成されていくことになるわけでした。

この章では、その弟子たちの紹介をしておきたいとおもいます。

ところで、イエスの活動時期というのは長く見積もっても2~3年とされますが、その間にイエスは精力的な福音の活動をしていきます。

その舞台はガリラヤ地方で、この時イエスはいわゆる12弟子といわれる人々を選び出し各地に派遣して自分の教えを広めさせていたと現行の福音書は伝えてきます。

何故12人であったかというとそれには理由があり、イエスが生まれたユダヤ(イスラエル)民族は12部族で形成されていたからです。イエスはその数に合わせることで、自分の活動が「ユダヤ教共同体全て」を対象としているということを示したと思われます。

12弟子

ただ、この12弟子というのはイエスの在世中はとても「できの悪い弟子達」として描かれています。

たとえばもっとも信頼すべき弟子であったペテロやヤコブ、ヨハネにしてもゲッセマネの園でイエスが苦しんでいた時、眠らずに居ろと命じられたのにぐっすり眠り込んでしまったり、イエスがユダヤ教の神官に捕まった時、イエスの弟子であることを疑われたペテロは三度もそれを否定していたり、あるいはいろいろと言い争っていたり、およそどの場面でも「立派な弟子」とは描かれていません。

それがイエスの昇天後となると人が変わってしまい、非常に立派な弟子達となっています。このギャップには驚かされるくらいです。

ただ実際歴史的事実としてこの弟子達はイエスの共同体を発展させていくのに成功しているわけですから、少なくともこの段階では立派であったと考えていいでしょう。

ちなみに、有名な「伝道師パウロ」はこの使徒達の時代に、天からイエスの声を聴いて回心した人なので生前のイエスは知りません。つまりイエスの直接的な弟子ではありませんでした。

また、「裏切りのユダ」は何故に裏切ったのかどうしても問題になってきますし、さらに福音書でも特別な存在として描かれている「マグダラのマリア」とは何者なのだという疑問も生じるのが普通ですので、ここでは彼らについても説明しておきたいと思います。

1、ペトロ

通常「ペトロ」といいますが、これは通称で「岩」という意味をもちます。本名は「シモン」といい、職業はガリラヤ湖での漁師でした。

一般にイエスの一番弟子ということになっていますが、別にイエスは弟子に順番など付けてはいません。

一番弟子とされてしまったのは、確かに現行の聖書においてのペテロの役割というのが中心的と見られるからです。

さらに、そう見られるところから後のカトリック教会が「ペテロの後裔」を名乗るようになって「第一の弟子としてのペテロ」が確立されていったものと言えます。

 カトリック教会がペテロを特別視したのは、ペテロに教会のカギが預けられた(イエスの言い方ではお前というペトロ=岩の上に教会を建てる)と伝えられているからでしょう(マタイ16.18f)。

こうしてペテロはローマ教会によって「ローマ教会の初代教皇」などということにされてしまいました。

もちろんペテロの時代にこんな「教皇の座」などというものは存在しません。

さらに、ペトロがローマで「逆さ十字架」にかかって殉教したというのも、「福音書」や「使徒言行録」には存在しないその他の様々の伝承も、ペテロの時代から100年くらいから数百年間の間にさまざまに物語が作られていった時代の物語といえます(たとえば『ペテロ行伝』など)。

2、アンデレ

これも通称で、ギリシャ語で「男らしい」といったような意味になる名前ですが、ヘブライ語の本名は記録されていません。伝承が福音書によって少し異なっていますが、通常ペテロの兄弟で同じく漁師であったとします。ヨハネ福音書では「洗礼者ヨハネの弟子」であって後にイエスに従ったとされています。

ペテロや次ぎに紹介するゼベタイの子ら共々イエスに特に親しい弟子の一人とされ、さまざまの活動がかたられています。

伝承ではギリシャのペロポネソス半島の北部に伝道しそこで殉教したとされます。今日でもその「パトラ」という大きな港町に「アンデレの記念教会」があります。

3、ゼベタイの子ヤコブ

12弟子にヤコブが二人いるのでこのように呼ばれます。

彼もガリラヤ湖の漁師であったとされます。その性格が激しかったため、弟のヨハネ共々「雷の子ら」と呼ばれたとあります。

ペテロたちと並んでもっとも信頼された近い弟子であったことが福音書の描写によって理解できます。

「山上での変容」や「ゲッセマネの園」など重要場面での登場人物となっています。

4、ヨハネ

 ゼベタイのヤコブの兄弟で同じく漁師であったとされます。

上記の四名がイエスにもっとも近い弟子達であったとされて、イエスが神性をあらわしたとされる「イエスの変容」の場面でも、「ゲッセマネでの祈り」の場面でも伴っていました(マルコ14、マタイ17、ルカ9)。

 ヨハネ福音書では「もっとも愛された弟子」となっており、イエスの十字架の時に弟子の中でたった一人だけ彼がいて、イエスから母マリアを託されたと語られてきます。

彼の名前を持った書として「福音書」と「黙示録」と「書簡」があり、ある意味でキリスト教徒にもっとも親しい名前となっていますが、ただし「使徒ヨハネ」と「福音書記者ヨハネ」「黙示録のヨハネ」「書簡集のヨハネ」とはそれぞれ別人と考えられています。

5、フィリポ

ギリシャ語で「フィリッポス」と発音されますが、意味は「馬を愛する者」という意味となります。

ヨハネ福音書で、イエスに向かって「父を見せて下さい」とたのみ、イエスから「私はこんなにもあなた方と共にいたのに、まだ私を知らないのか、私を見てきた人は父を見たのである」という有名なセリフを引き出している弟子です。

イエスに会いたがって来たギリシャ人をイエスに紹介したとありますが、「使徒言行録」でのサマリアへの伝道やエチオピア人の改宗をしたのもこの同じフィリポかと思われます。

小アジアのヒエラポリスで殉教したとされます。

6、バルトロマイ

 「トロマイの子」という意味になりますが、ヨハネ福音書で「ナタナエル」と呼ばれている人物と同じとされます。そうであれば上のフィリポによってイエスに紹介されたとなります。そういうわけで、常にフィリポに次いで名前が言及されてきます。

アルメニアで生皮をはがされて殉教したと言われます。

7、トマス

 一般に「疑いのトマス」とありがたくない名前で紹介されることが多いですが、これはイエスの復活についてそれを疑い、手に打たれた釘の跡、槍で突かれた脇腹の傷を自分の手で確認するまでは信じられない、と言ったという伝承に基づくものです。

8、マタイ

通常「徴税人マタイ」と言われ、ローマ帝国の下っ端役人でユダヤ人から忌み嫌われていた職にあった人物とされ、後にイエスに従ったとされています。

「マタイによる福音書」の名前と同じですが、両者は別人とされます。

9、アルファイの子、ヤコブ

もう一人のヤコブですが、上記のヤコブに比べてひどく影が薄く、そのためか「小ヤコブ」などと呼ばれています。

10、タダイないしヤコブの子ユダ

タダイは「マルコ」「マタイ」の二つの使徒表に名前がでているだけです。しかも、ルカには無く、代わりに「ヤコブの子ユダ」が載っています。詳細は不明です。

11、シモン

ペテロの本名と同じですが、こちらは「熱心党のシモン」と呼ばれます。熱心党というのは反ローマ帝国の急進的な活動をする集団を指します。これはイエスの弟子にふさわしくないということなのか、当時「熱心」という言葉の意味が「律法に熱心」という意味も持っ

ていたためこちらの「熱心のシモン」であろうと理解する解釈もあります。

12、マッティア

イスカリオテのユダが「裏切りとその死」によって抜けた後、11弟子たちが再結集してイエスを述べ伝える共同体を形成したときに、12に再編成するため選ばれた「新12弟子」となります。

13、イスカリオテのユダ

このユダというのは、イエスを裏切ってユダヤ教の神官たちに売り渡して十字架刑で殺させたその張本人としてキリスト教世界では「悪人の権化」のように扱われています。

しかし、表ではそうなのですが、実はその「イスカリオテのユダ」を巡っては裏では昔から議論が絶えなかったのです。

というのも、少しでもものを読める人なら、なぜユダは裏切ったのか疑問に思ってしまうからです。

現行の『聖書』の四つの福音書はいずれも、ユダが裏切ったその動機や理由について納得に足る説明をしていません。もちろん何も理由をいっていないわけではなく「金で売った」ということになっています(この説は「マタイ」の伝承で、「マルコ」もおなじ筋道と読め

る。しかし、「ルカ」と「ヨハネ」ではユダにとりついた「悪魔の仕業」とされる)。しかし「金ほしさ」であったとするなら、ユダはすぐに後悔して金を返しに行って首を吊ったとか(「マタイ」)、どうも釈然としません。

「ルカ」や「ヨハネ」のように「悪魔がとりついた」などという言い方は「理由がさっぱり分からん」といっているのに等しいです。

さらにここから、何故イエスは裏切を避けなかったのか、とも思われます。現行の福音書の語るところでは、イエスは裏切られることを事前に知っていて、それがユダであることもはっきり示しており、あまつさえユダに向かって、「あなたがしようとしていることをすぐ

にしなさい」とまで言っているのです(「ヨハネ」13.27)。

これは全く釈然としません。裏切りの犯人を知っていて、しかもそれを避けようとはせず、むしろ「促した」というのでは、「わざと裏切らせた」としか読めないからです。 さらにもっと突っ込むと、かりにもしユダが裏切らなければ、イエスの十字架はなかったことになってしまう、とも言えます。

そうなると「復活」もなくなって、イエスの神性は消し飛んでしまい、今日の正統キリスト教は土台から崩れ去ってしまいます。

まして後のキリスト教ではイエスの十字架での死を「人類の罪を背負っての贖罪」などと説明するのですが、これは何なのか、ということになってしまいます。

要するに、イエスが病気や老衰で死んだ、となったら「人類の罪をしょって死んだ」という「人類のあがない」がなくなってしまうわけで、どうしてもイエスは「十字架の上での非業の死」をとげなければならない、ということになるのです。

つまり、イエスが「キリスト」となるために「十字架刑」は「絶対必要条件」であったということです。

そういうことになると、この「絶対必要条件」は意図的に準備されなければならない、ということになるわけで、これはイエスの真実を見抜いていた者がイエスの指示の下でやったということになるであろう、という筋道になるわけでした。

こういうことになると、「ユダは裏切りの極悪人」という通常の解釈はどうも納得できないと思われても当然です。

そこには「何か」があるのではないか、と思うのが普通です。 

こうしてさまざまの解釈がされてきたし、現在もされているのでした。

それは表だっての神学論争とはなりませんが(やったら異端とされかねないから)、さまざまの文学や演劇に描かれてきました。

典型的なものとしてロックミュージカル『ジーザス・クライスト・スーパースター』などがあります。

そこでのユダはイエスに献身的な愛を捧げている弟子でした。

ボブ・デュランの「神が味方」という歌にも「君はやがて悟るだろう、イスカリオテのユダには、神が味方していたのだと」という一節があります。

こうしたユダに関わる正統教会の見解に逆らう見解をまさに支えているといえるのが最近復刻されて有名となった『ユダの福音書』になるのです。

ユダの福音書

ここでのユダは、12弟子の中でも唯一「真実のイエス」を理解している最高の弟子とされています。

ほかの弟子たちはイエスを理解できず、イエスの言葉に腹を立てまともにイエスの前に立つこともできなかったのに、ユダ一人だけが立つことができたのでした。

そしてイエスの来たところ、つまり神の国を言い当てたのもユダだけでした。

そのためイエスはユダだけに秘密の教えを授け、その上でユダに「裏切りを要請」し、自分の故郷なる神の国への帰り道を用意させることになるのでした。そして、イエスはユダに向かって、「おまえは皆にそしられ、迫害され、死んで他の者に12弟子の地位を明け渡すことになるのだが、すべての弟子を超えた存在となるであろう」と約束するのでした。

これなら、ユダの裏切りは納得できます。上に疑問としてあげておいたことがすべて解決されるからです。

それにも関わらず正統教会はこの見解を拒否するばかりか、これを憎悪してきました。180年代の有名なキリスト教護教家であるエイレナイオスは口を極めてこの『ユダの福音書』を攻撃し、さらに375年にはエピファニオスもこの書を攻撃しています。

ということは100年代から400年代にかけての初期キリスト教の時代、この書は多くの人たちに読まれ影響を与えていたということです。だから正統をもって任じている派は激しくこれを攻撃し、そして、結果的に勝ったというわけでした。

マグダラのマリア

「マグダラのマリア」についても、その後形成されていった主流のキリスト教会からは冷淡な扱いを受けています。

このマグダラのマリアというのはマグダラ地方にあった時にイエスから「七つの悪霊」を追い出してもらい(七つというのは黙示録的に理解すれば「全ての」となる)、それ以来イエスに付き従うようになったと言われている女性です。

ところが中世になって、正統カトリック教会はその彼女をルカ福音書での「遊女」の記事と「改悛した女」に結びつけ、マグダラのマリアは「遊女であったがイエスにより改悛した女」という伝承にしてしまい、13世紀以降多くの絵画の題材にされていきました。

つまり、罪深い着飾った髪の長い妖艶な遊女の改悛の場面、といった具合です。

しかしこれはこじつけであることは現代の聖書学者もすべて認めていることです。

しかしやはり、彼女はキリスト教世界では遊女あがりの女、というだけでの評価となってしまっているようです。

しかし、初期の時代にこのマグダラのマリアを中心に置く共同体があったということは『(マグダラの)マリアの福音書』という書が実在していることから確実だと思われます。

しかし、たくさんの共同体の争いの中で、結果的に正当教会となって勢力を張った会派によって多くの共同体は消されていったのです

が、その中にこのマグダラのマリアの共同体もあったと考えられます。ですから、勝ち残った共同体たるその後のキリスト教団にとっては、マグダラのマリアは「敵」ではあっても、評価できる人物とはならなかったわけでした。

さて、それではその「マグダラのマリア」とは何者であったか、ということですが、その位置づけについて『マグダラのマリアの福音書』は、先の『ユダの福音書』と同様のタッチで、「イエスの真実を知っていたのはマグダラのマリアだけであった」となります。

その主張の根拠は、現行の主流キリスト教会の用いている福音書ですら認めている彼女の特別な位置です。彼女はただ一人、どの福音書も認めている「イエスを見守っていた女性たちの代表」となっています。

そして、天使から「復活の告示」をうけるのも彼女が代表ですし、あまつさえ、復活したイエスが先ずその姿を現すのは彼女たちに対してだったと福音書は伝えているのです。

特に「ヨハネ」では、たった一人墓のところにとどまって泣いているマリアに対してイエスは現れ、「マリア」と呼びかけているのでした。

こんな事情であったとしたら、イエスはマリアを特別視していたと考えてもおかしくはないことになります。

こういったところから、実はマリアはイエスの妻だったのではなかろうか、という説まで出てくることになったのでした。

キリスト教会にとっては聞きたくもない話しになりますが、これにも根拠がありますので、それを紹介してみましょう。

イエスの妻について現行の『聖書』は何も言っておらず、独身とも妻帯とも言っていません。ですからどちらの可能性もあります。

つまり、どちらかで(たとえば「独身」で)あったという根拠も現行の『聖書』に求めることはできないのです。

それは思うに、福音書記者たちにとっては、イエスは「救世主キリスト」であったというその一点だけが問題であり、彼の人間としてのあり方などどうでも良かったからでしょう。

あるいは、当時イエスのような「教師」の立場にある者は妻帯しているのが当たり前であったから、当たり前のことをいちいち指摘することもしなかったし、またそんな私生活にかかわることは「救世主キリスト」を語る時全く不必要と考えられたかもしれません。

つまり、当時のユダヤ社会の常識的な習慣からすると「教師(ユ

ダヤ的にはラビ)」と呼ばれるためには「妻帯者」である必要があったとされているのです。

「独身の若造」では人を導く者たり得ないと考えられていたからでしょう。そうだとするとイエスも「教師」と呼ばれている以上妻帯していたと考えられます。

あるいは研究者によっては、ヨハネ福音書にある「カナの婚礼」の場面などイエスが「花婿」でなければ言ったり振る舞ったりすることのできないものがあるとも指摘されています。そのほか、イスエが妻帯しているとの前提でやっと理解できる行動がたくさんある、などとしてこんな具合にして「イエス妻帯説」を唱える人々は論を展開しているのでした。

もう一つ、イエスが妻帯している可能性について論じろと言われたならば、「外典」を用いるともっと早くなると思います。

この外典というのは現行の『聖書』に入れてもらえなかったキリスト教文書群で、はずされた根拠としては、勝ち残った正統教会とは別の共同体が大事にしていた文書であったから、と考えるのが一番分かりやすいですが、今日では聖書学者は「それらはグノーシス的であるから」という神学的根拠を示そうとしています。

実際、キリスト教の成立の初期の時代には、本来キリスト教とは無関係の思想であった「ギリシャ・マニ教的要素を持つグノーシス思想」がキリスト教内に入って大きな影響を与えていました。これは明確に「反ユダヤ教」的色彩を持ったものなので、「ユダヤ教主義」をとる、後の正統キリスト共同体には嫌悪された思想でした。そして「グノーシス派=異端」という評価が確立してしまったのでした。

しかし思想・歴史を問題にするという研究者的関心から見るならば、原始キリスト教の研究に正典も外典も全く同等の価値があると言えるのです。

我々の問題の場合、その使える外典は『マグダラのマリアの福音書』と『トマス福音書』と『フィリポの福音書』などになるでしょう。

これらの中でマグダラのマリアは特別に高い位置づけをもって語られています。『マグダラのマリアの福音書』はその名前の通り、彼女が「最大の弟子」であったという位置づけになっていることは先に示しました。

さらに、彼女がイエスの妻と解せる語句として明確な言葉を探すと『フィリポ福音書』の中に「マグダラのマリアはイエスのコイノーノス」であるという言葉が見られます。

コイノーノスというのは日本語的には「伴侶、パートナー」と訳せる言葉です。

そしてさらに、「イエスはマリアをどの弟子達よりも愛した、彼はしばしばマリアに口づけした」などといった文章が見られてきます。

これを神学的にこじつけて解釈してみてもはじまりません。文字通りに読んでおくべきでしょう。こういうことになると、マグダラのマリアがイエスの妻としてもあながち無理ではないように思えてきます。

他方、マグダラのマリアがイエスにとって特別な存在であったとしても、それでもイエスは「夫ないし男」として振る舞うことはなかったろう、という反論もありそうです。

キリスト教信者にとってはそうであって欲しいと願うところでしょう。

 しかし、これに関しても外典『トマスの福音書』の中に、女性はサロメという名の女性なのですが(この「サロメ」という名前もイエスの最後を見守っている女性たちの中に見えたことは先に指摘してあります)、イエスに向かって「あなたは私の寝台に上がり、私の食卓で食事をした」という語句が見られます。寝台に上がるとは何を意味しているのかは明らかです。つまり、イエスにも女性関係があったということです。

だとするなら、後にマグダラのマリアを妻としていても何ら不思議とは言えません。

そんなこんなで、マグダラのマリアは「イエスの伴侶、妻」となっていて、それゆえイエスは「教師」としての働きもできて、子どもを生んでいても不思議ではないという推定もされたりするのでした。

私達はこうした弟子たちの姿を通してイエスのあり方を見直すことができるのであり、そこには「生き生きと生きていた」、それだけに人々に「心を伝える」ことのできたイエスという存在をかいま見ることができるとおもうのです。