ザビエルのキリスト教布教の目的は日本占領である

ザビエルのキリスト教布教の目的は日本占領である

facebook・川上 直樹さん投稿記事

日本占領の意図をもってフランシスコ・ザビエルが1549年、日本に到着するとイエズス会士たちは"大名"と呼ばれる日本の貴族多数をキリスト教に改宗させた。 イエズス会士たちはそれから大名たちを扇動して何百という仏教寺院を破壊せしめ、さらに仏教の僧侶たちを虐殺させた。 しかし、神の子(イエス・キリストのこと)は、ひとりのプロテスタント派キリスト教徒の船長を皇帝の将軍の宮廷に送った。 ウイリアム・アダムスが、イエズス会士たちによって殺害されようとするその寸前に、将軍家康はアダムスを助け出した。 家康は十分な時間をかけてこの船員アダムスと会談し、アダムスの話を聞いた。 そこで家康はイエズス会の歴史が血にまみれていることを知った。 西インド諸島原住民皆殺し、そしてスペインにおける異端審問についても。 その結果、この英国人は、異例の恩寵を与えられ、武士に取り立てられた。 将軍家康は、そこで、イエズス会および彼らが構築したトレント公会議によって指導されるローマ・カトリック教会首脳部と法王の政治的行動計画に対して反撃することにした。 すなわち、「家康は、その治世の最初から、彼の帝国を組織し、統合するとともに、彼の権力を外国の陰謀家たちに適切に対抗できるように建設した。 1606年、彼はキリスト教布教活動禁止令およびキリスト教徒棄教令を公布した。 家康の言うキリスト教徒はこの場合、ヴォルテールの"その土地土着原住民の政府を打倒してそこに宗派的支配権を打ち立てることを合図とするローマの悪名高き陰謀システム"を意味する。」 徳川将軍がこの事情を理解したので、家康、秀忠、家光はイエズス会士とその手先たち、スペイン人、ポルトガル人を追放した、 プロテスタント派のオランダ人に1854年まで日本との貿易の独占権を与えた。 1614年、家康は、彼の嫡子秀忠の名において、"キリスト教"を非合法化し、イエズス会を追放する法律を公布した。 1622年、多数のイエズス会士が、国家反逆罪によって死に処せられた。 1624年、スペイン人、ローマ・カトリック教は、家光の命令によって禁止された。それはなぜか。 「切支丹(イエズス会)は、致命的に危険な教義を海外に広め、真実の宗教(仏教)を根絶し、(日本の)政府を打倒し、彼ら自身を全帝国(日本のこと)の主人たらしめるために策動して来た」 そして彼ら(イエズス会)の目標は何か? イエズス会の目的は、中国の征服以下のものではあり得ない。 そしてイエズス会の神父たちは、日本の支配者の車に乗って北京に入城する希望をずっと以前から抱いていた。 以下は『天皇のロザリオ』(鬼塚英昭著)から引用です。 イギリスの歴史家ジョージ・サムソン卿は『日本-文化小史』の中で、あるスペイン船長の話を書いている。 日本との取引交渉に難渋するスペイン船長に、日本人が「スペイン国王はどうしてこれだけの領土を支配できたのか」と質問した。 その船長は「簡単なことだ。原住民を改宗させるために宣教師を送り込む。改宗者が十分そろったところで軍隊を送り、改宗者が現地政権に反抗するようにしむける。 そしてスペインが占領するのだ」と答えた。 1549年にキリスト教を伝えるため来日したイエズス会宣教師フランシスコ・ザヴィエルの隠れた使命も、日本の占領にあったのでしょうか? 小岸昭(京都大学教授)の『十字架とダビデの星』の中に、ザヴィエルが描かれている。 「旧キリスト教徒の高位聖職者たちは、マラーノを正しい信仰に背いた「呪われた者」としてマラーノ憎悪を煽り立てていた。 大航海と植民の拡大政策による国家の経済的発展とともに、いちじるしく力をつけてきた信仰中間層を封じ込め、かつカトリック王国を宗教的に浄化する必要を痛感していたジョアン三世は、1536年、ついに異端審問所を開設するに至った。 この時、火炙りの刑に震えおののいた改宗ユダヤ人のなかに、祖国を脱出し、新天地たる黄金のゴアに向かう者が少なくなかったのである。」 小岸はマラーノについて、「追放か洗礼かを迫る十五世紀末の『ユダヤ教徒追放令』により、キリスト教に改宗したイベリア半島のユダヤ人たち、表面上には〈十字架〉に帰依するように見せかけながらも、心の奥底で密かに〈ダビデの星〉を信じ続けた彼らは、異端審問所の執拗な追及に怯え、『マラーノ』(豚)と蔑まれながらやがて世界中に離散していく。 ヨーロッパはもとより、ブラジル、インドへ…」と書いている。 ザヴィエルは、ポルトガル系のユダヤ人のマラーノである。 ポルトガル系ユダヤ人は香辛料や金銀を求めて、世界的な貿易に乗り出していた。 マラーノのザヴィエルは、イエズス会の会員にして貿易商人でもあった。 <中略> 『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』から彼の信仰と思想を見ることにしよう。 「神父が日本へ渡航するときには、インド総督が日本国王への親善とともに献呈できるような相当の額の金貨と贈り物を携えてきてください。 もしも日本国王が私たちの信仰に帰依するようなことになれば、ポルトガル国王にとっても、大きな物質的な利益をもたらすであろうと神において信じているからです。 堺は非常に大きな港で、たくさんの商人と金持ちがいる町です。 日本の他の地方よりも銀か金がたくさんありますので、この堺にポルトガルの商館を設けたらよいと思います。」 (『書簡集』第93、ゴアのアントニオ・ゴメス神父に宛てて、1549年11月5日、鹿児島より) それでは「書簡第九」を見てみよう。ザヴィエルが商人であることを知ることができる。 「それで神父を乗せて来る船は胡椒をあまり積み込まないで、多くても80バレルまでにしなさい。 なぜなら、前に述べたように、堺の港に、ついた時、持ってきたのが少なければ、日本でたいへんよく売れ、うんと金儲けができるからです。」 堺は十六世紀中葉、日本の商業の中心地であった。 ザヴィエルは1551年、堺に三万クロサド以上の財産がある商人たちは1000人以上いると推定した。 80バレルの胡椒は、インドで976クルサドの価であったが、日本に来ると三倍になった。 <中略> 「書簡第九十四」は、ヴァスコ・ダ・ガマの子のペトロ・ダ・シルヴァに宛てた手紙である。その手紙は次の文で終わる。 「もし、閣下が私を信頼してくださって、この地方に送る商品の管理を私にご一任くださるなら、私は「一」から「百」以上に増やすと断言します。」 こうしてみるとザヴィエルはポルトガルの経済戦略の先兵隊員ではあったようです。 そして、このザヴィエルが貿易の目玉としたのは、火薬の原料となる"硝石"でした。 「徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。(二版では憲兵命令で削られた) 「キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいばかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし。」 <中略> キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが天正少年使節団としてローマ法王のもとにいったが、その報告書を見ると、キリシタン大名の悪行が世界に及んでいることが証明されよう。 「行く先々で日本女性がどこまでいってもたくさん目につく。 ヨーロッパ各地で50万という。 肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。 鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。 ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている。」 (山田盟子『ウサギたちが渡った断魂橋』) キリシタン大名は、火薬一樽で50人を奴隷として差し出したとのことです。 また、キリシタン大名は、硝石欲しさに仏像や寺社の破壊も行ないました。 イエズス会のバテレンのルイス・フロイスの『日本史』の記述を読むと、大友宗麟の姿が見えてくる。この『日本史』は、1583年の秋からフロイスが編集した日本におけるイエズス会の布教の歴史である。 大友宗麟が織田信長に鉄砲や火薬を仲介する商人の姿が書かれている。宗麟は貴族の久我晴通に、禁裏(天皇)へのバテレン優遇の奏上を依頼している。 信長が仏寺破壊を行なって、フロイスは祝意を表明している。バテレンは宗麟にも仏像・寺社破壊を奨励した。 宗麟は1561年に宇佐八幡宮を焼いたのをはじめ、領内の仏像・寺社破壊をなした。1581年10月8日に、豊前彦山の三千坊といわれる坊舎を焼いた。 宗麟はヴァリニャーノに「このたびの勝利が、デウスの御業と司祭たちへの祈りの賜である」と伝えた。 その報酬として、イエズス会は宗麟の武器援助の要請に応じた。 さて、次に鹿島曻の『昭和天皇の謎』の中の一文を紹介する。 「ポルトガルとオランダが諸大名に火薬を売りつけたために日本は戦国時代になった。 信長のキリシタン擁護が腰砕けになったため、宣教師は明智光秀に新式火薬を渡して、信長殺しに成功するが、そのうち秀吉の鎖国政策を嫌った宣教師たちは朝鮮征伐には火薬を供給せず、そのために秀吉の外征は失敗に終わる。 しかし、このとき国内にいて火薬を温存させた徳川がのちに政権をとることができた。 家康は火薬の流入が日本に戦乱を引き起こしたことを十分承知しており、鎖国の狙いはキリシタン禁制そのものでなく、火薬流入の禁止であった。」 鹿島曻は、明智光秀が織田信長を殺したとしていますが、八切止夫はイエズス会が火薬で信長を吹っ飛ばしたとしています。 何故、神の使者であるはずの彼らが、このような残虐行為をおこなえるのでしょう? その答えは、次の逸話の中に集約させているように思います。 大航海時代の一時期、航海者たちはローマ法王に「異教徒は人間なのか」と問い合わせ続けた。 法王の答えは一定していた。 「殺すなかれという戒律はキリスト教徒だけに適用する」 実に恐ろしきは"一神教"の偏狭さ也、ですね。