http://tmtown.net/index.php/diary/24474/ 【水の都東京はなぜ消えたのか】より
徳川家康が築いた水の都
徳川家康が江戸幕府を開いて以来、江戸(東京)は「水上交通」の都市だった。その特集を先日NHKでやっていました。
NHKスペシャル | シリーズ 大江戸第1集世界最大!! サムライが築いた“水の都”
http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20180429
第1集 世界最大!!サムライが築いた“水の都”
2020年のオリンピック・パラリンピックを前に、国内外から熱い注目を集める東京。そのルーツの町「江戸」をめぐり、新たな発見や研究が相次いでいる。150年前、1868年にその名を失った“日本史上最大のロスト・シティー”江戸。その知られざる姿を、ドキュメンタリーやドラマ、高精細のCGなど、多彩な演出で描く3回シリーズ。
第1集は、巨大都市建設の物語。小さな田舎町だった江戸は、徳川家康が幕府を開いてから100年ほどで、世界最多100万の人口を抱える大都市に成長した。その原動力はどこにあったのか? 最近、江戸初期の都市計画を描いた最古の図面や、幕末期の江戸を写した写真が見つかるなど新たな発見が相次ぎ、その変遷が詳しく分かってきた。江戸は、水を駆使して造り上げた、世界に類をみないユニークな都市だった。巨大な“水の都”江戸誕生の秘密に迫る。
CGを駆使して、とてもわかりやすく作られておりました。続きが楽しみですが、第2集の予告がなかったということは、まだ取材も、CGもできあがっていないのか。どうなるのでしょう?
1800年頃、世界最大の年だった東京。
しかも、現在のような無機質なゴミゴミしている都市ではなく、水路が張り巡らされた生命感溢れる都市だった。もちろん当時ならではのゴミゴミで、その結果、度重なる大火で多くの人命も失われたのですが、それでも今よりは相当マシではないかと思います。
東京には、「橋」「堀」「川」を地名にもつ場所が多い。新橋、数寄屋橋、京橋、日本橋、八丁堀、外堀通り。これらの地名・道路名は、東京以外にお住まいの方でも、おそらく一度くらいは聞いたことがあるはず。でも、これらの場所に、今どこにも水はない。
数寄屋橋交差点
実はこのブログの前の前の前、まだブログではなく、普通のホームページとしてコラムを投稿していた時以来、「水の都・東京」は自分が密かに追い求めているテーマ。以前連載していたビジネス誌にも書いたことがあるのですが、改めて、「水の都・東京が消えた理由」を書き残しておこうと思います。
関東大震災によって破壊された水の都
江戸に幕府が設置され、徳川家康はもちろん独裁者ですから、都市計画もやりたい放題。江戸城(現皇居)の東側は、すぐ葦の生える入り江だったようで、これでは黒船から城を守れないと、次々と埋め立てていきました。
それが、八重洲であり、銀座、築地。当時は、船が大量輸送の手段ですから、その埋め立て地にも堀を作った。当時のお江戸は、結果的に水の都となった。
江戸時代は、「火事と喧嘩は江戸の華」の言われの通り、火事がしょっちゅうあった。火事があるたびに、江戸という街が、都市として整備されていきました。
ご存知「明暦の大火」では、今でいう千代田区、中央区、港区の大半が焼けてしまい、それ以来、大きな通りで街区を区切るようにして、その結果、火事が起きても、延焼が防げるようになったそうな。それでも、江戸の街の人口密度は、今の東京以上だったようです。
しかし、江戸から東京となり、大正末期、東京という街が、一瞬にして消えた。そう、関東大震災です。
多くの人に不幸をもたらした震災も、当時の為政者にしてみれば、「ゴミゴミした街を計画都市に変えるチャンス」だった。元東京市長だった内務大臣後藤新平は、大震災の翌日には、帝都復興計画を一人で練り上げた。
知っていましたか? 近代日本のこんな歴史 | 帝都再建 ~関東大震災からの復興~
帝都復興の時代 - 関東大震災以後 (中公文庫)
ただ、そんな壮大な計画は、資金難や地主の反対にあい、規模はみるみる縮小していった。東京の環八、環七などの環状道路は、すでにこの時代から整備計画があったのです。
この計画の絵図を見るたびに、これが本当に実行されていたらと思います。環八は、計画通りだったら、幅員100mの道路になるはずでした。計画された道路予定地は、当時田畑ばかりだったというのに……。
その反面、「自分が地主だったら、素直に従うか?」とも。自分が、今、土地を全く持っていないから、「そんなもん、すぐ差し出せよ」と思うのかも知れない。
再び完璧に破壊された東京
そして、再び東京という街が、焼け野原と化した1945年。この時までは、前述の川は埋まっていなかった。水質は、かなり悪化していたみたいですが、まだまだ水の都だったようです。
戦後計画された「東京復興計画」では、市街地の10%以上を緑化地域にするはずでした。道路の幅員も拡げ、そこを緑地帯とするはずだった。しかし……。
GHQの指示により、これらの計画は一気に縮小された。その理由は、
「敗戦国らしくない」から。
その一方で戦災からの復興計画では、実は、「河川を重視した計画」が立案されていた。
復興計画の中心人物だった石川栄輝は、「河川の沿岸を緑地帯にし、都民に大洋と空気を与える計画を立てた」(「この1冊で東京の地理が分かる」正井泰夫監修/三笠書房より)。さらに、戦後すぐは、陸上交通が混乱していたこともあって、むしろ水上交通を発達させようと、運河などを新たに作ったり、拡幅する計画もあったようです。
しかし、これらの計画も、猛烈なインフレに端を発する緊縮財政によって、大幅に縮小された。
それどころか、かの石川はGHQから、あちこちに大量に残っていたガラ(灰燼)の処理をする役割を負うことになった。そして……。
石川は、都心の川を、船の運航の役に立たない川と浄化の難しい川を「不要河川」として、「ガラで埋め立て、土地を造成し、それを売却して事業費に充てる」ことを考えてしまう。
そう、東京の「景観」は、この時を境に大きく変わってしまったのであります。
埋め立てられた東京の川
そして、1947年の外堀から順番に、お堀はすべて埋め立てられた。
(外堀通り)
あなたが、この石川氏の立場だったら、ガラの処理をどうしますか? 今だったら、トラックで何度も往復すれば、海に捨てることで問題ないでしょう。海に捨てなくても、埋め立て地に持っていけば、何とかなるはず。しかし、戦後すぐで、しかもコワイGHQから、「急げ」と命令されたら。
この時の、石川氏の判断を責めることが出来る人がいるでしょうか? 責められるどころか、資金まで生み出したのだから、誉められて当然でしょう。でも、石川氏も相当悩んだのではないでしょうか。河川を拡充しようとすら思っていた人が、埋め立てる役割を担わされるなんて。どう考えても、哀しすぎます。
マーケティングとは、基本的には人を喜ばせるために行うものなのだろうだけど、時として、こういうマーケティングをしなくてはならないこともある。その時には、何をどのように考えたらいいんでしょう?
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