風さんは蓮を寝せたり起こしたり

世間の風は自分のいろいろな側面を引き出し、気づかせてくれますね。


http://www.chikurinzan.info/ya-wa01.html  【ハスのお話し (その1)】より

3月の末に植え替えたハスは、今、浮葉(ふよう)を水面に浮かべています。ハスは、まず、浮葉で水深を確かめてから、1メートル以上になる長い葉柄をもつ水上葉を伸ばします。それが、おなじみの直径30~50センチにもなる円形のハスの葉です。

ハスは、その大きく優雅な花を鑑賞するために寺院、公園の池や堀に植えられて、各地にその名所がありますが、池のない小さな庭でも栽培・鑑賞することが出来ます。

ホームセンターなどによく置いてある衣装ケースで充分栽培ができ、立派な花も観賞できるのです。植え替えに際しても、衣装ケースごとひっくり返えせば簡単に作業ができます。

私の場合、衣装ケースではなく、大き目の野菜用プランターを使用してえいます。その方が見た目もよいし丈夫です。見た目は、焼き杉の板で衣装ケースを覆って風流に見せる方法をとっておられる方もありますが。

さて、ハスは古い時代から人間とかかわりが深い植物です。特にハスの花は仏教では「蓮華 」とよばれ、仏陀の誕生を飾った花とされています。仏典には、白、赤、青、黄色の蓮華が登場しますが、青色の花をつけるハスはなく、また東洋では黄色のハスは分布していないので、「蓮華」といってもハスだけでなくスイレンも含んでいるようです。

日本では仏花として寺院での法要や葬儀などに用いられますが、インドとスリランカではハスは国花であり、めでたい花として結婚式で飾られるそうです。

ハスが日本に自生していたかどうかは意見の分かれるところですが、更新世(170万~1万年前)の地層から果実の化石が発見されていることや、「大賀蓮」をはじめとする古代ハスや、各地に残っている地バスの存在、あるいはハスの古名ハチスが「万葉集」や「古事記」にも見られることなどから、かなり古い時代から日本にハスが存在していたことは確かなようです。

【ハスのお話し(その2)】 より

ハスの花は仏教のシンボルです。それは、ハスの花は、泥の中から出てくるのに、まったく汚れに染まっていません。もちろん、葉も茎も泥は付いていません。そして、泥の中にしっかりと根をおろしながら、きれいな花を咲かせるのです。

仏教では、泥水を煩悩や迷いの世界、私たちの社会・日常を喩え、そのような中に於いて真理を悟られ人々に正しい生き方を説かれたお釈迦様をハスの花に喩えています。

このことは、今自分のいる世界(場所・立場)から逃げ出して、別の所に理想を求めるのではなく、今いる場所・立場で精一杯励んで、なくてはならに人になる、その場で輝く人間になる、ことを教えているように思えます。

伝教大師は、そのことを「一遇を照らす、これすなわち国宝なり」と示しておられます。一隅とは、隅っこではなく、自分の居場所のことです。その場、その状況において大切な人間、なくてはならない人間であれ。周りの人々明るく照らすような人になれと。そのような人材が国の宝ですと述べられています。

 すぐには出来ないかもしれないが、あきらめないことが大切です。すなわちたくましさが必要。がんばらなくてはと思うとしんどいので、あきらめず信念をもって続けているうちに、ふと気が付くと自分の足元が以前よりずっと明るくなっている。自分から発する光で、他人の笑顔が照らし出されているのを知る。そうした時に人生の本当の喜びを感じるのではないでしょうか。

結果を直に求めてはいけません。そうすると不満や愚痴が生まれます。結果や評価は100年後にあるというたくましさと広く大らかな心持が肝心です。約2000年前の地層から発芽能力のあるハスの種子が発掘され、大賀蓮(おおがはす)として現在も栽培されています。そんなたくましさと他人への温かな配慮が今の社会に求められているように思います。

【ハスのお話し(金子みすゞ編)】 より

童謡詩人 金子みすゞの有名な作品に「私と小鳥と鈴と」がありますね。

紹介しますと、

私が両手をひろげても、おそらはちっとも飛べないが、飛べる小鳥は私のように、地面(じべた)を早くは走れない。私がからだをゆすっても、きれいな音は出ないけど、あの鳴る鈴は私のようにたくさんの唄は知らないよ。鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい。

人権学習や啓発資料でもよく取り上げられています。

さて、『阿弥陀経』というお経の中で、お浄土の荘厳の様子が述べられています。妙なる音楽、美しい鳥が飛び、天からは花びらが舞い、池にはハスが咲き誇っています。そのハスの様子を「青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光」と記されいます。

お浄土の世界では、青いハスの花は青いままに輝き、黄色のハスの花は黄色いままに輝き・・・・。それぞれ違う色の花が、違うままにそれぞれが美しく輝いています。その輝きにおいて等しく尊いのです。

私たちもそれぞれ違います。顔かたちもちがえば、能力もちがう。しかし、同じ人間として差は無い。等しく尊い存在です。

しかし、私たちは少しでも自分が得をするように、人より上にランクされるように、差をつけたがります。それがあるいは、私たちの向上心の源かもしれないけれど・・・。しかし、そこに繰り広げられる(展開される)醜い競争は、まことに痛ましいものではないでしょうか。。違いを見つけては、人をいじめ・攻撃し差別する・・・。仏教では「地獄」と言います。

それぞれ違ったままで相手を認め、それぞれを賞賛しあえる世界、それが、仏教でいう「浄土」なのです。。

では、違ったままで相手を認めるとは、どういうことしょうか。我々人間は完全無欠の人はいません。そもそも、出来ることと出来ないことがあるのが人間のありようでではないでしょうか。その出来る特有の能力や可能性こそ、個性と言えます。 それぞれ、ちがった能力や個性を発揮することこそが、命を活用すること、「生きる」ということです。

出来ることを通して、出来ないことを補い、出来ることによって欠けている能力を満たしてくるのが、縁のきずなに支えられている人間のあるべき姿ではないでしょうか。

「みんなちがって、みんないい」、「青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光」から、それぞれが個性を発揮することによって、命はすばらしく輝いていくにちがいない。それが「生きる」ということだと思います。

【ハスのお話し(ハスと神話)】 より

ハスは日本、中国、とりわけインドにおいて、ヨーロッパ文化圏でバラが占める象徴的役割をはるかに上回る重い意義を担っているのです。日本ではハスといえば仏教や極楽浄土を連想し、なんとなく抹香臭い、死後のイメージと結びついた花、と感じる人が多いかもしれません。

しかし元来インドでは、エジプトのスイレンと同じく、ハスは生命発生の母胎と観じられていて、その観念は古バラモン教、さらに後のヒンドゥー教の神話の中に反映されているのです。

「世界蓮」の神話

インドの最高神のひとりであるヴィシュヌは、原初の水の中で、大蛇を寝台として眠っていた。四千ユガ(宇宙世紀)の眠りの後、彼は創造の志を起こした。その意欲はハスの形(世界蓮=カーロ・パドマ)をとって彼の臍(へそ)から成長し、そのハスが開花するとそこにブラフマー(梵天=ぼんてん)が生じ、花の台(うてな)に座して天地万物を造化した。

この壮大な世界連の神話において、ハスは生命発生いや世界創生の神秘的ポテンシャルをもつ原初の植物なのです。仏教芸術で仏が蓮華座(れんんげざ)に座し、また日本の信仰深い仏教徒が死後に浄土におもむいて「蓮の台に生まれる」ことを切に願った背景には、こうした古いインドの神話があるのです。

 スイレンも、ハスと同じく宗教や神話との結びつきが深く、古来から様々な文化の中にしばしば登場します。

また、スイレンはアルカロイドを多く含み、古代エジプトやヤマ文明では、祭司が花を幻覚薬として用いたという記録があります。

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