http://hatutori.akiba.coocan.jp/4F/km02.html 【芭蕉、蕪村、一茶 日本の三俳聖
「日本橋に居住」の共通点】 より
松尾芭蕉、与謝蕪村、小林一茶!・・・・・。日本の3俳聖がそれぞれ江戸の中心、日本橋にいたことは知る人ぞ知るだろう。誹諧史に名を刻む3人の俳人はどんな暮らしをしていたのだろうか。「発句也松尾桃青宿の春」。この芭蕉の句碑は日本橋室町1丁目、通称むろまち小路の佃煮の老舗「日本橋鮒佐」の店先にある。桃青は芭蕉になる前の俳号だ。愛媛県産の「伊予の青石」に硬い石をプレートのようにはめ込んで句が彫ってあり、横に解説板が立っている。2000年10月にできた。石碑の建立までにはドラマがあった。
芭蕉は1672年(寛文12年)に誹諧師を目指して伊賀上野から江戸に下る。精進が実って宗匠になったが、1680年(延宝8年)冬、江戸郊外の深川に庵を結んで隠棲(いんせい)した。後世芭蕉庵と呼ばれる、この庵に移るまで日本橋周辺にいた傍証はあったが、証拠がなかった。その謎を解いたのが東京大学名誉教授で近世文学、特に誹諧が専門の森川昭さんだった。森川さんは旧東海道五十三次の40番目の宿場鳴海宿(現名古屋市緑区)の豪農、下里家(後に下郷家)の文書の調査を長年続けてきた。
歴代当主の克明な日記類など近世、近代の貴重な資料の宝庫だという。3代目から酒造業を始めて屋号を千代倉家としたので千代倉家文書と呼ばれる。森川さんは緑あって14代当主の下郷君雄さんの知遇を得て閲覧を許された。1969年(昭和44年)に調盃を始めた。膨大な文書を少しずつ読んでいく。興味津々。のめり込んだ。73年のある日、2代当主で誹諧に通じ、芭蕉とも交流があった知足が墨書したぼろぼろの草稿を見ていた森川さんは「あっ」と驚いた。知足が発句(第1句)を詠み、近在の俳話愛好者たちが詠み次いだ百韻(百句続きの連句)の写しだった。
末尾の余白に江戸8人、京都1人の誹諧師の所書きがあり、芭蕉の住所も記されていた。「小田原町小沢太郎兵衛店」とあった。小田原町は今の日本橋室町1丁目、店は貸家のこと。魚市場のすぐ脇で喧騒が聞こえてくる繁華な場所である。「同時代の人が残した住所が見つかったのは初めて。興奮した」と85歳の森川さんは振り返る。小沢太郎兵衛は隣町の本村町の名主で流行の俳著一派、談林派の俳人だ。芭蕉も談林派に心酔していた。太郎兵衛は芭蕉を買っていたのだろう、暮らしの面倒も見たようだ。
森川さんの発見は学界で評価され、その後の研究で芭蕉は1677年(延宝5年)ごろからは小田原町にいたというのが定説になった。学界以外には知られていないはずなのに、日本橋の有志が「街の誇りになる」と森川さんに連絡してきて住居跡の探索が始まった。99年のことで発見から四半世紀以上が過ぎて新たなドラマが動き出した。むろまち小路とまでは分かったが特定できない。「せめて通りに碑を建てたい」との要望に応えたのが日本橋鮒佐社長の宮内隆平さんだった。すべて自腹。
これが日本橋の底力だ。東大経済学部を出た宮内さんは国語が苦手だったが、芭蕉とはかすかな縁があった。「高校2年のとき、『奥の細道』の授業がとてもおもしろかった」と話す。「時折、拓本の依頼があり、訪ねてこられる人もいる。昨年オーストラリアから芭蕉ファンのグループが来ました」と宮内さんは芭蕉の人気に驚く。森川さんの発見は続く。冒頭の句はそれまで「発句なり芭蕉桃育宿の春」と伝承されてきた。松尾桃青と芭蕉桃青の違い、これが重要だった。
従来この句は深川で詠んだ新年の句で世間は華やいだ初春だが、私は質素な深川の庵で発句三昧だ、という意味と解されていた。ところが句から芭蕉が消えたことで、詠んだ時期が深川転居の前であることが有力になった。森川さんは「この句は芭蕉の宗匠としての独立宣言」とみる。誹諧の宗匠が独立することを立机と呼ぶ。芭蕉の立机には延宝5年説と延宝6年説があり森川さんは6年説を採る。
立机して初めて迎えた延宝7年の新春、門弟たちを日本橋の仮寓に集めて「これから宗匠として発句を詠むぞ」と気概を込めて詠んだ1句なのだ。七の森川さんの解釈も研究者に広く支持されている。この句も千代倉家文書で確認された。やはり2代目当主の知足が書き写した延宝7年の歳日一帳にあった。歳日一帳とは新年の句を集めた書物で、名古屋内外の5派の俳人たちの句を写していて、付録の形で江戸の俳人たちの句も載っており、芭蕉の「発句なり」の句もあった。日本橋で詠んだとされる芭蕉の1句を巡る物語に俳話の奥深さと面白さを実感して長く行数を費やした。おかげで蕪村と一茶が書き切れなくなった。この2人の俳聖と日本橋のことは次回書く。
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