https://blog.goo.ne.jp/blue1001_october/e/c7547734ccd41a538fa65ba4220091a0 【窶(やつ)しの美学─芭蕉の歌仙を読んで text 214】
第7回「ぶるうまうんてん歌仙の会」が、6月5日(土)午後1時から、大磯町立図書館で行われた。この歌仙の会は、基本的に二部構成。一部が芭蕉の『おくのほそ道』における歌仙を一つずつ精査し、二部が歌仙実作。すでに第6回(2010年4月29日実施)で、芭蕉の出立直前(元禄2年/1689年2月7日)、大垣藩士津田嗒山の江戸旅亭で巻かれた「かげろふの」の巻を一句ずつ学び、第7回は「秣追ふ」の巻を、参加者全員で学習した。『おくのほそ道』の出だしをざっと復習してみよう…。同年3月27日朝、深川から出船し、千住に行く。芭蕉46歳のときである。3月27日は、太陽暦(グレゴリア暦)で、5月16日(月)。深川→千住→草加→越谷→春日部(粕壁)というのが、当時の宿駅であったので、芭蕉と曾良もこのコースを辿った。春日部から杉戸→幸手の各宿場を経て、栗橋の関所にかかる。栗橋は江戸幕府の関所の中でも要所であった。芭蕉と曾良は、「手形モ断(ことわり)不入(いらず)」に何とかそこをクリアする。
芭蕉と曾良はその後、中田→古河→野木を経て、栃木県の小山市間々田町へ行き、そこで一泊。春日部より9里(約36キロ)で、当時の1日の旅程としては一般的であるらしい。やがて日光街道から室の八島(栃木県栃木市惣社町の大神神社)へ。大神神社は「おおみわじんじゃ」と読む。「室の八島に詣す。同行曾良が曰『此の神は木の花さくや姫の神を申て富士一躰也。…』」と芭蕉に薀蓄を傾けている様子が『おくのほそ道』に書かれている。曾良が旅に携行していた「名勝備忘録」には、室の八島が二首の古歌とともに記されているので、得意になって、芭蕉に語ったものと思われる。二人の旅は、ある意味で「歌枕」の旅であったけれど、室の八島は、それの最初である。この日、鹿沼に泊る。4月1日、鹿沼を出発し、日光に到着。
日光では裏見の滝、含満が淵などを見学して、二人は那須黒羽を目指す。鉢石を出発して瀬尾、川室、大渡を経由して玉生に宿泊。4月4日には、黒羽の大関藩家老の浄法寺図書(ずしょ)に招待される。図書は桃雪という俳号を持ち、「秣負ふ」の歌仙を巻いた一人。連衆翠桃の実兄である。七吟歌仙は、4月上旬から中旬にかけて行われたが、その間芭蕉たちは雲厳寺(大田原市)、玉藻稲荷神社(同)、那須神社(同)などを巡る。この間、二人は桃雪、翠桃兄弟の歓待を受け、結局兄弟の家を中心に、14日間滞在する。一説によると、兄の桃雪が29歳、弟の翠桃が28歳であったという。大関藩の公務で江戸に来たおり、芭蕉の弟子になったとものと推察されるけれど、それにしても、二十代の若さで、半月近く芭蕉と曾良の面倒を見ることのできる、浄法寺兄弟の器量の大きさは、現代ではとても考えられない。
芭蕉は僧衣を着用した漂泊のスタイルで、『おくのほそ道』を行脚したけれど、実際はマネージャー役の曾良と綿密な連係をとって、各地の弟子筋を事前調査して、抜け目なくアポンイントメントをとっていた節がある。芭蕉の江戸での弟子は、江戸在住の地元俳人のほかに、今でいう地方行政の高官や実業家の素封家が多く、それなりの歓待をしてくれるのを目論んでの旅路であったと考えられなくもない。しかし、桃雪、翠桃の二人の名前は、定評のある高木蒼梧の『俳諧人名辞典』(厳南堂)や松尾靖秋の『俳句辞典・近世』(桜楓社)のどちらにも立項されていない。わずかに櫻井武次郎の『奥の細道行脚─曾良日記を読む』(岩波書店)に、どういう家柄の者か書かれているので、それを転写してみよう。ちなみに櫻井武次郎氏は、1996年に大阪市内で芭蕉の自筆本を発見した人だが、2007年1月22日に、筋萎縮性側索硬化症(ALS)で惜しくも死去された。67歳だった。
「当時、黒羽の藩主は大関信濃守増恒。元禄元年十二月十三日に領主の大関増栄(ますなが)が亡くなったが、嫡子の増茂が既に没していたため、嫡孫増恒が後を嗣いでいた。しかし、まだ四歳であったために江戸屋敷に居て、国家老の浄法寺図書高勝が藩政をとりしきっていた。高勝は鹿子畑高明の長男だったが、母の出の浄法寺家の養子となって後を嗣いだ。高明は寛文七年(1667年)に事情があって藩を追放されており、そのためであろう。鹿子畑家は、高勝の弟の豊明の代になって、帰参がかなったが、鹿子畑の姓をはばかって豊明も、同姓を称していた。図書高勝は俳号を秋鴉(芭蕉と会った機会に桃雪の号を得たか)、豊明は俳号を翠桃という。(略)。 翠桃は、嵐雪の歳旦集『若水』(貞亨五年)に発句とともに歌仙三巻にも出座していて、以前から出府する機会があったのだろう、翠桃という俳号も、『桃』の字から芭蕉の命名であった可能性が高い。」(櫻井武次郎『奥の細道行脚─曾良日記を読む』(岩波書店・22ページ)。
秣負ふ人を枝折の夏野哉(芭蕉)
青き覆盆子(いちご)をこぼす椎の葉(翠桃)
村雨に市のかりやを吹きとりて(曾良)
町中を行川音の月(ばせを)
箸鷹を手に居(すゑ)ながら夕涼(翠桃)
秋草ゑがく帷子はたそ(曾良)
ものいへば扇子に皃をかくされて(ばせを)
寝みだす髪のつらき乗合(翅輪)
尋ルに火を焼付る家もなし(曾良)
盗人こはき廿六(はたむり)の里(翠桃)
松の根に笈をならべて年とらん(ばせを)
雪かきわけて連歌始る(翠桃)
初折の表6句と同裏6句を引いてみた。翠桃4句と圧倒的に翠桃の句が多いのに気付く。さて歌仙全体を通して、登場人物は「秣負ふ人」「盗人」「尼」「狩人」「落武者」「乞食」「流人」など、世の尋常世界からは遠く離れた人がたくさん出てくるのには、驚きの念を禁じえないし、それがまたたいへんな魅力でもあろう。これは、いうまでもなく窶しの美学がその底に滔々と流れる、芭蕉歌仙の底知れない面白さでもあるにちがいない。写真は、大磯海岸のハマヒルガオ。5月中旬ごろから6月にかけて咲く。初夏の大磯の浜辺を彩るハマヒルガオの花ことばは、「絆」とか。サンテグジュペリの『星の王子さま』に出てくる「アプリボアゼ」(Apprivoiser/絆をつくる)と合わせて、いつも私はハマヒルガオの可愛らしい花を見つめるのである。
http://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/2014/03/post-2226.html 【かげろふの我が肩に立つ紙子哉 芭蕉 元禄2年2月7日=1689年3月27日 作】 より
本日二〇一四年三月二十七日(陰暦では二月二十七日) 元禄二年二月 七日
はグレゴリオ暦では 一六八九年三月二十七日である(この大きなズレはこの年が閏年で一月が二回あったことによる)。
★注:今回より単純な現在の当日の陰暦換算の一致日ではなく、実際の芭蕉の生きたその時日の当該グレゴリオ暦との一致日にシンクロさせることとする。その方が、少なくとも季節の微妙な変化の共時性により正確に近づくことが可能だからと判断したためである。例えば、今年の陰暦二月七日はグレゴリオ暦三月七日で一六八九年三月二十七日とは二十日もズレてしまって、明らかに季節感が違ってくるからである。
元祿二年仲春、嗒山旅店にて
かげろふの我が肩に立つ紙子哉
[やぶちゃん注:元禄二(一六八九)年、芭蕉四十六歳。同年二月七日の作。
「仲春」は陰暦二月の異名である。「嗒山」は「たふざん」と読む。新潮日本古典集成「芭蕉句集」の今栄蔵氏の注によれば、大垣の俳人で大垣藩士であったかとし、『その江戸滞在中の旅亭で』曾良や此筋(しきん)らと『巻いた七吟歌仙の発句。真蹟歌仙巻二に「元禄二年仲春七日」と奥書がある。真蹟句切には「冬の紙子いまだ着がへず」と前書』がある、とする(下線やぶちゃん)。脇句は曾良の、 水やはらかに走り行(ゆく)音
である(歌仙を巻いた連衆と脇句は山本健吉「芭蕉全発句」(講談社学術文庫二〇一二年刊行)に拠る)。
「紙子」は「かみこ」と読み(「紙衣」とも書く)、紙子紙(かみこがみ:厚手の和紙に柿渋を引いて日に乾かしてよく揉み和らげた上で夜露に晒して臭みを抜いたもの。)で作った衣服のこと。当初は律宗の僧が着用を始め、後に一般に使用されるようになった。軽くて保温性に優れ、胴着や袖無しの羽織に作ることが多かった。かみぎぬ。特に近世以降は安価ことから貧者の間で用いられた。現在は冬の季語とされるが、本句の場合無論、季詞は「かげろふ」(陽炎)であって春である。
芭蕉は凡そ二月前(六十六日前。冒頭に記した如く、この年は閏一月があった)の当年の歳旦吟として、やはり知られた、元日は田ごとの日こそ戀しけれを詠んでおり、同じくその正月早々に去来に送ったともされる文(この確かな確証はないが)には、おもしろや今年の春も旅の空 と記し、やはりこの時期に門人に名所の雑の句のあり方を説いた時に示したとされる句には(新潮日本古典集成所収。但し、この句、他では掲げぬものも多い)、
朝夜(あさよ)さを誰(たが)まつしまぞ片心(かたごころ)と詠んでもいるとされる(「片心」は片思いの意)。
本句を読んだ八日後の二月十五日附桐葉(熱田門人)宛書簡の中には、拙者三月節句過早々、松島の朧月見にとおもひ立候。白川・塩竃の櫻、御浦(おうら)やましかるべく候。
と綴ってもいる。
――元日から前年秋の越人との木曽路の旅を思いやっては、その旅心のままに想像の、「田毎月」ならぬ「田毎の初日」の輝きを恋慕い、――去来には俳言もない子供染みた手放しの旅情を知らせ、――遂には掛詞で松島を詠み込んで、あからさまにそのそぞろ神に惹かれるおのが旅心の切ない恋情を歌っては彷徨の先をはっきりと詠み込んでいる。――そこにあるのは「片心」の狂おしいまでの旅に誘(いざな)われる芭蕉の魂であり、それは遂に芭蕉の身からあくがれ出でて、自身の春立つ旅立ちの日の、その後ろ影に立つ陽炎さえも、幻視するに至るのである。――
……では御一緒に……芭蕉とともに……奥の細道の旅へ旅立たんと致そう……]
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