ドナルド・キーンの『俳諧入門』③

https://yahantei.blogspot.com/2012/10/  【ドナルド・キーンの『俳諧入門』】より

ドナルド・キーンの『俳諧入門』(その四)

第6 松尾芭蕉

ドナルド・キーンは、小西甚一著『日本文学史』の解説において、次のような一文を寄せている。

「『日本文学史』の最も有名な部分は、恐らく日本文学における『雅』と『俗』の分析であろう。序説の中にも『完成』と『無限』という二つの極に対する憧れを芸術の世界で考えると、〈前者を『雅』、後者を『俗』とよぶこと」にされたと説明されている。また、〈かような雅と俗との性格を、日本における表現の世代に当てはめるならば、古代は俗を、中世は雅を、近代は別種の俗を、それぞれの中心理念とし、大きく三分されるように思うのである〉と述べられる。これは示唆に富む観察であり、小西先生の俳諧文学論の特徴を為す。」

このことを、さらに、小西甚一のその著によれば、「雅」と「俗」との混合態としての「俳諧」という概念を認めており、中世から近代の過度期として近世という名称を与えることもできそうだとし、それは、俳諧の世代だとしている。

そして、小西甚一命名の「俳諧の世代」のチャンピオンが、それがまさしく、松尾芭蕉(1644~1694)、その人ということになろう。

芭蕉は生前すでにして偶像であった。旅する先々で多くの人々の注目と関心を集めた。そして、その芭蕉の旅は、新しい句風の樹立の旅でもあった。その生涯にわたる芭蕉の旅は、後世に五つの紀行文を残した。それは、・『野ざらし紀行( 甲子吟行・かっしぎんこう)・1 6 8 4 』、・『鹿島詣( 鹿島紀行)・1 6 8 7 』、・『笈の小文( 卯辰紀行・芳野紀行)・1 687』、・『更科紀行・1688』そして・『おくのほそ道・1689』の五つである。

ここで、便宜上、芭蕉の生涯を、・『野ざらし紀行』以前、・「『野ざらし紀行』から『おくのほそ道』まで、・「『おくのほそ道』以後の三期に分け、その句風の変遷の跡を追ってみよう。

1 『野ざらし紀行』以前

1 春や来し年や行きけん小晦日(こつごもり)

Has the spring come

Or has the old year departed?

The night before New year’s Eve.

今日知られている芭蕉最初の句で、1 6 6 2 年、芭蕉の1 8 歳の作品である。芭蕉は、この頃、彼最初の俳号の宗房を名乗り始めている。古今和歌集の「年の内に春はきにけりひととせをこぞとやいはん ことしとやいはん」の詞と詩想に基づくもので、貞門俳諧の技巧性が色濃く見受けられる句である。

2 姥桜咲くや老後の思ひ出(いで)

Old---lady cherry blossoms------

Have they flowered? A final

Keepsake for old age.

1664年に刊行された松江重頼編の『佐夜中山集』に収録された芭蕉の一句である。姥桜は葉の出ないうちに咲く花で、その「葉なし」を姥の「歯なし」に掛けている。詞は謡曲の『実盛』から来ている。これもまた貞門俳諧の流れの句である。

3 梅の風俳諧国(こく)に盛んなり 信章(素堂)

A plum---scented wind

In the land of haikai

Blows triumphant.

4 こちとうづれも此時の春 桃青(芭蕉)

Even for the likes of us

This is the spring of the age.

1 6 7 6 年の山口素堂と行った連句両吟であり、二人は既に談林の新風下にあったことを物語っている。梅は、「梅翁」で知られている宗因であり、・の素堂の句は、談林俳諧の伸長を宣言するものであった。・の芭蕉の句は、その素堂の付句で、「こちとうづれ」は「こちたちづれ」の転化で、「自分たちのような者」と卑下した言葉で、当時の芭蕉の談林俳諧との関わりが見えてくる。当時、まだ、芭蕉の号は見られない。

5 芭蕉野分して盥(たらひ)に雨を聞夜(きくよ)哉

Bash0 tree in the storm------

A night spent listening to

Rain in a basin.

芭蕉が江戸に出てきたのは、1 6 7 2 年、2 8 歳の時であった。そして、宗匠として一家をなしたのは、1 6 7 7 年の頃であり、その最初の門弟に、宝井其角・服部嵐雪・杉山杉風らの名が上げられる。その杉風の深川の下屋敷に移ったのは、1 6 8 0 年のことであり、門弟の李下が、この杉風の下屋敷に、一株の芭蕉を贈った。実を結ばない芭蕉の木は、わずかな風にも裂ける葉の故に、繊細な詩歌の心を象徴するものとして珍重されていた。この芭蕉の木が生い茂り、この深川の閑居を門弟達は芭蕉庵と呼ぶようになり、1682年頃から、芭蕉という号が使われだした。

この句は、1681年の頃の作で、当時の芭蕉庵の情景をよく写している。上五の字余

りは、芭蕉がなお談林風の影響下にあったことを物語っているが、談林風の笑いの裏面としての人生の侘しさという面に芭蕉の関心が移ってきていることを伺わせる句である。

6 かれ朶(えだ)に烏のとまりけり秋の暮

On the wintered branch

A crow has alighted------

Nightfall in autumn.

1681年の池西言水が撰んだ『東日記』の中の一句である。中七の句形は談林風の影響を宿しているが、水墨画などの「寒鴉枯木」という主題を、十七字で見事に言い現している。「枯枝に下りた烏は瞬間の観察であり詩中の『いま』であり、それは静寂のうちに迫りくる秋の夜のとばりへ向かって等号を引かれている。枯枝と烏は、助け合って互いにその心象を明確にしているが、照応は単なる修飾のためにあるのではない。一致して、時の中にありながら時を超えた瞬間を創造するための照応なのである。」(ドナルド・キーン)

1 6 8 3 年、蕉門最初の撰集である其角の『虚栗( みなしぐり)』を刊行する。芭蕉は、その跋文において、集中の句が、その風体において「李杜が心酒を甞(なめ)て、寒山が法粥(ほふしゅく)を啜(すす)る」ものであり、侘ひと風雅においては、「西行くの山行をたづね」また「白氏が歌を仮名にやつし」たものと自薦している。

これら、『東日記』(1680年)、『俳諧次韻』(1681年)そして『虚栗』に至る撰集は、著しく漢詩的情趣に傾斜した句風で、芭蕉の「虚栗調時代」といわれている。

ドナルド・キーンの『俳諧入門』(その五)

2 『野ざらし紀行』から『おくのほそ道』まで

1 野ざらしを心に風のしむ身かな

Bones exposed in a field------

At the thought,how the wind

Bites into my flesh.

2 秋十(と)とせ却而(かへって)江戸を指ス故郷

Autumn・・this makes ten years;

Now I really mean Edo

When I speak of‘home.’

3 猿をきく人すて子にあきのかぜいかに

What would poets who gived

To hear monkeys feel about

this child

In the autumn wind?

4 馬に寝て残夢月遠しちゃのけぶり

I dozed on my horse------

Half in dreams,the moon distant;

Smoke of breakfast tea.

5 手にとらば消(きえ)んなみだぞあつき秋の霜

Taken in my hands it would melt,

The tears are so warm------

This autumn frost.

6 道のべの木槿(むくげ)は馬にくはれ鳧(けり)

Mallow flower

By the side of the road------

Devoured by my horse.

7 死にもせぬ旅ねの果(はて)よ秋のくれ

I haven’t died,after all,

And this is where my travels

led------

The end of autumn.

1 6 8 4 年から8 5 年まで九ヶ月のあいだ、江戸を出て伊勢・伊賀・大和・山城をめぐり、近江から尾張に至ったこの旅は、その要点だけを記した短い紀行文にまとめられる。刊本として世に出たのは1689年、芭蕉の死後であった。これが、『野ざらし紀行(甲子吟行)』である。

「野ざらし」のいわれは、冒頭の1 の句によっている。1 の野ざらしの句では、芭蕉は路傍に行き倒れて白骨をさらすわが身を思って戦慄する。2 の句では、1 の前句の感情を殺しながら、すでに十年を暮らした江戸を郷里とも思う気持が述べられている。

『野ざらし紀行(甲子吟行)』の全体の調べは、主題そのものが唐宋詩文から採られたものや、故事に合わせて整えられてものが見られるなど、漢詩文の徹底的な影響下にある。3 の句は、空虚をかきむしる「猿嘯哀」の、唐詩などによく使われる主題である。「どれほど悲痛な猿の泣き声でも、貧しさのゆえに子を捨てねばならなかった人の親の苦痛にくらべようもない」という句意であろうか。

4 の句は、もっとも明瞭に漢詩の影響が見てとれるものである。晩唐の詩人・杜牧(803~852年)の次の五言律詩「早行」の中の一節に基づく連想であろう。

乗鞭信馬行 鞭を垂れ馬に信(まか)せて行く

数里未鶏鳴 数里 未だ鶏鳴ならず

林下帯残夢 林下 残夢を帯び

葉飛時忽驚 葉飛んで時に忽ち驚く

野ざらし紀行の目的の一つには、母の一周忌の墓参りのことも上げられるであろう。 5 の句は、伊賀上野に着いたときの芭蕉の絶句である。「母の部屋をめぐる草も霜枯れに枯れ、兄は『お互いにまだ生きて』と言ったきり絶句する。ややあって彼が開いてくれた形見の袋には母の白い遺髪。芭蕉は、それを手にとって、しばし嗚咽する。」(ドナルド・キーン)

6 の句、「芭蕉は、馬の背にゆられている。と、突然に馬が首を下げて食いとったのは,道ばたの生け垣に咲く一輪りむくげの花である。花がまさに食われようとする瞬間に、芭蕉の心はその美しさに気づいてときめく。どこかであった情景の紹介でもなければ、架空の出来事でもなく、一瞬の嘱目の吟である。」(ドナルド・キーン)

故郷の上野からさらに大和・山城・近江・美濃と旅した芭蕉は、大垣で門弟の谷木因(ぼくいん・1646~1725年)の家に止宿する。その時の句が7 である。江戸を出たときの、路傍に白骨をさらす暗い予感は、ここに至ってようやく晴れる。

芭蕉と木因は、相携えて桑名から尾張へと旅する。尾張着は1 6 8 4 年陰暦十月のことである。蕉風を代表する七部集の一番目に数えられる『冬の日』五歌仙の唱和が成ったのは、このときであった。

8 霜月や鶴(かう)の彳(つく)々ならびいて 荷兮

The eleventh moon・・

Storks listlessly

Standing in a row.

9 冬の朝日のあはれなりけり 芭蕉

How touching the morning sun

Of a winter’s day.

『冬の日』の由来は、集中第五の歌仙「霜月の巻」の芭蕉の・の脇句によっている。その発句は、・の山本荷兮(かけい・1648~1716)のものである。わずか一年半の『虚栗』にくらべて、もう、ここには漢詩文調の重々しい響きはない。『冬の日』は、蕉風確立の基とされている。

1 0 海くれて鴨の聲ほのかに白し

The see darkens:

The voices of the wild ducks

Are faintly white.

五・七・五の破調の句である。「暮れゆく冬の海の暗さを背景に、ほの白い微光が鴨の声の印象を支えている。絶妙の効果である。同時に読む者を感動せずにはおかない一句である。」(ドナルド・キーン)

1 1 なつ衣いまだ虱をとりつくさず

My summer clothes------

I still haven’t quite finished

Picking out the lice.

京から近江へ歩いた野ざらしの旅は、1685年陰暦四月の江戸帰着によって終わりを

告げる。この句が紀行最後の句である。ここには、巻頭の沈鬱な響きは影を落としてはいない。ここには、紀行を完遂した達成感と開放感に満ちみちている。

1 2 古池や蛙飛(とび)こむ水のをと

The ancient pond------

A frog jumps in,

The sound of water.

1 6 8 5 年に江戸に戻ってからの芭蕉は、翌8 6 年の陰暦正月に、其角をはじめその門弟達と『冬の日』の調子を承けた『初懐紙』百韻を催している。そして、その年の春、芭蕉は開眼の一句を得る。

「人間が永遠を知覚するためには、それをかき乱す一瞬がなければならない。蛙の飛躍、その一瞬の合図となった『水のをと』は、俳諧における『今』である。しかし、『今』が感知された瞬間に、古池は再びもとの永遠に戻っている。」(ドナルド・キーン)

永遠なるもの(古池に象徴される永遠なるもの)と瞬間的なもの(蛙の飛躍にともなう水の音)とを対比させることによって、芭蕉は、たった十七文字の中に宇宙を創造することに成功したのである。 この古池の句は、1 6 8 7 年に上梓された七部集の第二の『春の日』( 荷兮) に収められている。

1 3 髪はえて容顔蒼し五月雨

My hair has grown back

And my countenance is pale:

Rainy month of June.

七部集の第二撰集『春の日』が上梓された翌年、1 6 8 6 年、芭蕉は再び旅心に誘われ、鹿島神社へと、陰暦八月の十四に江戸を立ち、その二十五日ころに帰庵するという短い旅を実施する。この旅の記は、『鹿島紀行』にまとめられている。この頃のものとされている自詠の句が、13の句である。じめじめとした五月雨が降っている。外出もできず、不精をして伸ばした髪と青白い顔をして、芭蕉は、次の旅の計画を練っていた。鹿島から戻ってわずか二ヶ月後の1 6 8 7 年陰暦十月二十五日に、芭蕉は再び旅に出る。

1 4 旅人と我名よばれん初しぐれ

“Traveller”------is that

The name I am to be called?

The first winter rain.

旅そのものも順調であった。伊勢・尾張を経て故郷の上野に戻り、さらに、吉野・奈良

をたどって須磨に至る。このときの旅の記が、『笈の小文』である。この『笈の小文』が刊行されたのは、芭蕉の死から数えて十五年後の1709年のことであった。

「旅人と我名よばれん」とは、この『笈の小文』の「西行の和歌における、宗祇の連歌

における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道する物は一なり」をうけ、自分(芭蕉)も第五の「旅人」という漂泊詩人としての心意気を示すものであろう。

1 5 草臥(くたびれ)て宿かる比(ころ)や藤の花

Worn out by my travels,

I rent a room at the inn------

Just then,wisteria bloosoms.

「草臥て」という自然な口語調、「宿かる比や」と暮春のたそがれの景、そして、行き暮れて宿借るころに、「今宵のあるじ」としての藤の花を見出したのである。

1 6 ほろほろと山吹ちるか瀧の音

With a soft flutter

How the yellow roses drop------

The roar of the falls.

「山鳥のほろほろとなく声きけば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」(行基菩薩・玉葉集)の古歌を思い起こさせる。岩間をごうごうと響きをたてて落ちる滝、そして、弱々しく「ほろほろ」と散る山吹、リズムの感覚の優れた句である。

1 7 ほとゝぎす消行方(きえゆくかた)や島一つ

There in the direction

Where the cuckoo disappeared------

An island,just one.

「句に動きある。遠くへ飛び去るほととぎすを追っていた視線が、その姿の消えるとこ

ろで影を認める。語の配置された順次、そして音の静かな下り調子が、その動きをみごとに再現している。」(ドナルド・キーン)

18 鷹一つ見付てうれしいらこ崎

A solitary hawk------

How happy I was to find it

At Irako Point.

1 9 いらこ崎似る物もなし鷹の聲

Irako Point------

Nothing even resembles

The voice of the hawk.

2 0 夢よりも現(うつつ)の鷹ぞ頼母(たのもの)しき

Even more than the dream

The hawk of reality

Reassures me.

伊良古崎は万葉や西行のころから鷹で有名な土地がらであった。『笈の小文』の芭蕉は、芭蕉開眼第一の撰集『冬の日』の名古屋連衆の一人・坪井吐国の流謫の地、伊良古崎まで足をのばす。18の句は、伊良古崎でさびしく暮らしていた吐国に再会したときの、最終的な句形の句である。「さびしい浜辺に立った芭蕉は、漠々たる海と空に対している。と、遠くに一羽の放れ鷹。」(ドナルド・キーン)

19 は、その初案の句形。・は、別想とも(山本健吉著『芭蕉』)、しかし、「夢は、やがて後年の『嵯峨日記』の夢を予感している。現実に吐国に会うことは、彼を夢に見るよりもはるかに喜ばしいことだったのである」とし、この「三句を対比してみると、芭蕉が本質的に同じ材料を用いながらも、除々に深みと雄大さを増していき、最後に『鷹一つ』という絶対の句を探し当て、虚空無限のひろがりの中にただ一つの飛翔点を固定しえたことがわかる」とするドナルド・キーンの鑑賞視点は棄て難い。

『笈の小文』の、芭蕉と吐国とは、須磨まで足をのばし、『源氏物語』や謡曲『松風』などのゆかりの土地を訪ね、その須磨から京に戻り、そこで二人は別れる。吐国は、そこから流刑の地の伊良古崎へ、芭蕉は岐阜を経て尾張に向かった。

21 おもしろうてやがてかなしき鵜舟哉

Delightful,and yet

Presently how saddening,

The cormorant boats.

「岐阜長良川の鵜舟は、古来同地の名物だった。燃えさかる松明に惹きよせられる鮎を

呑んで上がってくる鵜、それを見守る人々の興奮、やがてしのび寄る悲哀の感情『おもしろくて』と言わず、わざと『おもしろうて』を使ったことが、見物人のわき立つような感興を端的にとらえ、それに痛々しさをこめた『かなしき』という音を続けることによって、鵜飼を見る芭蕉の気持の上昇と下降が写されている。」(ドナルド・キーン)

2 2 俤や姨(をば)ひとりなく月の友

I can see her now------

The old woman,weeping alone,

The moon her companion.

1 6 8 8 年陰暦8 月、越智越人( えつじん・1 6 5 6 ~ 1 7 4 0 ) と共に、美濃から信州へと向かう。この旅の記が『更科紀行』である。この句は、この更科紀行での一句である。其角の『雑談集』に、芭蕉がこの句は深夜の姨捨山を詠んだと語ったという。

2 3 木曽の痩もまだなをらぬに後の月

Still not recovered

From my thinness of Kiso------

The late moon-viewing.

こうして芭蕉は、ほぼ一年を留守にしていた江戸に帰着した。陰暦九月十三日、長旅か

ら帰ってきたときの、江戸の草庵での素堂以下との懐かしい顔ぶれとの後の月を賞しているときの句である。

24 行春や鳥啼魚の目は泪

Spring is passing by !

Birds cry,in the eyes of fish

Behold the tears.

更科の紀行より、わずか数カ月後の1 6 8 9 年の春、芭蕉の生涯最大の旅の『おくの細道』の旅をを決行する。その旅立ちは三月二十七日、春があと三日で終わらんするときだった。

「魚の目の泪は、イメージとしては超現実的なものだが、句が名詞止めになっているために芭蕉の感情表現が強められている。句は、まさに俳諧である。しかも、芭蕉でなければないような、軽みを持ちながらも哀切の余情を響かせている俳諧である。」(ドナルド・キーン)

「『奥の細道』は、言うまでもなく、みちのくへの旅なのだが、同時にそこには詩心の深奥への遍歴の意がこめられている。現在の旅に永遠の詩歌の探究を兼ねたこの表題そのものが、すでにして芭蕉の提唱した不易流行の理念を示唆するものと言えるだろう。先行する四紀行文の中にも、それぞれに美しい箇所はあったが、句と文が完全に融合し、それぞれに均衡を保ちながらもみごとな相互補完を演じるのには『奥の細道』を待たねばならなかった。しかも、収められている発句は名吟ぞろいであり、現代の名句集にも必ず収録されるものが、つぎからつぎへに織り込まれている。」(ドナルド・キーン)

2 5 夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡

The summer grasses------

For many brave warriors

The aftermath of dreams.

「かってつわものどもの刀槍がきらめいた『昔』は、茫々の夏草が風にそよぐ『今』に

流転のさまを見せている。その哀切をとらえた名吟は、単にその意味するものだけではなく、句の中に配置された音によって一句に特別の強さを付与している。上五は母音がすべてアとウである。中七は、やはりアとウの繰り返しの中にオの音が連続して四つ、はさまっている。そして、下五は、『夢』という軽みを持った語に続いてオーアーオで句が締めくくられている。ためしに中の『兵どもが』を『兵隊たちが』とでもしてみれば、たちどころに原句の音の効果に思い至るであろう。」(ドナルド・キーン)

2 6 蛤のふたみにわかれ行(ゆく)秋ぞ

Parting for Futami

Dividing like clam and shells,

We go with the fall.

「貞門流の縁語、懸詞に満ちた句で、芭蕉の初期の俳諧修業への回帰が見られる。『ふたみ』は、これから伊勢へ向かう芭蕉が、二見ヶ浦を望むことを懸けながら、同時にはまぐりの蓋と身でもある。二見ヶ浦は貝の美味で知られるところだった。芭蕉は落ち合った門弟や友人とも別れ、再び一人になるのだが、貝の蓋と身が別れるようなつらい思いだという心をこめている。『行秋ぞ』は、また、江戸を出るときの『行春や』に呼応している。秋の句のほうも離別の悲哀をうたったものには違いないが、春の句にくらべると、その調子は軽快で、旅の終わりに近づいた芭蕉が、安堵の気持から、かって使った技巧を弄んでみたという趣きさえも感じられる。」(ドナルド・キーン)

この句をもって、『おくの細道』の記述は終わる。しかし、この後、二十年に一度の伊勢遷宮を拝観した後、1689年の九月末には故郷の伊賀上野に帰った。それからの二年は、京や近江を転々とし、何度か上野の旧居にも戻っている。

芭蕉は、琵琶湖の南、ことに、膳所と大津わ愛していた。1 6 9 0 年の正月を膳所で迎えた芭蕉は、その年の初夏に膳所藩の家臣だった菅沼曲水の世話を快く受け、湖南を見下ろす国分八幡の小庵に住んだ。そして、ここの約三ヶ月半の滞在の間に珠玉の俳文『幻住庵記』を書き上げる。

この時代の芭蕉は、おそらくその生涯で最も幸せな日々であったものと思われる。芭蕉

の遺言の中に一家の墓所の上野ではなく膳所に葬られるのを望んだのも、このことと関連するものと思われる。その年の晩秋には、膳所の義仲寺境内の庵に移った。後に、芭蕉の遺骸が埋められたところである。