https://yahantei.blogspot.com/2012/10/ 【ドナルド・キーンの『俳諧入門』(その一~その八)】より
ドナルド・キーンの『俳諧入門』(その一)
第1 序(ドナルド・キーンの『俳諧入門』)
ドナルド・キーンに、『俳諧入門』という著書があるわけではない。ドナルド・キーン
の不朽の名著『日本文学史』を目にして、この著書から、彼になりかわり、ドナルド・
キーンの『俳諧入門』というような、そんなものが出来ないものであろうか。
そんな思いに囚われたのは、彼の俳諧の発句(俳句)に対する天才的な英訳が、俳諧に不案内な者にとって、興味と正しい理解を、強烈にインプットするのではなかろうかという、そんな単純なことが、その動機となっている。
およそ、日本の古典、中でも、芭蕉とか蕪村とかの俳句や、その文章に接すると、直接・間接を問わず、受験戦争の後遺症か、実に、そのアレルギー現象を起こす方が、実に多いという事実・、これは、実に想像を絶するものがある。
芭蕉の『おくの細道』を読んでいると、それだけで、「専攻は国文学」ということとなる。そのように思っている人達の言い分は、「現代国語すら理解出来ない者が、どうして、得体の知れない古典といういかめしい国語を理解することが出来ようか」という諦めにも似た心情なのである。そして、その人達の大部分は、驚くべきことに、多くの他国の歴史や現状についての興味と正しい理解とを身につけているのである。
このこともまた、直接・間接を問わず、受験戦争の後遺症とも思われるのでる。すなわ
ち、本来、ドナルド・キーンの、この『日本文学史』の読者層になるべき人達の多くが、かって「英語・現代国語・世界史」の三科目にしぼり、それ以外は、我関せずで良しとしていたのである。(そして、このことは、今の若い人達にも等しく当てはまることでもある。)
この現象を、現代国語以外の、古典国語(古文)という観点から換言してみると、それ
は、「古典国語(古文)というジャンルは、英語というジャンルと同じように、他国語というジャンルに均しい」ということに他ならない。
このようなことを頭におきながら、ドナルド・キーンの、その生涯をかけてのライフワ
ークともいうべき、この『日本文学史』にかかわる作業というものを概括した場合、それは、実に多くのことを暗示してくれる。
この『日本文学史』は、日本の国文学の研究者としての、ドナルド・キーンが、英語圏
の人達を対象に、英文で書いたものを、さらに、今度は、日本人(徳岡孝夫)が、日本語に翻訳するという、いはば、二重に手間と時間を割いた貴重な書なのである。
それだけではなく、編集者と訳者とのアイデアで、この著の詩歌には、原著にある英訳
が、そのまま併載されているという、これまた、大変に魅力に満ちたものなのである。
そして、さらに、その英訳は、「原著者(ドナルド・キーン)によれば、必ずしも詩的完成を第一とせず、読者の理解を助けるのを主目的とした」とあり、この『日本文学史』から、その俳諧にかかるところを、単純に編集しただけで、これは、優に、現在刊行されている、この種の俳諧に関する入門書より優れたものになることは、この著書に触れたものが、等しく認めるところのものであろう。
では、何故、そのようなものが実現しなかったのであろうか。それは、ドナルド・キー
ンその人、あるいは、ドナルド・キーンより依頼された人が為すべきであって、その他の第三者が、妄りに関与してはならないというような、そんな不文律の故からなのかも知ない。
しかし、もし、このような不文律に理由があるとすれば、その不文律はクリアされなけ
ればならない。何故ならば、この『日本文学史』にかかわる一連の作業を見ていくと、それは、丁度、歌仙における付け合いのような、そんな思いがするのである。
すなわち、原著者・ドナルド・キーンの『日本文学史』が、歌仙における発句で、その
訳者(徳岡孝夫)による『日本文学史』が、脇句で、この発句と脇句は、その第三の付けを待っているように思われるのである。
そして、その第三の付けとは、編集者と訳者のアイデアで、この著の詩歌に、原著の英
訳が併載されているところから、ドナルド・キーンの『俳諧入門』ということも、それほど、違和感のある付けとは思われないのである。
要は、いかに、原著者・ドナルド・キーンの名を辱めないか、心すべきことは、この一
点である。そして、それ以上に、歌仙における第三の付けは、発句と脇句の詩的な世界
から大きく飛翔しなけれならないというルール下にある。
とすれば、少々の脱線も、少々の異論も、必ずや、原著者・ドナルド・キーンも、その
訳者(徳岡孝夫等)も、許容してくれるものと、座を同じうする者としての確かな手応えに似たものも感じとっている次第である。されば、ここ暫くは、ドナルド・キーン一座の、『俳諧入門』という歌仙興行をたっぷりと堪能して頂きたいのである。
第2 俳諧の連歌の登場
1 露ものいはぬ山吹の色
The dew lies silent over
The color of yellow roses.
2 霞にも岩もる水の音はして 宗鑑
Even in the spring mists
One hears the sound of water
Trikling throughthe rocks.
中世の末期、貴族的な連歌から、庶民的な、滑稽・卑俗・平易を旨とする「俳諧之連歌」(俳諧・連句)が興り、山崎宗鑑( そうかん・1465?~1553? )荒木田守武( もりたけ・1473~1549)らの手によって形成されていった。俳諧が連歌から独立する動きである。
宗鑑の名がはじめて記録にあらわれるのは、1488年で、当時まだ二十代の彼は、宗
祇( そうぎ・1421~1502 )、肖柏( しょうはく・1443~1527 )、宗長( そうちょう・1488~1532)らの大師匠と連歌を一座し、その時の宗鑑の一句が上記の2 の句である。
この宗鑑の句は、俳諧師・宗鑑というよりも連歌師・宗鑑が、表の芸としての連歌の興
行のあとで、余興としての、即興的・機知的な言葉の遊戯として、その後の「俳諧之連歌」の先鞭をつけているような句と理解できるのであろうか。
この2 の宗鑑の句の即興的・機知的・滑稽味というのは、「1 の句の露が、silen
t( ものいはぬ)なのに比して、もっと、( ものいはぬ)と思われる・の句の霞が、sound( 音をたてている)」という、この対比の妙にあるのであろう。
しかし、「俳諧之連歌」というのは、もっと卑俗な飄逸さをもったものへと転化を遂げていくのである。
3 あぶなくもありめでたくもあり
It is dangerous
But also makes us joyful:
4 婿入りの夕べに渡る一つ橋守武
The log bridge
We cross in the evening
To welcome the groom.
3 の前句は、典型的な謎かけの句で、後の川柳の前句付けの源流ともいえるものであろ
う。守武が、この謎の謎解きをしているのである。ドナルド・キーンは、この句を「一家が丸木橋を渡って婿入りを迎える」情景としてとらえているが、「婿となる人が丸木橋を渡ってくる」ともとれる句であろう。どこにも、卑猥さのない、ほのぼのとした、五七五の川柳的な句作りといえるであろう。
5 にがにがしくもをかしかりけり
Bitter,biter it was
But it was also funny.
6 わが親の死ぬるときにも屁をこきて 守武
Even at the time
Why my father lay dying
I still kept fathing.
何とも、悪趣味の付けであるが、5の前句の、見事なまでに謎解きをしている絶妙な機知的な付けではある。こういう句は、後の、川柳というジヤンルのものであり、このような、俳諧の系譜を辿っていくと、川柳こそ、「俳諧之連歌」(俳諧・連句)の本流であったことが理解されてくる。
7 霞のころもすそはぬれけり
The garmennt of mist
Is damp at the hems.
8 なはしろをおひたてられて帰る鳫(かり) 宗長
Chased away from
The bed for rice-plants,
The wild geese depart.
9 佐保姫のはるたちながら尿(しと)をして 宗鑑
The Godress Sao
Now that spring has come,pisses
While still standing.
7 の句が、前句で、8 と9 の句が、その付句である。7 の前句の意味は、「春霞で、その霞の裾のほうは、ぼやけて水に濡れているようだ」の意味であろう。8 の句は、連歌師としては、俳諧風の自由かつ想像力に満ちた創作をしたことで知られる宗長の句であるが、その滑稽味は、やはり連歌風で、微温的なところに止まっている。
9 の句は、宗祇の十三回忌の1514年に、宗鑑によって編纂されたとされている『新撰犬莵玖波集』の冒頭の宗鑑の句である。「春の女神の佐保姫が立小便して、裾が濡れた」とする、この着想の奇抜さは、これこそが、俳(たわむれ)諧(たわむれ)風の連想の飛躍なのであろう。『新撰犬莵玖波集』が、俳諧最初の撰集とされる所以も、ここにあるのであろう。
そして、これらの俳諧の連歌が、俚謡などのように詠み捨てにされてしまわずに、この
『新撰犬莵玖波集』の中に収められ、今に語り伝えられている事実は、それは、とりもなおさず、俳諧がその初期の段階において、すでに文学的価値ありと認められていたという、一つの証左になるものなのだろう。
ドナルド・キーンの『俳諧入門』 (その二)
第3 松永貞徳と初期の俳諧
1 霞さへまだらに立(たつ)やとらの年 貞徳
Even the mist
Rises in spots
The year of the tiger.
2 ねぶらせて養(やしなひ)たてよ花のあめ 貞徳
Let him lick themー
That’s the way of bring
him up:
The flower sweets.
3 しほるゝはなにかあんずの花の色 貞徳
Do they droop because
Of some grief? The apricot
Blossomes’color.
4 皆人のひる寝のたねや秋の月 貞徳
Is it the reason
Why everyone is nappingー
The autumn moon.
後世に、俳諧の祖といわれる宗鑑や守武は、宗長・宗牧と年齢の差はあるが、同時代の
人であり、両者とも、それら連歌作者と交渉を持つ、彼ら自身、連歌作者でもあった。
宗鑑は、『新撰犬莵玖波集』を編み、守武は『守武千句』を出し、後世にまで千句形式の
範となった。その後、この二人の活躍を吸収した人、それが、松永貞徳(ていとく・15
71~1653 )である。
貞徳の下には、松江重頼( じゅうらい・1602~1680)・野々口立圃( りゅうほ・
1595~1669 )・ 安原貞室( ていしつ・1609~1673 ) などの俊英が参集
した。これらは、貞門派と称され、貞徳自身、後世に、近代俳諧の祖と仰がれるに至った。
上記の貞徳の四句は、重頼が編纂した『犬子(えのこ)集』のもので、『犬子集』とは、
宗鑑の『新撰犬莵玖波集』の子の意味であろう。
1 の句の面白さは、「寅の年には、霞も、斑な寅の斑点がある」という洒落であろう。
2 の句は、貞徳が子を儲けた人に贈った句で、懸詞( かけことば) と縁語の巧みさがポイ
ントの句で、連歌の知識がないと、なかなか理解し難いとされている。ドナルド・キーン
の懇切丁寧な訳がある。
「子に飴をねぶらせてすこやかに育てよ、雨が花を育てるように。そして、釈迦にあやか
ってあなたの愛児の上にも花の雨が降るように。」
3 の句は、「あんず」( 杏 )と「案ず」との懸詞の巧みさと「花の色はうつりにけりないた
ずらに 我身世にふるながめせしまに」( 小野小町) の故事が巧みに組み合わされいるとこ
ろが見どころの句である。
4 の句は、取りつき易い句で、「前の夜の月見で、皆んな昼寝をしている」という滑稽味
が中心の句である。
貞徳は、俳諧のほかにも、多くの和歌や連歌も残しているが、当時の最も新しい文学運
動の俳諧の旗手として、なかんずく、俳諧式目制定という面で多くの業績を残し、貞門俳
諧は、全国津々浦々に至るまで、その支持者を持つに至った。
しかし、貞徳の死後、その門弟間に争いが生じ、貞門の名声も次第に翳りを落とすこと
となる。
5 これはこれはとばかり花の吉野山 貞室
Look at that! and that!
Is all I can say of the
blossoms
At Yoshino Mountain.
貞徳の真正後継者を自負する貞室の代表的な句である。この句は、芭蕉によって高く評
価された、今日でもよく知られられた句の一つである。吉野山の満開の桜、ただただその
賛嘆に我を忘れる・・、調べが自然で、貞門俳諧の技巧ばしったところが少しも見当たら
ない。より、次の時代の、芭蕉の時代の雰囲気である。
6 巡礼の棒ばかり行く夏野かな 重頼(維舟)
Only the staffs
Of the pilgrims are seen going
Through the summer fields.
『犬子集』を編纂した重頼、後の維舟は、まったく平気で、師の貞徳が定めた俳諧の作
法を破り、後に、貞門から離れ、彼独自の別派をつくるに至った。その別派とは、貞門俳
諧の次の西山宗因を中心とする談林派俳諧へと通じていくのであった。
この重頼の句も、貞門特有の懸詞・縁語は見当たらず、むしろ写生の清新さが目立つ句
といえる。
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