生き延びるためのラカン ⑪

https://www.cokes.jp/pf/shobun/h-old/rakan/17.html 【生き延びるためのラカン 第17回 ポロメオの輪の結び方】より

先日、ある雑誌を読んでいて驚いたんだけど、もう「象徴界」とか「現実界」とか、なんの説明もなしに使われているんだよね。それも精神分析とかはあまり関係ない文脈でさ。注釈抜きで引用されるとは、ラカンもずいぶん普及したもんだなあ。ただ残念なのは、まあ仕方ない点もあるんだけど、やっぱり誤解が多いんだ。一番多いのは、字ヅラにひっぱられての勘違い。つまり「現実界」っていうのは、まさに僕たちが今生きている現実世界のことを指していて、「象徴界」は制度やら組織やらシステムやらを指しているという理解かなあ。この連載を読んでくれている人の中には、よもやそんな誤解をしている人はいないと信ずるけどね。このあたりのちがいについては、もう何度か説明してきたから、ここでは繰り返さないよ。前章でもちょっとふれておいたから、そっちを覗いてみてほしいな。

 さて、今回はいつもより、少しばかり難しいかもしれない。「症状」についてのお話だ。

 「症状」といえば病気の人だけが持っているものと考えがちだけど、ラカンの考えは違う。これも前にふれたとおり、ラカンは人間が言葉を持つことで、本来的に自然(=健康)からはみだしてしまった存在、すなわち「神経症」的存在であるとみなしている。だから、僕たち人間のさまざまな営みは、しばしば症状と同じレヴェルで理解できるというわけだ。たとえばフロイトが指摘した「言い間違い」なんていうのは、まさに症状そのものと言えるかもしれない。要するにあれは、自分が本当に言いたいことを、間違いという形で表現する行為だから。

 精神分析とはなにか、という話にもつながっているから、ちょっと脱線するね。精神分析に対する、いちばんありふれた誤解は、それが単純な解釈のシステムであると決めつけるもの。僕もときどき「私の夢を分析してください」なんて頼まれることもあるけど、これはほとんど占い師と同じことを期待されているわけだね。「あなたの夢に出てくるハサミは、明らかにペニスの象徴です」とか「魚の夢をみたということは、たぶん膵臓に問題があります」みたいな。この問題については前にも指摘したと思うけれど、こういう解釈はすべて一般論に過ぎない。夢分析というのは、精神分析もそうだけど、患者と分析家の共同作業だ。たとえば、夢の内容からさらに自由に連想を働かせてもらって、解釈できない核心、つまり「夢のへそ」を探り当てる作業のことだ。この作業をするためには、分析家という他者のかかわりが欠かせない。フロイトも言うように、自己分析というのは、けっして一般論を越えることができないからだ。

 よく20世紀の3大思想として、ダーウィンの進化論、マルクスの唯物史観、フロイトの精神分析が挙げられる。これらはたしかに、ものの考え方に革命的なパラダイム・シフトを起こしたという点では妥当な選択だと思う。面白いのは、みんないまだに激しく批判され続けている理論だっていうこと。どれも生み出されて100年以上経った思想ばかりだけど、それでも強い反発があるってことは、これらの思想が現代においてもリアルであることの証明じゃないかな。僕たちはこういう考え方を否認したくて仕方ないんだけど、でも否認しきれないなにがしかの手応えが残ってしまう。

 余談はともかく、じゃあフロイトは一体なにをしたのか? 無意識の発見? それはフロイト以前にもあった考えだ。精神分析の発明? ほぼ同時代にフランスにもピエール・ジャネなんて元祖がいたことを忘れちゃ困るね。むしろ最近ではジャネのほうが評判がいいくらいだ。おまけにフロイトは、医師としてあまり腕がいいとも言えない。彼を有名にした症例は、失敗例とか他人の治療したケースとかばっかりだ。むしろ治療にコカインを使うようなトンデモ治療をしてスキャンダルになったりしている。こう考えていくと、いったいフロイトにオリジナルな業績があるのか疑問に思うひともいるだろう。

 ここでは治療技術としての精神分析ではなく、思想としての精神分析という点に焦点を当ててみよう。そこに独自の思想はあるのか。

 ある。それは、「人間の『こころ』と『言動』のあいだには、常に隠喩的な隔たりがある」というものだ。

 ちょっと、わかりにくかったかな。順番に説明しよう。人間を、その人の言動の通りに理解する人はいないよね。言動が形作るその「人となり」みたいなものを前提にして、その人の言葉や行動を、あるときはそのまま受け止め、あるときは割り引いて聞いたり、些細な言葉の言いまわしに注目したりする。こういうことをしている時点で、僕たちはすでに「人間には『こころ』がある」ということを前提にしているわけだ。

 必ずしもイコールではない『こころ』と『言動』を結ぶもの、それが言葉=隠喩であること。言動はこころの動きをそのまま反映するというよりは、こころを象徴する形で表出される。そしてこのとき、まさにこの象徴という形式が、言葉によって与えられてもいるんだね。ラカンはこの言葉の働きに関する部分をもっと徹底して追いつめたわけだ。その天才的なラカンですら、元祖フロイトの前では、せいぜいすごい秀才くらいにしかみえない。そのくらい、このフロイトの発見は大きかった。もちろんこの問題には、あの「性」の問題も絡むんだけど、こちらはいつの時代も抵抗が大きくて十分には受け入れられていない。でも、こころをことばの働きとしてみるという作業には、この「性」の問題も密接にからみついてくる。

 そして、人間が語る存在である限り、人間の言動はひとつの症状として、そのひとの存在を指し示すことになる。ラカンの文脈でいえば、症状こそが人間の存在証明になるってわけだ。わかりにくいかな。でも僕は、そういう傾向が最近になるほど露骨になってきているような気がしてならない。若者が自分のトラウマについて相手かまわず告白したり、手首に傷を付けて存在確認をしたりすることは、もう珍しいことじゃないしね。彼らの言動こそが、まさに「症状=存在証明」というラカン的事態を支持している。ボランティア活動から犯罪に至るまで、そうした行動に関わることで自分の存在を証したいという欲望が、これほど露骨にみえてきた時代はかつてなかった。こんなふうに、健康と不健康の区分、正義と悪の区分が曖昧化した時代だからこそ、ラカンが注目されるのは当然なのかもしれないね。

 さて、その「症状」なんだけど。今回は、これをもう少し詳しく位置づける作業をしよう。いままで何度も繰り返してきたように、ラカンによれば人間世界は「三界」から構成される。直接に認識したり理解したりすることができる「想像界」、直接に認識はできないけど、分析することは可能な象徴界、認識も分析もできない現実界、という区分だね。前は「コントロールできるかどうか」で区別したけど、覚えてるかな?

 念のために確認しておくけど、ここで僕たちが生活している「日常世界」は想像的なもの、すなわち幻想ということになる。ただしそれは、実体を欠いた形而上学的な幻想、ってわけじゃない。ほら、哲学なんかで良く問題になるアレのことさ。世界はすべて主観的な幻にすぎなくって、そこにはどんな実体もないとするような観念的な議論。哲学ではこれを「独我論」という。実はこの種の議論は、同じ土俵の上では論破できない仕組みになっている。なぜかって? この種の観念論に対抗するようなどんな論点を持ち出しても、その枠組みそのものの観念性を指摘することができちゃうからだ。だから独我論を採るかどうかってのは、論理よりは好みの問題ということになる。え? 僕ですか? もちろん独我論なんてポイだ。どうせ絶望するにしても、独我論的に絶望するよりは、唯物論的に絶望したいね。

 ここで、ちょっと時事的な話題にもふれておこう。ラカン派哲学者という変わった肩書きを持つスラヴォイ・ジジェクというひとがいる。彼は「9.11」同時多発テロについて、こんなことを言っている。あの事件は「日常という幻想」が「テロという現実」に破られることではない。むしろ僕たちの現実が、(ハリウッド的スペクタクルの)イメージによって粉砕されたと考えるべきなのだ、と。これは崩壊する世界貿易センタービルをみて、誰もが「まるでハリウッド映画みたいにリアルだ」という、ちょっと奇妙な感想を口にしたことからもうなずけることだ。この世界の現実が、凡庸なB級映画的イメージで覆われつつあるという感覚は、きっと誰しもが持っているはずだからね。「リアリティ」って言葉がこんなにしょっちゅう話題になる世の中ってのは、要するにリアリティがわからなくなった世界、ってことだ。現実界や象徴界なんて言葉が少しずつ広がっているのも、こうした状況に関係があるのかもしれない。

 ただ、かなりラカンに詳しいはずの人でも誤解しがちなのは、この三界が階層構造みたいになっているとみなすこと。前にパソコンの比喩でも言ったことがあるけど、「現実界」がいちばん基礎にあって、その上に「象徴界」が乗っかっていて、いちばん上が「想像界」になっていると考えることね。逆に言えば、誰の目にもわかりやすい想像界を一枚めくれば象徴界があり、象徴界をさらにほりさげると現実界にゆきあたる、という理解だ。これ、確かにわかりやすいだけについそう考えてしまいがちだけど、ラカンによればそうじゃない。実は三界というのは、それぞれが互いにそれぞれの存在にもたれかかって成り立っているというんだね。

 階層構造がもしホントなら、いちばん浅いレヴェルにある想像界は、別になくってもさしつかえないことになる。つまり、より真理に近い象徴界さえ認識していれば、想像界のようなウソだらけの「みかけ」の世界は見えなくても構わない、ということになるわけだ。でも、もちろんそんなことはない。一般に人は、象徴界のはたらきをじかに認識することはできないからだ。もしそれを直接見ることができたとしても、それはほとんど無意味な、まるでメカニカルなシニフィアンのたわむれにしか見えないだろう。こうした作動は、想像界のスクリーンを通じて、はじめて意味のあるものとして受け止めることが可能になる。要するに、僕らはウソを通じてしか、ホントのことに近づけないってことだ。

 現実界は、もっとそうだね。現実界は、前にも話したとおり、場所がない。「みなさまの右手に見えますのが現実界でございます」などと指し示すことができるような場所じゃあないからね。それは象徴界や想像界の働きがあってはじめて、そのつど「その働きの外側」に生み出されるような領域なんだ。だから象徴界が存在しなければ、現実界もそれ自身では存在することができない。

 ラカンはその晩年に、こうしたもたれあいの関係性を「ボロメオの輪」という図式で表現した。それは、こんな輪だ。

 これはイタリア・ルネサンス期に栄えたボロメオ家の紋章で、和名では「三つ輪違い」というらしい。よく見ればわかるとおり、この3つの輪っかは、どの一つの輪がはずれても、全部がばらばらになるように組み合わせられている。つまり、どれか2つの輪の組み合わせだけが残るってことはないんだ。たとえば想像界がだめになると、現実界と象徴界もばらばらになってしまう。

 実は晩年のラカンは、数式や図式を使って理論を説明するのがすごく好きだった。ほかにも有名な図式がいろいろある。でも、この連載では、できるだけこういう図式は用いないつもりだった。なぜかって? こういうボロメオの輪みたいな例はまだわかりやすい方で、ほかの図式について言えば、かえって理解がややこしくなってしまいかねないものが多いからね。これもラカンが、とっても緻密な理論展開をしたからではあるんだけど。

 あともうひとつ、ラカンが用いた数式や図式については、その道の専門家からクレームが付いたことがある。知っている人もいると思うけどソーカルとブリクモンという研究者が出して話題になった『知の欺瞞』っていう本ね。もっとも、この本がケチをつけているのは、ラカン理論全体ではなくて、数学を応用した部分に限られている。確かに数学の専門家でもないのに、心を数学化しようと凝りまくった晩年のラカンには行き過ぎもあっただろう。ただね、あの本が出てからというもの、「やっぱりラカンはデタラメだったんだ! ボクの頭が悪いわけじゃなかったんだ!」というはしゃぎ方をするひとが増えすぎた。僕が思うに、キミたちはアタマが悪いんじゃなくて、センスが悪いだけなんだがな。

 こうした批判がラカン全体を否定することにはもちろんならない。数式や図式にも、比喩表現として理解すれば、じゅうぶんに有用なものも多い。そのことはラカン自身が言っている。「比喩表現は足場であって、足場と建物を混同することさえしなければ理解にとって有効である」とね。ただ、すっかりケチがついてしまった昨今、あえていちばん批判が集中した「トポロジー」やら「数学」の部分は使わなくてもいいだろう、と判断したわけだ。ただし、このボロメオ結びはちょっと別格だね。三界の位置づけのみならず、もっと重要なことを考える上でも、この模式図は役に立つ。だから、この図だけはみずから禁を破って引用したってわけ。

 もう気づいている人もいると思うけど、たとえば精神病っていうのは、まさにこのボロメオの輪がばらばらになりかかっている状態なんだ。ほっとくとばらけてしまうので、輪っかをつなぎ止めておくために、第4の輪っかを加えてやる必要がある。4つめの輪っかを補填することで、世界の崩壊をつなぎとめること。これがとっても重要なことになってくるわけだ。

 この4つめの輪には、さまざまな意味や機能が負わせられている。ふつう、それは「エディプス・コンプレックス」という「心的現実」だ。ちょっと、唐突だったかな。連載のはじめのほうで説明したように、人間が言葉を話す存在になっていくためには、パパ-ママ-ボクの三角形が重要となる時期、すなわちエディプス期をくぐりぬける必要がある。言い換えるなら、エディプス・コンプレックスを経験することで、この3つの輪がばらばらになることを防げるわけだ。ちなみにこれが「心的現実」だっていう意味は、誰もが実際にこうしたコンプレックスを経験するとは限らないから。それは現実的な経験を離れた、抽象的かつ普遍的な経験であり、こころに一つの形式をもたらすための、もっとも根源的な幻想といってもいい。

 そこで、ママとボクのハネムーンを邪魔しにくるパパの役割を、別名「父の名」とか「父性隠喩」なんて難しく呼ぶこともある。ラカンは、父の名の働きが主体を命名し、命名することが症状を固定するという。これはどういうことなんだろう。ここでいう「命名」っていうのは、実際に付けられたキミやボクの名前とは関係がない。まあ、象徴界における位置づけ、とでも言いましょうか。かりに象徴界をひとつの世界になぞらえるなら、父の名のはたらきは、キミやボクをその世界にきちんと登録してくれるってわけだ。ここで登録を「存在証明」と考えるなら、さっきの話とつなげて、「命名が症状を固定する」ということになる。

 これが精神病の場合には、さっきも言ったように、4つめの輪っかがうまく働かなくなる。これを父の名の排除、なんて言うこともあるけれど、もう意味はわかるよね。そこで精神病患者は、父の名にかわるような症状を作り出して、輪っかどうしをつなぎとめようとする。それが幻覚だったり妄想だったりするというのがラカンの説明になるわけだ。ただし、前にも言ったように、ラカンの理論は精神病については少し眉唾、というのが臨床医である僕の立場だ。「ボロメオの輪」とか言い出したら、そりゃそういう結論になるだろうなあ、くらいに聞いておいてほしい。

 でも、ラカンのジョイスについての有名な議論は、臨床よりは批評とか卒論とかに応用がききそうだから、ここで簡単に紹介しておこう。

 かつてジェームス・ジョイスというアイルランド出身の小説家がいた。みんなも読んだことはなくとも、名前くらいは聞いたことがあるよね。人によっては20世紀最大の小説家とも言うこの天才は、『ユリシーズ』や『フィネガンズ・ウェイク』といった傑作を残したことで知られている。

 ジョイスの小説では、あまりたいした事件は起こらない。1922年に出版された代表作『ユリシーズ』は、ジョイスの世界的な名声を決定的なものにした古典的傑作だけど、この小説は要するに、主人公レオポルド・ブルームの一日の行動を描いただけの作品だ。つまり、ブルームが朝ごはんを食べ、葬式に出てから仕事先へ行き、昼食をとり、酒場に寄ってから帰宅し、奥さんと愛しあうという、何の変哲もない一日の出来事が描写される。その手法としての「意識の流れ」はあまりにも有名だ。簡単に言えば、ジョイスはこの作品で、物語の筋や出来事について描くという小説のあり方を決定的なまでに変えてしまったんだね。彼はむしろ、描写の技術や特異な文体を作りあげることで、まさに純粋な「小説という出来事」を作り出してしまったわけだ。

 この傾向は、1939年に発表された『フィネガンズ・ウェイク』で頂点に達する。そこでは人類の歴史が主人公イアリッカーという男の一夜の夢に凝縮されている。ジョイスはこの作品で、言葉遊びどころか、新しい言葉を作り出そうと試みた。完成までに16年もかかるわけだよ。膨大な量の外国語と英語が融合された言葉が駆使されたこの作品は、長らく翻訳不可能といわれていたけれど、かの柳瀬尚紀さんが翻訳に挑んで1993年に『フィネガンズ・ウェイクI~IV』(河出書房新社)が出そろった。これはかなり画期的な仕事だったと思うなあ、余談ながら。ジョイスの弟子に、これまた有名なサミュエル・ベケットという小説家がいるけど、彼はこの作品について「これは何かについて書かれたものではなく、その何かそれ自体なのである」と言っている。けだし名言だね。出来事を描く小説じゃなくて、もはや小説が出来事そのものになってしまった、というわけだ。これって、ある意味、小説家の究極の夢なんじゃないだろうかね。

 とまあ、文学史についてはこれくらいにして、ラカンは彼のあまりにも特異な作風に注目した。ジョイスがなしとげた、このとんでもない言語の実験は、ほとんど精神病の症状みたいなものじゃなかろうか、と考えたのだ。

 もちろんジョイスは精神病患者じゃあなかった。ただ、ジョイスの周りには、精神病的なことがらがたくさん起こったのも事実だ。たとえば、ジョイスはちょっとしたことで名誉を傷つけられたと憤慨し、しょっちゅう訴訟沙汰を起こしている。ときには奥さんと親友の過去の関係について疑い、奥さんを激しくなじったりもした。憎らしい相手は小説の人物として登場させてやっつける。故郷ダブリンへの激しい愛憎は、彼のすべての作品がこの地を舞台としていることからもうかがえる。要するに、ジョイスは一貫して思いこみが激しくて執念深い、ちょっと妄想がかったところのある人だったようなのだ。また、彼の愛娘ルーシアは、弟子ベケットへの失恋をきっかけに統合失調症を発病している。ジョイスは娘のために、それこそ狂ったように治療を求めて奔走した。かのユングはルーシアの20番目(!)の主治医だったんだけど、そのユングも、ジョイスの精神病的な傾向を認めていたみたいだ。

 だから簡単に言えば、ジョイスは妄想を持たないパラノイア患者で、作品がその妄想の代わりになったということになる。ラカンはジョイスの作品が、無意識とは関係なく作られているとみなす。つまり、それは意識的に発揮された「技術」の産物だってことだ。この指摘はちょっと面白いね。シュールレアリズム運動の人たちに限らないけど、無意識こそがインスピレーションの源泉で、無意識をじょうずに解放できれば素晴らしい作品ができると信じている芸術家はいまだに多いからね。でも、そういうことを主張するような人の作品ほど、頭でっかちで観念的なものになりがちにみえるのは、どうしてなんだろう。これは僕の偏見なんだろうかなあ。

 ラカン理論によれば、もしジョイスが作品を書かなかったら、彼は精神病を発症していたことになる。なぜなら、ジョイスにおいては、「ボロメオの結び目」が外れかけていたからだ。もっと具体的に言えば、ジョイスの場合、現実界(R)と象徴界(S)が、想像界(I)を抜きにして、直接に絡まり合っていたってわけだ。

 なぜそう言えるかって?さっき引用したベケットの言葉を思い出してほしい。ジョイスの小説は、「何かについて書かれたもの」じゃない。これが何を意味するか。ふつう僕たちが書いたり喋ったりすること、つまり象徴的な行為は、必ず「何かについて」なされている。これはわかるね。僕たちが言葉をつかって行うことのほとんどは、きまって「何かについて」だ。こういう行為においては、僕たちはまず「現実」から意味を受け取り、それを言葉に乗せて、たがいに伝達しあっている。言い換えるなら、ここで現実界は、想像界(=「意味」)を介して、象徴界に影響を及ぼしていることになる。

 しかしジョイスの小説は「何かそれ自体」だという。この言葉の意味するところはもうわかるね。ジョイスの言葉は、そのまま出来事、つまり「現実」なんだ。だからジョイスの小説をふつうに読もうとしても、かなり難解で意味が取りづらいし、素晴らしい情景がありありと浮かんでくる、なんてこともない。ラカン的な言い回しを使うなら、そこにあるのは純粋な享楽ということになる。言語遊戯、言語実験そのものの享楽ってことだ。だから翻訳が難しいのも当然だ。アイルランド人の享楽を日本人の享楽に置き換えなきゃならないんだからねえ。

 ジョイスの場合、外れかけた結び目をつなぎ止め、かろうじて精神病が発症することをふせいでいたものが、「ジョイスのエゴ」(=「ジョイスの文体」)ということになる。これがあの「父の名」の代わりとなって、ジョイスの精神を支えていたってわけだ。

 実は僕も、こういうぎりぎりの状況で作品を作っている作家につよい興味がある。とりわけ統合失調症、つまりかつての精神分裂病に親和性のあるタイプの作家たちが大好きだ。画家で言えばフランシス・ベーコン、映画監督ならデヴィッド・リンチ、漫画家なら吉田戦車かな。ジョイスと違って、みんな視覚系の作家ばかりだけど。彼らはみんな、実生活にあってはとりたてて病的な問題はない人たちばかりのようだ。いまさらベーコンの同性愛を異常とみなす人はいないだろう。リンチはちょっと風変わりな癖や趣味があるみたいだけど、せいぜい「変わった人」のレヴェルだし、吉田戦車は(風評によれば)もちろん常識的な大人だ。

 にもかかわらず、彼らの作品には、まさに「何かそれ自体」としか言いようのないインパクトがある。これをラカン的に言い換えるなら、彼らにおいては、現実界と想像界が直接に結びついてしまった状態ということになる。象徴界の介入を抜きにして、こういった結びつきが起こるとどうなるか。現実界は言葉という網の目をかけられることで、はじめて意味へと翻訳することが可能になる。この手続きがなされていないから、おそろしくインパクトのあるイメージが、彼らの作品にはしょっちゅう出現するわけだ。だからその印象を言語化したり、あるいはシンボリックに意味を解釈したりすることは難しい。彼らの作品については、『文脈病』(青土社)でもっとつっこんだ分析をしているから、関心のある人はそちらもどうぞ。

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