生き延びるためのラカン ⑦

https://www.cokes.jp/pf/shobun/h-old/rakan/12.html【生き延びるためのラカン 第12回 欲望はヴェールの彼方に 】より

前回はちょっとヘンタイ話ばかりで引いちゃった人も居たかもしれないね。でも正直な話、僕自身は凡庸なるヘテロセクシャルだけど、フェチの話は大好きだ。これ、僕のオタク好きとなにか関係があるのかもしれない。つまりね、僕自身は特定のフェチに関心はないけれど、「なにかを欲望する人」のことは好きなんだ。こういうの、なんて言うんだろうね。「他人の欲望フェチ」とでも? でも、「なにかが好きな人が好き」というのは、結構みんなそうなんじゃないかな。猫はあんまり好きじゃないけど、猫好きの女の子は好き、とかね。僕自身も、熱心なアニメファンとはとても言えないけど、でもアニメが好きな人たち、つまり「オタク」や「やおい」のことは好きだもの。

 ちょっと唐突だけど、むかし青山二郎というひとがいた。知る人ぞ知る達人で、しかし何の達人かと言われても判然としない。ただ陶器の天才的な目利きで、装釘家にして文筆家でもあった。そんな紹介よりも、あの小林秀雄が「あいつだけは天才だ」と認め、しかもその小林をとっちめて泣かせたことがある唯一の人間と言えば、その凄さが伝わるだろう。このひとの周りには、「青山学院」と言われるほど、錚々たる昭和文壇の名士たちが集ったという。しかし、彼らが青山のどこに惹かれたのか。それは「骨董鑑定眼」とか「人間的魅力」とか言ってしまえば、簡単に説明が付いてしまう。でも僕には、青山の最大の魅力が、彼の骨董、とりわけ陶器に対する愛情が、言い換えるなら美に対するあくなき欲望が、彼の最大の魅力だったんじゃないかと考えている。

 小林秀雄だって、まず青山のそうした欲望に惹かれて、その欲望に惚れ込んだ結果として骨董に手を出すようになったんじゃないだろうか。小林と青山は一時期仲違いするんだけど、それからも小林は、青山が所有していた陶器を手放したと聞くや、すぐその店に駆けつけてそれを買ってしまったらしい。なんかちょっと、あさましい感じもするけど、むしろほほえましいと見るべきだろうね。小林は青山の鑑定眼を信じて「お宝」を買ったわけじゃないだろう。「あの青山が求めたもの」という点にだけ、価値があったんじゃないだろうか。

 前に、「欲望は他者の欲望」って話をしたよね。そのとき、欲望がどんなに間接的なものか、っていう話を十分にしたと思うけど、またこの話をするのは、欲望に対するヴェールの効果をはっきりさせておくためだ。そう、前回ラカンがフェティシズムについて言った言葉、「なぜ覆いは人間にとって、現実よりも価値があるのか?」ということについての話だ。ただしこれは、フェティシズムだけに限らない。エロティシズム一般に、こういう間接性の問題は、かなり深く関係してくる。

 男性雑誌なんかでときどき話題になるのが、「ヌードの女性と、裸にエプロンだけつけた女性と、靴下だけの女性とでは、どの写真に一番興奮するか」といった記事。まあ落としどころは最初からわかっていて、つまるところ「和服に割烹着姿が」「いやなんといっても喪服が」などという「通」の意見交換で締められるというパターンが予測できるわけだね。これ、ややこしく言い換えるなら、「性的に成熟度の高い男性ほど、控えめな露出に興奮する」という主張が背景にあるわけだけど、記事としての質はともかく、ここには一定の真実がある。

 そもそもエロティシズムの本質がチラリズムであるということは、古代エジプトのロゼッタストーンにも記載があるほどで(ウソ)、いわゆる「パンチラ」なんてのは、その代表格だろうね。これについては、あの『美人論』などで知られる井上章一さんが最近出した面白い本がある。そのタイトルが『パンツが見える』(朝日新聞社)。なんか身も蓋もないタイトルだって? いやいや、井上さんは確信犯だ。チラリズムについて書かれた本に、こういうベタなタイトルをつけることの逆説的効果を知り尽くしているに違いない。それはともかく、内容的にもビジュアル的にもなかなか面白い本で、お勧めだ。

 チラリズムに関する部分だけ、かいつまんで紹介してみよう。井上さんが注目するのは、例の白木屋の火事。白木屋といっても、あのアフロの会長が経営している居酒屋チェーンじゃないよ。日本橋にあった白木屋百貨店(現東急百貨店)のこと。1932年(昭和7年)にここで大火事があった。これが昭和に入って初めての高層建築物の火災で、8階建てのビルの4階以上が焼け、火災による死者が1人、墜落による死者が13人、負傷者が67人という大惨事だった。問題はこの墜落死ね。命綱を伝って下りていく女性店員たちが、着物の裾がまくれて、火事見物に集まった野次馬に陰部を見られるのが恥ずかしいと、手で裾を押さえたために墜落したというんだ。その教訓から、女たちもパンツをはくようになったという、有名な「白木屋ズロース伝説」がある。

 井上さんは、この伝説を否定する。井上さんの調査によれば、戦前の日本では、和服がめくれて陰部が露出してしまうことは珍しくなかった。また女性たちも、現代人が心配するほどには、それを恥ずかしがっていなかった。ましてパンツを穿くようになってからは、それは一種の貞操帯のような意味を帯びこそすれ、見られて恥ずかしいものではなかったというのだ。それが恥ずかしいことに変わったひとつのきっかけは、1955年に公開されたマリリン・モンロー主演の映画『七年目の浮気』にあったのではないかと井上さんは推測する。例の、地下鉄の排気口から吹き上がる突風でモンローのスカートがめくれあがるという、あまりにも有名なシーン。映画の影響と言うよりは、これが当時の羞恥感覚を象徴するようにはたらいたわけだね。かくしてパンチラを恥じる傾向は1950年代後半にはじまり、1960年代にはいっそうひろく普及して、ミニスカートの流行期にはしっかりと定着する。女たちは「スカートの下の劇場(上野千鶴子)」に刺激的なパンティを深く秘めるようになり、これとともに潜在していた男たちのパンチラへの欲望もめざめたってわけだ(関係ないけど、最近「パンティ」ってあんまり聞かないよね)。

 ここで重要なことは、新たな羞恥心の誕生とともに新しい欲望が発見されることだ。隠されていない時代には、さほど価値がおかれていなかったものが、恥じらいとともに隠されるようになってからは、逮捕されてでも覗いたり盗撮したりしてみたいほどの欲望の対象になったということ。ちなみに「見られたくないならミニスカートなんかはくな」というのは、無粋とかなんとか以前に、人間について何もわかっていない人の言いぐさだ。見られたくないからこそ、スカートをはくんじゃないか。え? わかんないって? でも説明はしないよ。ただ「誘惑するほうが悪い」ってのは、レイプ犯の言い訳とほとんど一緒だぞ。

 ここには明らかに「覆い」「欲望」「リアリティ」に絡むテーマがひそんでいる。秘密にされれば知りたくなる。見ることが禁じられると、いっそう見てみたくなる。「開かずの間」のドアは開けてみたくなる。これはほとんどの人間に、普遍的にある心の動きだろうね。話を広げるなら、これは欲望だけに限った話じゃない。いわゆる「抑制の美学」ってのは、だいたいにおいて「覆いの美学」だ。こういう美学については、僕たち日本人の独壇場だったわけだ。控えめであるほどリアルであるということ。これは、とても重要なことなんだ。

 エロだけの問題じゃないよ。ホラーや怪談だってそうだ。幽霊は間接的に現れるほど恐ろしい。僕は前に中田秀夫監督の『女優霊』っていう、とても怖い映画を見たことがあるんだけど、この映画の中でも一番怖いのは、幽霊がモニターの中に、突然出現するシーンだった。後半の、幽霊が直接人を襲うシーンって、実はあんまり怖くない。こういうホラーな演出については、ハリウッドよりも邦画に一日の長があるわけで、それはひとえに日本の表現が、こうした「抑制の技術」において優れているからに他ならない。怪談だってそうだよね。

 僕がこれまで読んだ怪談で、トップクラスに怖かったのは、上田秋成『雨月物語』の中の一編『吉備津の釜』という話。だいたいこの『雨月物語』自体が、ホモセクシュアルやペドファイルやネクロフィリアといった倒錯的な要素がからむ傑作怪談揃いで、精神分析的にも興味深いんだけど、『吉備津の釜』はその中でもとりわけ怖い。あらすじを全部紹介する余裕はないから、クライマックスのラストシーンだけを紹介しておこう。これから愉しみに読みたい人は、ネタバレだから気をつけてね。ちなみに原文はここにある(http://etext.lib.virginia.edu/japanese/ueda/ugetsu/UedUget.html)。

 浮気相手と出奔した正太郎は、彼を怨みつつ死んだ亡妻・磯良の死霊に愛人を殺され、みずからも殺されそうになる。彼は陰陽師の勧めで、42日間(磯良が死んで49日目まで)、家のあちこちに護符を貼り、閉じこもることになった。磯良の死霊は、毎夜家の周囲を徘徊し、恐ろしい叫び声をあげながらも、護符のせいで家に入ることが出来ない。正太郎はおびえながらも、なんとか42日目の夜を迎える。やがてあたりが白々と明るくなり、夜が明けたと思った正太郎は、喜んで隣家の親戚に声を掛け、外へ出た。その途端に、あたりに響く正太郎の悲鳴。おどろいた親戚のものが外へ出てみると、夜明けどころか、まだ寒々とした中天の月明かり。ともし火を掲げてあたりを見渡すと、正太郎の死体も何もなく、ただ開けた戸のわきにべっとりと血のりが付いて、まだ滴り落ちている。ふと軒先を目をやると、ちぎれた男の髻(もとどり)が引っ掛かっていた…。

 あらすじだけの怪談はつまらないものだけど、怖い感じはわかってもらえたかな? このお話の中には、磯良がどんな格好をしていて、どんな形相で正太郎に襲いかかったかとか、ぜんぜん書かれていない。夜中なのに明るくなるのも、死霊がなんらかの方法で家をライトアップしたのか、火の玉でも使ったのか、さっぱりわからない。外に出た正太郎がどんなことになったのか、これもわからない。きわめつけは最後の、軒先に引っ掛かった髪の毛。死体や生首とかじゃなくて、髪の毛だけというのが実に効いているね。「そのものずばり」ではなく、その周辺や効果だけを描くのは、こんなに有効なんだ。そこに想像の余地があるから怖いのか? いや、違うと思うね。むしろ想像の余地なんかないくらい怖い。これがハリウッドあたりの映画監督なら、この磯良襲撃シーンをCGかSFXを使って具体的に描きかねないなあ。でも、もし死霊の姿が見えてしまったら、この恐怖やリアリティも半減してしまうだろうね。想像の余地なんかがあるから、そういうことになるんだ。幽霊はよく見えないほど怖いので、これも「覆い」のリアリティ。ひょっとすると例の「足がない」ってのも、覆いの効果かもしれないね。

 僕たちが本質的に精神分析的な存在であるという言わざるを得ないのは、こういうことがあるからだ。もし僕たちが刺激に対して動物的な欲望を持つだけの存在であるとすれば、欲望と刺激の関係はとても単純なものになるだろう。そして、刺激は強いほど、むき出しであるほど欲望を満たしてくれるということになるだろう。抑制された表現の方がリアルであると感ずることが出来るのは、僕たちの感性がとことん精神分析的なものでできているからにほかならない。どういうことか。むき出しの全体よりは、その断片、あるいはそれを連想させる刺激の方を、ときにリアルに感ずるということ。それはつまり、僕たちの感覚が徹底して「隠喩」的なものに反応しやすいという事実を意味しているわけなんだ。

 ちょっと余談めくけど、隠喩をつうじて人間を理解しようという考え方は、基本的に解釈学に近い。でも、ある点で、精神分析は解釈学とはまったく違うものになる。この話をすると長くなってしまうんだが、人間が人間を、あるいは人間の作り出したものを「解釈」するときには、そこに「解釈学的循環」がおこるとされる。どういうことかって? つまり、なにかを理解するには、それに先だって、理解の文脈というか、枠組みを必要とする。これは先入観と言ってもいい。理解が進むにつれて、当然ながら先入観は修正される。ところが修正された先入観は、完全かというとそうじゃない。前よりはちょっとマシというくらいのものだ。しかし理解を先に進めるには、この新たな先入観をもって臨むしかない。こうやって、先入観→理解→先入観→理解…という具合に「解釈」が進行することを「解釈学的循環」と呼ぶ。

 じゃあ人間は何を持って人間を理解するか? 多くの場合、その唯一の基準が「自分」だ。自分のものの見方、自分の考え方を基準にして、誰でも他人に共感したり、理解したりしようとする。これは大きく見れば、現象学にも通ずる態度なんだ。そして、精神分析は、この点で解釈学とたもとを分かつんだね。「共感」や「理解」っていうのは、基本的に想像的ないとなみだ。これで病気がすべてわかったら、苦労はしない。でも多くの場合、病気の症状は共感を越えて起こる。いや、ことは病気に限らない。フェチや特殊な欲望についても、どうしても共感的理解には限界がある。

 こんなときは、共感のしくみから疑ってみようというのが、ラカンの基本姿勢だ。共感というのは想像的なもので、それはつまるところ、自己イメージから出発している。「ああ、わかる、わかる」っていうのは、そういう感覚でしょう。しかし「自己」って、そんなに根拠がハッキリしたものだっけ? これがラカンの突きつけた問いだ。自己について考えたり、じぶん探しに熱中してみたりしたところで、誰も答えをみつけた者はいない。むしろほとんどの場合、その無根拠さに気づいて唖然とするはずだ。そう、ここにもまた、解釈学的循環の罠がある。だから「自己」イメージに基づく「共感」なんて、およそ意味がないんだ。それは他人の中に自分自身のイメージを発見するだけの、ナルシシックな営みなんだから。

 じゃあ、どうするのか。ここでラカンが注目するのが、すでに述べてきた言葉、つまりシニフィアンの効果だ。言葉は大いなる他者であるから、これに基づいた解釈は、少なくともナルシシズムの影響は受けにくい。そう、精神分析というのは、分析家が患者を自己流で勝手に分析したり、お手軽に自己投影をしようという試みじゃない。分析家に対する教育分析や、転移→解釈→徹底操作といった過程を導入することで、こうした悪しき「解釈学的循環」を防ぎ、真に治療的な解釈をもたらすためのテクニックなんだ。

 そこで解釈されるべき「覆い」こそが、「症状」だってこと。そう、ここまでくれば、どうして「ヒステリー」が精神分析の起源となったのか、その理解まであと一歩だ。といわけで、今回はこれでおしまい。