赤城山西福寺

https://saifukuji-k.com/about.html 【赤城山西福寺】より

西福寺の歴史

<曹洞宗>赤城山西福寺は、1534年(室町時代後期)、開山 芳室祖春(ほうしつそしゅん)大和尚によって開かれました。約500年の歴史を持っています。ご本尊様は阿弥陀如来三尊で、鎌倉時代の作です。本来、曹洞宗では釈迦如来をご本尊としてお奉りします。

しかし、当寺は初め天台宗の寺でありました。その後、本尊阿弥陀様をそのまま受け継いで曹洞宗に改宗し、800年以上護寺してきました。本堂大間の格天井の菊の御紋は、幕末期の1860年前後、桑名藩主 松平定敬(さだあき)公が京都所司代を勤められた頃に頂いたものです。

当時西福寺の所有していた土地が幕府の天領地であり、桑名藩の管轄だったことから、定敬公のお計らいで当寺の功績に対し天皇家から頂戴しました。

 この天皇家の十六菊紋と五七桐紋は、当寺のご本尊の前机や本堂の屋根ぐし、開山堂の向拝に施されています。

開山堂とは

開山堂とは、そのお寺を開かれた御開山様である初代の御住職様をおまつりする御堂のことをいいます。

西福寺ではこの開山堂に、御開山芳室祖春大和尚様と曹洞宗の開祖様である道元禅師様が中央に、そしてその周りにはお寺を守ってこられた歴代の御住職様がおまつりされています。

この開山堂は、当山23世蟠谷大龍(ばんおくだいりゅう)大和尚様により建立され、嘉永5年(1852)起工、安政4年(1857)に完成しました。

建築の様式は、鎌倉時代禅宗仏殿構造、屋根は茅葺き二重層、上層部入母屋造り、総欅五間四方、唐破風向拝を有しています。

また開山堂内外には、<幕末の名匠 石川雲蝶>作の彫刻や絵画が施されています。

開祖道元禅師様を題材にした作品が多く、特に堂内の天井三間四方全面に施された大彫刻、「道元禅師猛虎調伏の図」は、透かし彫りの繊細さと極彩色のあざやかさで、観る人に感動を与えます。

開山堂をお参りし、彫刻を観ていると、高僧、道元禅師様が、すぐ傍で語りかけてくださるような、清々しさを感じます。

これらの石川雲蝶の作品は新潟県文化財に指定されており、その彫刻の見事さから又の名を「越後日光開山堂」とよばれています。


https://seihouji.com/blog/389872.html  【曹洞宗 赤城山清法寺 3月11日  托鉢 (上野駅にて)】 より

台東区にある曹洞宗・玉宗寺住職だった祖父は1945年の3月10日に東京大空襲で亡くなりました。

毎年 命日である三月十日の早朝にその祖父の供養の為、上野駅で托鉢を行じます。

が、しかし。。今年は初の寝坊。というか目覚ましが鳴らなかった。そりゃそうでセットし忘れ。というわけで遅ればせながら次の日の3月11日に上野駅にて托鉢。

托鉢中、鳩には人気がありました。

今年は新型のコロナウイルスの影響もあり網代笠でなくて虚無僧の笠。で、マスクしてお経読んだら酸欠でものすごく苦しかったです。仕方ないから鼻は出しました。

男僧だった祖父、尼僧だった祖母 一度も会った事ありません。。

こうやって戦禍は永く連綿と続いていきます。。



http://www.ne.jp/asahi/sakawa/windbell/sora_takuhatu.html  【托  鉢】より

■ 曾良随行日記 ■ 

一 十六日 天気能。翁、館ヨリ余瀬ヘ被二立越一。則、同道ニテ余瀬ヲ立。及レ昼、図書・弾蔵ヨリ馬人ニテ 被レ送ル。馬ハ野間ト云所ヨリ戻ス。此間弐里余。高久ニ至ル。 雨降リ出ニ依、滞ル。此間壱里半余。宿角左衛門、図書ヨリ状被レ添。

一 十七日 角左衛門方ニ猶宿。雨降。野間は太田原ヨリ三里之鍋かけヨリ五、六丁西。

一 十八日 卯尅、地震ス。辰ノ上尅、雨止。午ノ尅、高久角左衛門宿ヲ立。 暫有テ快晴ス。馬壱疋、松子村迄送ル。此間壱リ。松子ヨリ湯元へ三リ。未ノ下尅、湯元五左衛門方ヘ着。

一 十九日 快晴 。予、鉢ニ出ル。朝飯後、図書家来角左衛門ヲ黒羽へ戻ス。午ノ上尅、湯泉ヘ参詣。神主越中出合、宝物ヲ拝。与一扇ノ的躬(射)残ノカブラ壱本・征矢十本・蟇目ノカブラ壱本・檜扇子壱本、金ノ絵也。正一位ノ宣旨・縁起等拝ム。夫ヨリ殺生石ヲ見ル。 宿五左衛門案内。以上湯数六ヶ所。上ハ出ル事不レ定、次ハ冷、ソノ次ハ温冷兼、御橋ノ下也。ソノ次ハ不レ出。ソノ次温湯アツシ。ソノ次、温也ノ由、所ノ云也。

  温泉大明神ノ相殿ニ八幡宮ヲ移シ奉テ、雨(両 )神一方ニ拝レセ玉フヲ、

    湯をむすぶ誓も同じ石清水   翁

  殺生石

    石の香や夏草赤く露あつし

正一位ノ神位被レ加ノ事、貞亨四年黒羽ノ館主信濃守増栄被二寄進一之由。祭礼九月二十九日。

一 廿日 朝霧降ル。辰中尅、晴。下尅、湯本ヲ立。ウルシ塚迄三 リ余。 半途ニ小や村有。ウルシ塚ヨリ芦野ヘ二リ余。湯本ヨリ総テ山道ニテ能不レ知シテ難レ通。

一 芦野ヨリ白坂ヘ三リ八丁。芦野町ハヅレ、木戸ノ外、茶ヤ松本市兵衛前ヨリ左ノ方ヘ切レ (十町程過テ左ノ方ニ鏡山有)、八幡ノ大門通リ之内、左ノ方ニ遊行柳有。其西ノ四五丁之内ニ愛岩(宕)有。其社ノ東ノ方、畑岸ニ玄仍ノ松トテ有。玄仍ノ庵跡ナルノ由。其辺ニ三ツ葉芦沼有。見渡ス内也。八幡ハ所之ウブスナ也 (市兵衛案内也。スグニ奥州ノ方、町ハヅレ橋ノキハヘ出ル。)

一 芦野ヨリ一里半余過テ、ヨリ居村有。是ヨリハタ村ヘ行バ、町ハヅレヨリ右ヘ切ル也。

一 関明神、関東ノ方ニ一社、奥州ノ方ニ一社、間廿間計有。両方ノ門前ニ茶や有。 小坂也。これヨリ白坂ヘ十町程有。古関を尋て白坂ノ町ノ入口ヨリ右ヘ切レテ旗宿ヘ行。廿日之晩泊ル。暮前ヨリ小雨降ル(旗ノ宿ノハヅレニ庄司モドシト云テ、畑ノ中桜木有。判官ヲ送リテ、是ヨリモドリシ酒盛ノ跡也。土中古土器有。寄妙ニ拝。)

一 廿一日 霧雨降ル、辰上尅止。宿ヲ出ル。町ヨリ西ノ方ニ住吉・玉 嶋ヲ一所ニ祝奉宮有。古ノ関ノ明神故ニ二所ノ関ノ名有ノ由、宿ノ主申ニ依テ参詣。ソレヨリ戻リテ関山ヘ参詣。行基菩薩ノ開基。聖武天皇ノ御願寺、正観音ノ由 。成就山満願寺ト云。旗ノ宿ヨリ峯迄一里半、麓ヨリ峯迄十八丁。山門有。本堂有。奥ニ弘法大師・行基菩薩堂有。山門ト本堂ノ間、別当ノ寺有。 真言宗也。本堂参詣ノ比、少雨降ル。暫時止。コレヨリ白河ヘ壱里半余。中町左五左衛門ヲ尋。大野半治ヘ案内シテ通ル。黒羽ヘ之小袖・羽織・状、左五左衛門方ニ預置。 置。矢吹ヘ申ノ上尅ニ着、宿カル。白河ヨリ四里。 今日昼過ヨリ快晴。宿次道程ノ帳有リ。

○白河ノ古関ノ跡、旗ノ宿ノ下里程下野ノ方、追分ト云所ニ関ノ明神有由。相楽乍憚ノ伝也。是ヨリ丸ノ分同ジ。

○忘ず山ハ今ハ新地山ト云。但馬村ト云所ヨリ半道程東ノ方ヘ行。阿武隈河ノハタ。

○二方ノ山、今ハ二子塚村ト云。右ノ所ヨリアブクマ河ヲ渡リテ行。二所共ニ関山ヨリ白河ノ方、昔道也。二方ノ山、古 哥有由。

    みちのくの阿武隈川のわたり江に人(妹トモ)忘れずの山は有けり

○うたゝねの森、白河ノ近所、鹿島の社ノ近所。今ハ木一、二本有。

    かしま成うたゝねの森橋たえていなをふせどりも通はざりけり(八雲ニ有由)

○宗祇もどし橋、白河ノ町(石山より入口)より右、かしまへ行道、ゑた町有。其きわに成程かすか成橋也。むかし、結城殿数代、白河を知玉フ時、一家衆寄合、かしま ニて連歌有時、難句有レ之。いづれも三日付ル事不レ成。宗祇、旅行ノ宿ニテ被レ聞之て、其所ヘ被レ趣時、四十計ノ女出向、宗祇に「いか成事にて、いづ方へ」と問。右ノ由尓々。

女「それハ先に付侍りし」と答てうせぬ。月日の下に独りこそすめ

付句  かきおくる文のをくには名をとめてと申ければ、宗祇かんじられてもどられけりと云伝 。

那須湯本での2日目、曾良さんは「托鉢」に出た。

旅装束は僧形だったからそれ自体に違和感はないが、なぜだろう、という疑問は消えない。懐が心細かったのか? そんなはずはない。黒羽を出発してからまだ3日、財布はむしろ重過ぎるくらいだろう。それに托鉢で得る金額など知れたもの、二人の糊口をしのぐほどにはとても及ぶまい。

 目的はお金ではなく食料ということも考えられる。那須湯本は温泉地だ。当時の温泉は、湯治が目的だから基本的には自炊である。だが、金さえあれば、その辺はどうにでもなったのではないか。

 では、なぜ?

いよいよ「みちのく」に踏み入るにあたり、曾良さんは、万一飢えたときのために練習をしたのではないか、といわれている。なるほど。それは考えられる。なにしろ曾良さんは第一級の秘書、そういう時の危機管理も徹底していただろう。

 もっと納得できる解釈もある。芭蕉「忍者」説だ。「托鉢」に名を借りて情報収集ではないか。つまりこのようにして、芭蕉翁も曾良さんも時折不可解な行動をとるという。うん、あたしは、こっちのほうに一票を投じよう。(^0^)