上杉謙信 越山の地

http://snow-country.jp/pamphlet/143.php  【魚沼地域の山岳信仰・修験道】 より

雪国観光圏を構成する地域には、多くの山岳地帯が存在し、古代のころから霊山として多くの人々から崇められてきた歴史があります。

山岳信仰とは、簡単に言うと、山を神聖視して崇拝の対象とする信仰のことを意味します。その中で、「山伏」に象徴される「修験道」(注1)が浸透していきました。特に、四方を山に囲まれた南魚沼は、信仰の対象として、また実修の場として、「霊場」たる条件を持った山岳を有する地域であることが知られています。

南魚沼市に所在する八海山(はっかいさん)は、駒ヶ岳、中岳とともに、「越後三山」と称されています。これらの山々は、里から眺められる特徴的な山岳であるため、人々から「霊山」として崇められるようになっていきました。

そもそも八海山に対する原始的な信仰の始まりは、農作を守ってくれる水分神(みくまりのかみ)や作神が山に鎮まりましている、というものだったと考えられています。

麓に住む人々は、あえて山には入山せず、山麓の里地に鳥居や小さい祠を作って遥拝し、祭祀してきたという歴史があり、その信仰は現代まで受け継がれてきました。

また、頂上に広大な湿原を持つ苗場山は、古くから「天狗の苗代」、「神の苗場」として神聖視されて山であることが知られています。

南魚沼における山岳信仰は、在地の山岳崇拝に外来の文化の伝達者である遊行宗教者たちの活動が加わり、ますますの発展を遂げていくのですが、特に吉野・熊野の修験山伏たちや白山・石動山など北陸霊山の聖たちの影響もあり、これに関東霊山の信仰も加わって活況を呈していくことになります。

(注1)修験道とは、山へこもって厳しい修行を行うことにより、悟りを得ることを目的とする山岳信仰が仏教に取り入れられて成立した日本独特の宗教を意味します。

※参考文献 宮家準編『修験者と地域社会-新潟県南魚沼の修験道-』(名著出版刊、1981年)

おわりに

この特集は、雪国観光圏推進協議会・雪国文化WGの平成29年度学習会を通じて調査・報告したことを、座長の佐藤雅一を中心に原眞・中嶋紀子・田村恭平・安立聡・小沼香奈・笠井洋祐・佐藤信之・高木公輔・田村司が協議し、分担執筆した。

また、一般社団法人雪国観光圏の井口智裕・細矢智子から助言をいただいた。

以下の方々から、ご指導とご協力を得た。感謝を申し上げます(敬称略)。

月岡恵・本間敏則


http://snow-country.jp/pamphlet/133.php 【北関東の奥座敷 みなかみ町】 より

みなかみ町は上野国(こうずけのくに)の最北端にあり、北は三国山脈を境に越後と接しています。この上越国境には人々を阻むかのように険しい山々が聳え立っていますが、人々は逞しく、すでに古代以前から三国街道と清水峠道という二つの道を使って活発に往来していたようです。特に三国街道は佐渡から江戸までをつなぐ重要な流通路として、江戸時代には猿ヶ京に関所が置かれていたほどです。三国とは、越後、上野、信濃三国の境目という意味であり、戦国時代には上杉、北条、武田といった三大勢力が、このみなかみ周辺の上野領有をめぐって激しい争奪戦を繰り広げていたのです。

越後と上野をつなぐ三国街道と清水峠道

天正年間前後の勢力概念図

上杉、武田(真田)、北条の三大勢力が上野の地で激しくぶつかり合い、その勢力図は数年単位で塗り替えられていました。武田勝頼はみなかみ町布施地区の在地勢力である原澤木工助ら六人衆に朱印状(写真)を発行し、武田側に味方すれば沼田城を攻略した暁にそれぞれ十五貫文の土地を与えることを約束しており、これは当時の情勢を伝える貴重な資料です。なお、同じ年、武田の重臣・真田昌幸は、沼田城攻略のため、利根川の対岸に名胡桃城を築城しています。

室町幕府弱体後、約100年続いた戦国時代。上野国、現在の群馬県では甲斐・信濃の武田、相模・武蔵の北条、越後の上杉といった三大勢力が激しい攻防戦を繰り広げていました。その前半は越後の上杉勢が上野の最北端みなかみ町を足がかりとして、活発に関東進出を展開していたのです。当時、越後と上野をつないでいた三国街道と清水峠道は現在、一部が整備され、アウトドアや紅葉などの観光名所となり、シーズン中は多くの観光客で賑わっています。

室町幕府より東国経営を任されていた関東管領の上杉憲政は、相模国(小田原)を本拠地に関東を北上して勢力を拡大しつつあった北条氏に逐われ、清水峠を越えて越後に落ちのびたと伝えられます。その後、上杉謙信は三国街道を軍道として16回にわたり関東進出を行います。その謙信の死後、北条氏から上杉氏へ養子に入っていた景虎と、謙信の甥の景勝の間に家督争い「御館の乱」が起こると、北条勢が景虎応援のため清水峠を越えて出兵したことが上杉記に記されているのです。

江戸時代には「入鉄砲(いりでっぽう)に出女(でおんな)」といって江戸へ武具が入ることと、人質になっていた全国の大名の妻子が国元へ密かに帰ることを防ぐため、幕府は全国53ヶ所に関所を設けました。その一つとして三代将軍家光の頃、三国街道にも三国峠を越えた上野側に猿ヶ京関所が設けられ、江戸にとっての北の守りを担っていたのです。一方、清水峠道は現在のみなかみ町湯桧曽に口留番所が設けられ、一切の通行が遮断されてしまいました。猿ヶ京関所跡は現在、旧役宅が復元され、資料館として一般公開されています。そこには様々な人々が関所を通過した記録として各種通行手形等が残されています。また、三国街道沿いには宿場町が営まれ、永井宿や須川宿、塚原宿などは現在でもその面影を残しています。

三国街道と清水峠道沿線には数々の歴史遺産が残されています。これらは越後と上野が三国山脈という壁に阻まれながらも、二つの道を通って人々が活発に往来していたことを物語っているのです。

上杉謙信が死去すると上野をめぐる勢力図は一変して一時北条勢の勢力圏となりました。しかし、すぐに武田勢も巻き返して、当時、利根川東岸にあった北条勢の沼田城を攻略する前線基地として、武田の重臣・真田昌幸は対岸に名胡桃城を築城したのです。一方、豊臣秀吉は天下統一を目前に控え、大名間の争いを禁じる惣無事令を発布していました。このような中、上野では北条対真田による緊張状態が続き、ついに天正17(1589)年、北条方沼田城代の猪俣邦憲は、名胡桃城を一方的に占拠。この行為を惣無事令に違反したとして、秀吉は小田原城を攻撃する口実にしたのです。4ヶ月後、関東に覇を唱えていた北条氏は、空前の大軍勢の前にやむなく降伏。これにより秀吉に敵対する大きな勢力は消滅します。結果的にこの名胡桃城をめぐる小さな事件が戦国時代に終止符を打つことにつながったのです。

丸馬出、木橋、土塁、門などの一部が復元され、現地にはボランティアガイドが常駐しています。

上杉謙信(長尾景虎)は宮野城を足がかりに関東に進出しました。これを越山(えつざん)と呼び、10回以上も行われています。現在、本郭はホテル敷地内となり北を除く周囲は赤谷湖(人造湖)になっています。

石倉城跡

平井城(群馬県藤岡市)を根拠地としていた関東管領・上杉顕定(あきさだ)が、故郷越後との中継地として、文明~永正年間(15〜16世紀)に築城したと伝わります。利根川を望む台地の先端部分に立地しています。

小川城跡

上杉、北条、真田の勢力争いの真っ只中にあり、城主・小川可遊斉(かゆうさい)は巧みな外交、ゲリラ戦法などにより戦国時代をたくましく生き抜きました。天文~天正年間(16世紀)の築城。

明徳寺城跡

謙信の死後、上杉勢は上野から後退し、一時北条領となっていました。天正7(1579)年、武田勢の真田昌幸も勢力を拡大して利根川西岸に名胡桃城を築城すると北条方はこれに対峙する形で対岸に明徳寺城を築城しました。

如意寺

文明年間(1469〜1486)、真田以前の在地勢力であった沼田城主・沼田景光の姉の如意尼が草庵をつくらせたのが本寺の始まりと伝わっています。文久2(1862)年には地元出身の画家・林青山(せいざん)が本堂大広間の格天井に72面の天井絵を描いています(町指定重要文化財)。中央9面には竜が、その他は一枚一枚に花鳥獣が色彩鮮やかに描かれています。

建明寺

関東管領の上杉憲政が天文21(1552)年、小田原の北条氏に逐われて上杉謙信(長尾景虎)を頼って越後へ落ちのびる際に同行した秀翁竜樹という僧が、現在のみなかみ町粟沢地内に建立した小庵がその発祥とされる曹洞宗の寺院。作者、年代等詳細は不明ですが、上杉憲政の坐像と伝えられる木造が安置されています。建明寺は現在、粟沢から湯原へ移築されています。

綱子の宝篋印塔

永和2(1376)年、藤原守泰が大檀那となって数人の講中を結んで建立したと伝わります。宗教色の強い宝篋印塔で、塔身に「南無阿弥陀仏」と刻印されているのは群馬県内では唯一です。これは浄土信仰の表現で、当時の地方信仰のあり方がうかがわれる貴重な資料です。相輪上部と芝付が欠損。総高129.3㎝、基礎高38.2㎝、幅38.2㎝。

貞治の宝篋印塔

石造積上式塔の宝篋印塔で、みなかみ町上津地内の馬廻堂(地蔵堂)の境内に安置されています。塔身は縦に長い長方形で、四面に種子(梵字)が陰刻されています。総高110㎝、全階形関東型式に属す貞治年間(1362〜1367年)の宝篋印塔です。最上部に乗せられている相輪は他の石材とは明らかに異質なものであることから、別の相輪で代用されているものと思われます。

明徳の宝篋印塔

天台宗三重院の境内にある石造積上式塔の宝篋印塔。現存部の高さは約130㎝で、全階形関東型式に属しています。台石は二区に分けられ、「明徳五年」(1394)と彫られ、笠部分は上に向かって突起が付けられています。残念ながらこの台石と笠部分を除き、現在ある塔身および相輪は明らかに石材が異なることから、後世に取り替えられたものと考えられています。

上杉謙信の供養塔

天正6(1578)年3月13日、上杉謙信が春日山城で病死すると、当時の沼田城代・上野中務(なかつかさ)家成(いえなり)はその死を悼み、恕林寺(じょりんじ・現在のみなかみ町後閑)に供養塔を建立して越後へ去ったと伝えられます。「造立石塔一基」「奉為謙信法印」「天正戊寅四月○日」(1578)と彫られています。その後、恕林寺は戦火に遭い、供養塔は如意寺に移されました。

謙信のさかさザクラ

上杉謙信(長尾景虎)は三国峠を越えて10回以上関東進出を試みていましたが、その際、この地に立ち寄り、上杉憲政ゆかりの日枝神社を参拝しました。その時、謙信は春日山から持参していた桜の鞭を逆さに挿したところ、数年後には成長して桜が咲き始めたといわれます。推定樹齢約450年、樹高約10mのエドヒガンザクラで、地元では豊年桜とも呼ばれ、花の数で作柄を占っていました。