道鏡は修験道の人ですか?

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1195908026 【Yahoo!知恵袋】 より

奈良時代の道鏡は修験道の人ですか?

ベストアンサー

修験道の成立は、一般的には平安時代末と言われています。道鏡は奈良時代の僧ですから、少し時代が遡りますね。

道鏡は個人的には偉人だと思っています。

空海以前の古密教(雑密)の宗教家として、もっと評価しても良いのではないかと思います。

政敵に排除されたため、暗黒面が強調されますが、これはあくまで勝者の歴史です。

長文で申し訳ありませんが、補足です。

道鏡は仏教の修法を扱う事に優れていたのですが、これは山林修行を通じて会得したと言われています。

当時の僧侶は、山林もしくはもっと奥地で修行する事も度々で、教典を学ぶ一方で、修法を行ったりもする者もいた様です。

有名な空海も、唐に渡る前は、山岳で修行したと伝えられています。

先ほど、修験道の成立は平安時代末と言いましたが、実は、修験道の成立に関しては、二つの学説があります。

一つは五来重氏によるもので、奈良時代以前に遡らせるもの(原始宗教説)です。

この考え方は五来氏の言う「原始宗教」の内容が曖昧なため、五来氏の弟子を中心に支持されている学説です。

もう一つは、宮塚準氏による明快な修験道概念によるもので、仏教(密教)・道教・北方シャーマニズムなどの外来宗教の影響下に、平安時代末に宗教体系を形成したもので、山岳修行により神霊の力操る験力を会得し、これにより呪術的な活動をする修験者(山伏)を中心とした宗教と指摘する学説です。(時枝 務 2005『修験道の考古学的研究』雄山閣)

ちなみにこちらが現状では多数派の意見となります。

この考え方に従って質問者さんに解答するならば・・・道鏡は、古密教を代表する特に修法に卓越した僧侶と説明できます。

長文、失礼しました。


https://kokoro5888.wixsite.com/syugendou/blank-26  【修験密教の解説】

修験密教とは、結果を重視した方法を数多く収束した実践的な教えです。

つまり、修験密教の加持祈祷の修法を知り、それを実践する事で、すべての事柄の成果を顕わして行くことを目的としています。

加持祈祷の意義は、すべての悩み・災い・悪霊・病魔・を祓い幸福を求める人達に招き入れる修法です。

奥伝道総師である伝法阿闍梨道庭成心により日本古来の山岳信仰・修験道と密教、更に道教や儒教また古神道などの様々な宗派や教えの隔てを無くし、多くの秘密修法を数多く取り入れて、それを融合した実践的な教えで成果を重視した加持祈祷、それが修験密教です。

修験密教を体感体得することで、多くの不思議な体験と成果を上げる事が出来ます。

修験密教を早く理解して頂き、それぞれの分野で、宗旨宗派を超えた、神様、仏様の本当の御加護を頂き、日々の実践に活かせて頂ければ幸いです。そして、修験密教に関わる多くの方々が救われた行くことを願っています。

しかし秘法、秘術の教えで在るが為、ホームページ上などにも一部の限定した情報等しか載せることが出来ません。( あまり多くをの載せることが出来ません。) 秘密の教えは、代々受け継がれてきたもので、全ての様々な精神状態、レベルの状態の人が自由に見聞きし、教えを知ることは出来ません。

日本古来の山岳信仰と密教が結びついた教えです。

奥伝道総師 道庭成心より、教相奥伝授や事相奥伝授を中心に基礎的な知識から実践に至るまでの修験密教を 講伝致します。

修験密教は、神様・仏様の秘密の教えがほとんどです。

これを誰もが目に触れる機会がなかなかありません。ですから、何かチャンスがなければ知る事が出来ないのです。

その為には、人として人間としての、心構えが必要に成ります。素直な心で受け止めて行けば、おのずと答えが出てくるのです。知りたくても、知りえる事がなかなか出来無いことが、すぐに見えて来ます。

もし、それを知り体感体得すれば、不思議な奇跡的体験と成果を上げる事が出来るでしょう。そして、神様仏様があなたの願いを叶えて頂く事でしょう。

近年に於いては、専門的知識と実践を有する人が、減少にあるように思われます。

それ故に、加持祈祷の専門家の人達がほとんど見当たりません。

霊的存在の実性がかなりあいまいで、ほとんどの方が、理解に乏しく思われます。

一般の人達の中には、感覚的霊のお話がかなり好きな方々が多いようですが、それでは、なかなか良くなる成果は、現れて来ないと思われます。

聞くこともいいですが、良くなる為の加持祈祷を受けるか、修験密教を知って頂き、そして実践をして頂きたいと願っております。

ここでは、その秘密の加持祈祷の修法を開講しています。

神様・仏様のご縁があります様にお祈り致します。

修験密教は、加持祈祷の本筋を理解しそれを実践する事で、かなりの成果を上げることが出来ます。

修験密教を通じ、より多くの方々と日本古来なる正しい教えを、身近でかつ受け入れやすいそれを基にし融合された修験密教の加持祈祷により、私たちの悩みや、迷い、災い、悪霊、病魔、などの事柄を祓いのけ、修験密教に関わる人々の心や人生、生活を豊かに導いてくれる事でしょう。    修験総本庁 総代表 道庭成心


https://www.minyu-net.com/serial/hosomichi/FM20200203-456150.php 【【 出羽三山 】<涼しさやほの三か月の羽黒山> 天空の世界へ一歩一歩】 より

松尾芭蕉と河合曽良が、最上川を下るため船に乗り込んだ本合海(もとあいかい)(山形県新庄市。地名は以下山形県)周辺を地図で見ると、この川の「形」に、あきれる。いきなり3回90度曲がったかと思うと、船着き場跡あたりでは鋭角V字ターンする。「Z字」形なのである。

流れようとする川と、流すまいとする山が、何十万年もの間、壮絶にせめぎ合ってきた結果か。まるで神々の戦い。そう思い、記者は芭蕉らの後を追い、ほぼ真っすぐになった最上川の沿岸を西へ進んだ。

 「参拝」周到に準備

芭蕉たちが船でたどった現戸沢村あたりは、川に谷が深く削られ、両側の山がついたてのように続く。しかし、下船した清川(庄内町)から、狩川(同)にかけて景色が開けてきた。

清川は、かつて庄内藩領の入り口で、庄内平野の東のへり。西の方には平野と空が広がる。旅が新しいステージに突入した気分だ。このまま鶴岡、酒田へ真っすぐ行きたい誘惑に駆られるが、目指すは南。その方角を見ると山地が黒々と見えた。

1689(元禄2)年6月3日(陽暦7月19日)。芭蕉と曽良は、本合海から清川まで船で約20キロ移動した後、狩川経由で羽黒山麓の手向(とうげ)村(鶴岡市羽黒町手向)に向かった。目的は出羽三山への参拝である。

出羽三山は、羽黒山(414メートル)、月山(1984メートル)、湯殿山(1500メートル)の総称で、古くから現在まで修験道の道場だ。曽良の「日記」によると、二人は10日(陽暦7月26日)まで、この霊地にとどまり、うち、羽黒山の南谷で7泊、月山の山小屋で1泊した。

この参拝も、周到に準備されていたようだ。芭蕉たちは、まず羽黒山・出羽神社の門前町、手向で俳人である図司(ずし)左吉(染め物屋の主人・近藤左吉、俳号・呂丸(ろまる))を訪れ、彼を通して羽黒山の別当代(現地責任者)会覚(えかく)に面会を求めた(対面は4日)。この時、先方に提出した紹介状は、大石田で高野平右衛門(一栄)が書いたものだ。

準備のかいもあっただろう、芭蕉たちは羽黒山の中腹、南谷にある別当の別院(紫苑寺)を宿舎に借り、ていねいにもてなされた―と「おくのほそ道」(以下「ほそ道」)にある。

そして滞在2日目、早速、俳諧興行。この日、芭蕉が詠んだのが〈有難(ありがた)や雪をかほらす風の音〉ありがたい山の姿だ。ここ南谷には残雪を薫らせて心地よい風が吹いている、の意(「ほそ道」の句の原形。佐藤勝明訳を参考)だった。

 息も絶え絶えに

ここまでは、ごく普通の俳諧の風景。しかしこの後、かなり印象的な場面が展開する。三山を巡礼する登山である。

巡礼開始は5日。初日は、羽黒山で出羽神社に参拝した。月山へ向かったのは「ほそ道」では8日だが、「日記」では翌6日。好天の下、芭蕉たちは修験袈裟(げさ)を着て白木綿で頭を包む行者の姿で、南谷から8里(約32キロ)月山山頂に至る。この日は、山頂付近の小屋で1泊した。翌日は、月山から約4キロの湯殿山に詣でた後、来た道を南谷へ戻ったというから、1日で約40キロ移動している。

月山ビジターセンターの加藤一之解説員(60)は「月山の山頂付近はなだらかだが、湯殿山への途中が急で、金はしごが3カ所もある。ここをわらじで往復し帰って来たのはすごい体力」だと言う。

すごいのは、筆の方も同じである。天空の中に入るような心地で、夏も残る氷雪を踏みしめて歩く。息も絶え絶えに月山山頂にたどり着くと、ちょうど日が沈み月が現れる―と、標高約2000メートルの世界を俳文でダイナミックに描写し、句では〈雲の峰幾(いく)つ崩(くずれ)て月の山〉入道雲がいくつも湧いては崩れた後、月山は月に照らされている、の意―と鋭く切りとる。

見たことを語ってはいけない、と言われている湯殿山は〈語られぬ湯殿にぬらす袂(たもと)かな〉湯殿山の尊さに、涙で袂をぬらすことだ、の意―と詠んだ。

私見だが、この出羽三山の場面、明らかに「ほそ道」の中では異質である。行き交う太陽と月、湧き立つ雲をダイナミックに捉え、真夏の氷雪まで盛り込む。宇宙的で神秘的だ。「神がかり」なのだろうか。

三山の山塊は、尾花沢―山寺間では、巨大な島のように見える。芭蕉は、すでに山寺行きの時点で、出羽三山に魅入られていた気もする。

さて、記者も羽黒山までやって来た。雪で行けなくなる前にと、11月初旬のことだ。それも月山の8合目まで、県道を車で登ろうという魂胆だ。しかしである。県道の入り口が封鎖されていた。ビジターセンターの加藤さんによると、雪に備え数日前に全面封鎖されたとのこと。

準備不足の上に、楽をしようという心根に天罰が落ちたのか―と言うと「芭蕉も6合目までは馬で行きました」と加藤さん。まことに「憐愍(れんみん)の情こまやか」である。

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