道鏡

https://ameblo.jp/gogosyougi/entry-10924882107.html 【道鏡】 より

道鏡 700年 - 772年5月13日 生地 河内国 没地 下野国 宗派 法相宗 師 義淵

道鏡(どうきょう、文武天皇4年(700年)? - 宝亀3年4月7日(772年5月13日))は、奈良時代の法相宗の僧。物部氏の一族の弓削氏の出自で、弓削櫛麻呂の子。俗姓が弓削連であることから、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)とも呼ばれる。兄弟に弓削浄人。天智天皇の皇子である施基皇子の子とする異説もある。祈祷の力をもって王家に取り入って権力を握り、政治に容喙したことから、よく帝政ロシア末期の怪僧グリゴリー・ラスプーチンと対比される。

朝廷での出世

河内国若江郡(現在の大阪府八尾市)に生まれる。若年の頃、法相宗の高僧・義淵(ぎえん)の弟子となり、良弁(ろうべん)から梵語(サンスクリット語)を学ぶ。禅に通じていたことで知られており、これにより内道場(宮中の仏殿)に入ることを許され、禅師に列せられた。

天平宝字5年(761年)、平城宮改修のため都を一時近江国保良宮に移した際、病を患った孝謙上皇(後の称徳天皇)の傍に侍して看病して以来、その寵を受けることとなった。廃帝(淳仁天皇)は常にこれについて意見を述べたため、孝謙上皇と淳仁天皇とは相容れない関係となった。天平宝字7年(763年)に少僧都に任じられ、翌年天平宝字8年(764年)には藤原仲麻呂の乱で太政大臣の藤原仲麻呂が誅されたため太政大臣禅師に任ぜられた。翌年には法王となり、仏教の理念に基づいた政策を推進した。

道鏡が関与した政策は仏教関係の政策が中心であったとされているが、彼の後ろ盾を受けて弟の浄人は8年間で従二位大納言にまで昇進し、一門で五位以上の者は10人に達した。これが法体で政務に参与する事に対する反感も加わって藤原氏等の不満を高め確執することになる。

宇佐神託と左遷

大宰府の主神であった習宜阿曾麻呂は、偽って豊前国(大分県)の宇佐神宮より天皇の位を道鏡に譲れとの神託があったと道鏡に伝え、道鏡はこれを信じて皇位に就く志を抱くが、和気清麻呂が勅使として参向しこの神託が虚偽であることを上申したため、道鏡が皇位に就くことはなかった(宇佐八幡宮神託事件)。神護景雲4年(770年)に称徳天皇が病死すると、道鏡は葬礼の後も僥倖を頼み称徳天皇の御陵を守ったが、神護景雲4年8月21日、造下野薬師寺別当(下野国)を命ぜられて下向し、赴任地の下野国で没した。道鏡死去の報は、宝亀3年4月7日(772年5月13日)に下野国から光仁天皇に言上された。道鏡は長年の功労により刑罰を科されることは無かったが、親族(弓削浄人とその息子広方、広田、広津)4名が捕えられて土佐国に配流されている。(以上、続日本紀)

庶人として葬られたといい、龍興寺(栃木県下野市)境内に道鏡の墓と伝えられる塚がある。

孝謙天皇に寵愛されたことから、平安時代以降の学者によって天皇と姦通していたとする説や巨根説などが唱えられ、『日本霊異記』や『古事談』など、説話集の材料にされることも多い。この説は男性君主と比較し女性君主を尊ばない風潮と相まって永らく巷間に知られるところであったが、信頼の置ける一次史料で確認することはできない。

こうした説が流布された背景には、称徳天皇の崩御をもって天武天皇系の皇統が断絶して天智天皇系の皇統が復活したことから、天智天皇系の皇位継承を正当化するために天皇と道鏡を不当に貶めるためという指摘がある。また、道鏡が皇位を狙っていたという具体的な証拠も乏しく、左遷の時の理由に挙がってはいるものの、宇佐八幡神託事件などがあるにも関わらず、具体的な証拠として採用されていない。その左遷もあくまで「政治家から一般の僧侶に戻った」というに過ぎず、仮に女性と通じていたというなら、相手が天皇でなくても戒律を破ったとして僧職を剥奪されるはずである。このため、宇佐神宮の神託の内容が実際に皇位継承に関するものだったのか疑問視する意見や、皇位を継承させたがったのは称徳天皇の方ではないかという意見もある。

そのため、中立性に疑問が残る僅かな史料から安易に道鏡を批評するのは適当ではないとの指摘もある。

俗説

熊本市にある弓削神社には「道鏡が失脚した後この地を訪れて、そこで藤子姫という妖艶華麗な女性を見初めて夫婦となり、藤子姫の献身的なもてなしと交合よろしきをもって、あの大淫蕩をもって知られる道鏡法師がよき夫として安穏な日々を過ごした」との俗話がある。

道鏡の巨根伝説は根強く、江戸時代には「道鏡は すわるとひざが 三つでき」という川柳も詠まれた。また大阪・奈良の山中に生息する体長に比して非常に大きな交接器を持つオサムシの一種が「ドウキョウオサムシ」と命名されている。しかし、このような伝説については「道饗」と「道鏡」が混同され、道祖神と結びつけられたために成立した、という意見もある。

Q&A

umebatchiさん

道鏡と称徳天皇は男女の関係にあったんでしょうか?

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annodomini_op01さん

「男女関係が有った」という説も有る・・・というのが正しいでしょう。

特に江戸時代までは、二人が男女関係を持っていたと考える風潮が色濃く、それをネタにした川柳なんかも作られて庶民の笑いに供されたりしていました。

しかし、奈良・平安期のもので、二人の間に男女関係が有ったとする史料は、『日本霊異記』などの説話集のレベルだったりします。説話集というのは、「むかし話」でして、

「むかし話」というものは、これまた昔から勧善懲悪のお話を好むものです。

それは、逆に言うと失脚したり退治されたり、不幸になるような者には道徳的な落ち度が有ると考えるものです。

だから、「桃太郎」のオニは住民を襲っていると描かれる訳です。モデルであったろう史実では、むしろ桃太郎さんは朝廷が派遣した侵略者であり、オニは昔から吉備を統治していた王であったのに、です。

さて。そうすると、道鏡と称徳女帝の仲も、つまりは「むかし話」に書いてある事を歴史の真実と見るべきかという事になります。

ここで、正式な国史『続日本紀』を見ると、道鏡左遷の理由として、帝との姦通は挙げられず、しかも、法師の地位はそのままに、下野薬師寺別当(長官)になっています。下野薬師寺は天下三戒壇の一つです。僧侶に戒律を授ける格式の高いお寺なのです。なお、あとの二つは観世音寺(九州)と東大寺(奈良)。

そこの長官ですから、仏教界としてはかなりの高僧として扱われたポストです。これを考えると、はたして道鏡が帝と姦通していたのかは疑問です。よく考えたら、僧侶としての戒律に「女犯の禁止」がありますが、これを犯した人を戒壇のある寺の長官にはしませんよね、普通。

ところで、帝と道鏡の間に「性的ななにか」が有った事を窺わせる歴史書も有るには有ります『日本紀略』です。

これによると、道鏡が帝に「雑物」を差し出し、帝はこの「雑物」使用したら抜けなくなって、衰弱した。

一人の尼(女医)がこれを抜く方法を考案したが、藤原氏の手によって彼女は追放され、やがて帝は衰弱死した。

・・・そんな事が書いてあります。「雑物」をどう解釈するかですが、ここに性的な何かを感じる人も多いでしょう。

しかし、考えてみれば、道鏡と帝が男女関係にあったなら、「雑物」なんか使わなくても良い筈ですが。

私の私的な感想を述べるならば、男女関係は「無かった」が結論ですね。

>称徳天皇の死をもって天武天皇系の皇統が断絶して天智天皇系の皇統が復活した事から、

>天智天皇系の皇位継承を正当化するために天皇と道鏡を不当に貶めているのではという指摘もある。という、意見が有ります。なかなか壮大なスケールですし、道鏡問題をよく纏めています。『日本紀略』については無視しているのが、歴史屋としては気に入りませんが。御覧下さい。

candyealさん

道鏡の与えた影響 ※なるべく今日中にお願いします

道鏡は彼の時代の後にどのような影響を及ぼしたのでしょうか?

また、彼の歴史に果たした役割とは何だったのでしょうか?

ご教授お願いします。

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onia222さん

彼は称徳天皇の崩御により、薬師寺にて彼女を弔った。天智天皇以来の皇統が此処で一たん途絶えて、彼女の後を見る人がなかったからである。

彼はそれまで聖武天皇の手足となって、東大寺を中心とする国分寺と尼寺とを全国に張り巡らせ、大仏を建立して日本を仏教の教えと、それまでの日本の神道とをリンクさせて神仏習合の基礎を作り上げた。

だが称徳天皇の崩御により、薬師寺にて彼女を弔った。そして彼女の御魂を迎えるためにその方位に旅に出た。其処が下野薬師寺でした。

其の留守中に和気清麻呂などが復帰して讒言を唱え、彼を失脚させた。その結果、道鏡に世話になった寺院が殆どであったにも関わらず、恐れをなして道鏡に関する過去の一切を抹殺した物と思われます。

此れが何時の世も時勢の流れというものでしょう。

ttyh341さん

道鏡が皇室を乗っ取ることに成功していたらどうなっていたでしょうか?

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eiichikoisoさん

まず話の前提として、弓削道鏡が皇室を乗っ取ろうとしていた、という表現は、客観的に間違っています。

この件の中心はあくまで称徳女帝と藤原一族の確執であり、主導は称徳女帝で、道鏡は最初から最後まで受身の立場といえます。彼が積極的に「乗っ取ろう」とした、ということはありません。

聖武天皇の子のうち、藤原氏の母が産んだ唯一の子だった阿倍内親王は、女性の身で皇位につけられます。「孝謙天皇」です。女性天皇は「元皇后の未亡人」か「生涯独身」のどちらかと決まっています。

女帝は、自分を傀儡の天皇にして権力を維持しようとする、母(光明皇后)の実家・藤原一族のやり口に、ホトホト嫌気がさしていました。一旦は、母のお気に入り・藤原仲麻呂の庇護する親戚の男子に皇位を譲りますが(淳仁天皇)、母の死後、自分が再び天皇になり(このあとが称徳天皇)、仲麻呂を討伐して、滅ぼしてしまいます。

しかし、女帝の宿命で夫も子供もいませんから、いずれまた、誰かを指名して皇位を譲らなければなりません。

「どうせ皇位を譲るなら、次こそは藤原氏の操り人形になるしかないような軟弱な親戚ではなく、ホンモノの人格者に天皇になって欲しい」と考えるようになります。ある意味理想主義者、別の言い方をすれば潔癖症の女性だったのです。

その称徳女帝が「ほんものの人格者である」と考えたのが道鏡です。実際、道鏡は高潔で学識深い人物だったようで、とはいえこれは昔のことですから推測するだけですが。少なくとも、女帝がそう信じていたのは確かです。

つまり、道鏡のほうが皇位を狙っていたのではなく、称徳女帝が道鏡に「白羽の矢を立てた」のです。道鏡がそれを積極的に望んだわけではありません、おそらく。

称徳はこのころ、自らを「天皇」ではなく「皇帝」と称することが多くなります。「天皇」はアマテラスの子孫しかなれませんが、中国流の「皇帝」であれば「徳さえあれば誰でもなれる」からです(概念的には、ですよ、実際は力ずくで中国全土を征服すれば皇帝になれるということですけど、それも「徳があったからだ」ということになるんです)。

従って、「皇帝」と称するのは、血縁のないものに皇位を「禅譲」したいと考えている証拠なのです。天武天皇の子孫にあたる皇族男子はそれなりにたくさんいたものの、みんな藤原氏と血が繋がっており、藤原の息のかかっていない者はいません。それじゃあダメだ、藤原に操られずちゃんとした政治ができる人物に位を譲らなきゃダメだ、と称徳女帝は考えていたのです。

結果として、藤原勢力の猛反発にあって道鏡は排除されます。あたかも道鏡は「ラスプーチンのような大悪党」であるかのように宣伝されてしまったのです。

道鏡と称徳に男女関係があったかのように言うのは、もちろんデマです・・・って、大昔のことですから断言できることではありませんが、状況証拠からして可能性は極めて低いです。「下半身スキャンダル」をでっちあげるのは、こういうときの勝者の常套手段なのです。男が書き男が読む歴史では、「女は愚か」という話のほうが俗受けするからだ、とういうのは繰り返し述べたとおりです。

もし称徳から道鏡への「禅譲」が実現していたら、どうなっていたか。「弓削王朝」が成立し、彼の子孫が代々天皇になっていたかといえば、それはありえません。道鏡は僧侶ですから妻帯していませんし子孫はいません(繰り返しますが、彼は生臭エセ坊主ではありません、きちんとした有徳の僧です)。いずれまた血縁のない有徳者を誰か捜して皇帝を継がせることになります(そうなると分っているからこそ、称徳は道鏡を指名したのです)。その後継者も、おそらく子供のいない高僧になるでしょう。そうやって代々、「世襲ではなく、有徳者が一代限りで皇位に着く」というふうに日本が続いていくことになるかも知れませんが、その場合は「権力基盤を蓄積する」ということができないわけですから、日本の皇帝は完全に飾り物、名誉職になってしまっていたと思われます。称徳女帝の意図とはまったく逆に、藤原氏専横の時代がもっと早く来る、というのが客観的に妥当な推理でしょう。