金精峠に道鏡の巨根伝説を追う:下野編2

https://kachovisual.com/tabi_yukeba/2008/2008_0614_ShimotsukeYakushiji/2008_0614_01.html 【金精峠に道鏡の巨根伝説を追う:下野編2 (その1)】 より

今回は道鏡の下野国に左遷されて以降の足跡をたどりますヽ(・∀・)ノ

今年は金精神のルーツ=道鏡を追いかけて終わってしまいそうな感があるのだけれど(取材=6月、記事を書いているのが11月 ^0^;)、まあ気にしないで進めてみよう。取材したのは称徳天皇崩御の後に道鏡が左遷された下野薬師寺の周辺である。まずは地図ばかりが連続するが少々我慢してお付き合い願いたい。

さて770年8月17日、称徳天皇の大葬礼が行われ、その4日後に道鏡は失脚した。きっかけは坂上大忌寸苅田麻呂による "姦謀発覚す" の密告であり、道鏡は弁明の機会もなく即日下野国の薬師寺別当として飛ばされてしまう。奈良の都は称徳帝の血統から100年以上も前に分かれた傍流(天智天皇系)の光仁天皇と、その背後にいる藤原永手/藤原百川らの手に落ち、天武系の皇統は称徳天皇を最後に途絶えた。これ以降の日本史は天智天皇の血統と藤原氏によって紡がれていくことになる。

左遷された道鏡が下野国に下向する際に通ったのは、当時の官道である東山道と推察される。平城京から東日本側の主に内陸部を通って奥州にまで続く公道で、下野国府までの旅程は15~30日程度(携行する荷物の多少によって差を生じた)であったと思われる。道鏡が通ったであろう旧暦8月下旬~9月上旬は現在の太陽暦でいえば10月に相当するため、道中は紅葉を見ながらの旅路になったことだろう。

道鏡が下向した770年当時の東山道は、武蔵国(現在の府中に国府があった)が東山道に属していたために、新田駅から大きく南下して武蔵国に至り、ほぼ同じ街道を引き返してきて足利駅を経由して下野国府に至るという変則的なルートが本道とされていた。これでは不便なので翌年、武蔵国を東海道に組み替えて、新田-足利を直結する措置がとられているが、道鏡がこの回り道を馬鹿正直?(^^;)に進んだのかは定かではない。

ちなみに左遷とはいえ、道鏡は一人でトボトボと歩いて下向したわけではなかった。官位はすべて剥奪されていたものの、下野薬師寺別当の職といえば仏教僧としてはそれなりの地位であり、幾人もの従者を従え中級貴族程度の体裁は整えたうえでの下向であった。

■下野薬師寺跡

その薬師寺は、現在は自治医科大学に隣接する水田地帯にその痕跡を残している。

クルマ一台がようやく通れるくらいの路地の奥に、史跡 「下野薬師寺跡」 が整備されている。古代の下野国を代表する遺跡として現在も発掘調査が行われており、隣接して資料館も建っている。この付近の地名はそのものずばり "薬師寺" である。こういうストレートな地名はわかりやすくて好感がもてる(笑)

復元作業も多少は行われているようだが、現状では回廊の礎石の並びが一部再現されている程度である。奥側に見えるのは回廊の建物の一部を再現した部分だが、長さは10m程度といたってささやかな規模だ。

公園の体裁で整備されている南西側の一角には、下野薬師寺の全体像をタイルで表現したモニュメントがあった。

縮尺が入っていないので多少分かりにくいが、この寺院の敷地は南北350mX東西250mほどもある。サッカーのワールドカップ公式試合が10面以上同時開催できる程度の広さで、もちろん地方の寺院としては破格の規模である。ここに封田として500ha(→寺の敷地の約55倍)ほどの水田が付き、そこから収穫される米が寺の経済を支えていた。

資料館で許可をいただいて模型の写真を撮らせていただいた。こうして立体化すると寺の構造がよくわかる。公園化して礎石が並んでいるのは内側の回廊の左端の部分である。塔は一基のみだが、基礎部分の一辺が12m、高さは推定で30m以上あったとみられており、まだ縄文の風景を色濃く残す地方においては異彩を放つ建築であったと思われる。

なお写真にみえる一塔三金堂という形式は発掘調査の結果2005年になって明らかになった構造で、国内では他に奈良の飛鳥寺を数えるのみという珍しいものらしい。下野薬師寺の成立には藤原不比等と同時期に活躍した有力貴族:下毛野朝臣古麻呂(下野国造で河内郡付近を治めていた)の影響が大きい。

※下毛野朝臣古麻呂は藤原不比等とともに大宝律令の制定にも関わっており、古代下野国にあっては非常にメジャーな人物である。…が、悲しいことに学校の歴史教育でお目にかかることはまず無い。なんだかなぁ。

さてこれが唯一復元されている回廊の一部である。大陸的な雰囲気があり、東大寺大仏殿の周囲を囲っていた回廊と構造がよく似ている。この時代のスタンダードな様式なのだろうな・・・

こちらは草地の中に残る五重塔の跡。遺構発掘調査の後は埋め戻して保存されている。創建当時の塔は内側の回廊内にあったとする説もあるが、まだ実際の遺構は発見されていないようだ。

現在、旧薬師寺の中心部を継承しているのは安国寺である。周辺は宅地や田畑に侵食されて寺域はずいぶん小さくなっているが、その歴史は長い。安国寺とは足利尊氏が鎌倉幕府を倒したのち、かつての国分寺に倣って天下太平を祈願し全国に配した寺院である。下野国にあっては先行する大寺院として下野薬師寺があったことから、これを改称して安国寺とした。つまり由緒としては直継である。

安国寺として改称した当時はまだ創建時の伽藍配置が保たれていたようが、のちに戦国時代に入って1570年、北条氏政による兵火によって主要な建物が失われ、今日に至る。北条氏政は小田原を本拠地にする戦国大名で、戦国末期に関東の主要地域を支配し最大版図を築いたのち、豊臣秀吉による小田原攻めで滅亡している。…が、そのあたりを調べだすと長いので今回は端折っておこう。

さて下野薬師寺の重要な機能としては戒壇がある。僧侶に受戒の儀を執り行う、当時の日本に3箇所しかない施設である。現在は戒壇院の建物は失われているが、同じ場所に建つ六角堂(釈迦堂)がその痕跡をいまに留めている。道鏡はこの 「東の戒壇」 の総責任者としての立場で下野薬師寺に入ったのであった。

ちなみに当時の三戒壇の受け持ち区分は↑このような分担である。ただし道鏡の時代にあっては朝廷の東北支配は不完全であり、下野薬師寺の勢力圏は実質的に関八州と陸奥国南部(福島県~宮城県の一部)程度ではなかったか…と筆者は想像している。(※坂上 田村麻呂による東北遠征はまだ30年ほども先のことである)

なお僧の受戒の儀は3年に1度と定められ、下野薬師寺にあっては三師七証ではなく、略式として三師二証(辺国之式)でよいとされた。儀式に先立って試験とか予備審査があったかどうかはよくわからない。ただし3年に一度しか機会がないというのは相当に厳しい選抜条件だったといえる。

鑑真が整備した戒壇はここ下野薬師寺においては761年から稼動し、そこから3年おきに4月15日頃に受戒の儀が行われている。そうすると受戒の儀の開催は764、767、770、773年・・・となるが、これを道鏡の在籍期間(770年9月~772年4月没)と重ねると、実は道鏡本人は受戒の儀に立ち会う機会がなかった、ということになりそうだ。

人の寿命は神のみぞ知る…と言ってしまえばそれまでなのだけれど、せっかく東国を代表する戒壇院に赴任しながら最後の一花を咲かせる機会に恵まれなかったとするなら、多少の同情は禁じえない。

■薬師寺郷八幡宮

下野薬師寺の敷地の東端、五重塔の遺構の先に、八幡宮が鎮座しているので行ってみた。もとは下野薬師寺の寺内社であったらしいが、建立は貞観17年(875年)というから道鏡の死後1世紀ほど後のことであり、道鏡存命時代とはズレがある。

由緒としては源頼義と関係が深く、現在の社殿は江戸期初期に佐竹氏が寄進したものである。

それが今回のテーマとどんな関係があるかというと、この末社に大いに関係があるのである。

なんと、ここにも金精神社が堂々と鎮座ましましている。そればかりか、八幡神の金精様なるものまで祀られている。神をも畏れぬ所業というか…もはや落語のようなノリすら感じてしまいそうだけれど…(^ω^;)

これが、その金精様である。右の小型のものが八幡様、左のひときわ立派なほうが道鏡の金精様のようだ。これはなかなか恐れ入る(^^;)

奈良編で考察したように、道鏡の巨根説が面白可笑しく吹聴されていくのは鎌倉期あたりからと思われるのだが、やはりこの八幡宮もその軸線上にあるのだろうか。道鏡の存命期あるいはその直後といった時期ではなく、当時を知るものがいなくなってから、伝説上の存在として神格化され御利益とむすびついていく…。ここには、どうやらそんな過程がみえているような気がしてならない(^^;)。


https://kachovisual.com/tabi_yukeba/2008/2008_0614_ShimotsukeYakushiji/2008_0614_02.html 【金精峠に道鏡の巨根伝説を追う:下野編2 (その2)】 より

■龍興寺

次に向かったのは龍興寺である。下野薬師寺から500mほど南下すると、今ではすっかり路地裏道となってしまった古道の奥にその境内がみえてくる。ここも道鏡とその周辺事情を考察する上では欠かせないスポットである。

龍興寺は、下野薬師寺の別院であり、その創建は680年と下野薬師寺と同時期にまで遡る。建立の勅を出したのは天武天皇であり、奈良時代を経て一通りの伽藍の整備をみた。そののち761年にはかの鑑真和上が下野薬師寺の戒壇院設立にあたり、唐:揚州龍興寺の舎那殿壇の法をこの寺に伝え、寺の名も生雲山龍興寺と改称した。

揚州の龍興寺といってもピンと来ないかもしれないが、これは鑑真が日本に渡航する前に在籍していた唐の名刹であり、当時一流の学府である。鑑真はここで仏教を学んだ後、洛陽、長安を巡って律宗を修め、日本僧栄叡、普照に来日を請われたときは大明寺で律を講じていたのであるが、僧としての籍はずっと龍興寺のままであった。

その出身母体である寺の秘伝を直々に伝え、寺の名前も継がせたところからみて、鑑真の意気込みは只事ではない。単なる寺院整備の域から一歩踏み込んで、仏教知識の一大集積場としての性格をこの寺院に込めていたように思われる。

ちなみにその鑑真の魂を受け継いだ下野国戒壇第一期生に、日光開山の祖、勝道上人がいる。戒壇の稼動した761年から4年間、この龍興寺にて修行をし、道鏡が下野薬師寺に赴任してきた770年頃には日光:男体山に不屈の闘魂で波状アタックをかけている。山を降りて寺に戻った時には道鏡ともなんらかの接触があったもしれないが、残念ながら詳細な記録は残っていない。

さてこれが龍興寺の入り口である。天平風を思わせる山門が特徴的なこの古刹は、本院である下野薬師寺と対になってその栄枯盛衰を共にしてきた。ただし現在の敷地は創建時からかなり削りこまれて、数分の1以下に縮小している。

山門を入るとすぐに本堂がみえる。現在の本堂は安政7年(1860)の築で、建物の向きからすると江戸末期には既に現在のような敷地状況だったと思われる。

現在の山門、本堂は西を向いているが、オリジナルの山門は南側(写真では右側)にあり、現在は薬師寺小学校となっている部分を越えて100m以上先にあった。さらに現在の山門を越えて西側200mほどのところに二月堂があり、それらの配置から類推すると、往時の寺の敷地面積は下野薬師寺に準ずる広さがあったようだ。

本院/別院の役割分担がどうなっていたのかはよく分からないが、勝道上人の事例から類推するに、下野薬師寺が戒壇院(試験センター?)なら龍興寺は学僧のための図書館兼学生寮のような役割分担だったのかもしれない(ただしこれは単なる想像である)。

しかしかつての大伽藍も、やはり下野薬師寺と同様に戦国末期、北条氏政による兵火で灰燼に帰し、往時の建物は残っていない (それにしても本当に文化財破壊魔だな、北条氏政って… -_-;)。 この付近が戦国の兵火にたびたび遭ったのは、ここが上杉/佐竹/北条の各勢力の境界付近にあたり争奪戦が激しかったためだが、話が逸れるのでここでは詳細を割愛する。

さて前振りが長かったが、ここで道鏡の話に戻ろう。

兵火に遭っていったんは焼失した龍興寺だったが、その境内には火災を免れて現代に伝わっている史跡がある。それは、道鏡塚である。筆者は今回、これを見たくてこの寺にやってきたのであった。

さて772年4月7日、かつて法王とまで呼ばれた高僧、弓削道鏡はここ下野の地で生涯を閉じた。続日本紀には 「死以庶人葬之」 (死して庶民として之を葬る)と書かれているのだが、現代に伝わっている道鏡塚は庶民の墓とは随分様相が違う。

これがその道教塚である。

案内板の後ろにある古い墓石をそれだと勘違いしてしまう気の早い(?)方もいるようだが、背後にある直径30mほどの小山が塚の本体である。形状としては円墳で、規模といい、形状といい、筆者は奈良で見た鑑真の墓にそっくりな印象を持った。これはどう見ても貴人の墓所で、続日本紀の記述とは矛盾している。

これを見る限りどうも道鏡は世間で思われているほど失意の日々を送った訳でも、寂しい最後を遂げた訳でもなさそうに思えてくる。それなりに丁重な扱いを受けているように見えるではないか・・・(´・ω・`)

ここで少し考察してみたい。まず状況整理のために、鑑真と道鏡の没年前後の出来事を年表風にまとめてみると次のようになる(日付は旧暦による)。

【761年】

・鑑真、下野薬師寺に戒壇を設置(第一回の受戒の儀)

・鑑真、下野薬師寺別院に秘伝を伝授、自身の出身寺 "龍興寺"の名を継がせる

【763年】

・鑑真死去

【764年】

・藤原仲麻呂の乱。これ以降、称徳(孝謙)天皇と道鏡が政権中枢を握る

【770年】

・8月17日:称徳(孝謙)天皇大葬礼

・8月21日:坂上大忌寸苅田麻呂の密告により、道鏡、下野薬師寺に左遷

・9月某日:道鏡、下野薬師寺に入る

【772年】

・4月7日:道鏡死去 (朝廷には庶民として葬ったと報告)

二人の没年の差は9年。近親者/関係者が世代交代してしまうほどの時間差ではない。2人の葬儀/墓所造営に共通に関わった者がいれば、同じ思想でそっくりのものを造営することは容易だろう。…が、これは探すまでもない。

あまり歴史ミステリー仕立てにして引っ張っても仕方がないので筆者的な推論をさっさと書いてしまうが(笑)、2人に共通の関係者で、かつ墓所造営に関わりが深いのは、ずばり下野薬師寺/龍興寺の僧たちだったと筆者は考えている。あるいはもっと広範囲に "鑑真チルドレン" としての仏教勢力と捉えても良いかもしれない。

残念ながら鑑真に最も詳しい唐大和上東征伝(779:淡海三船 ※)をみても、葬儀参列者や陵墓造営についての記述はなく、下野薬師寺/龍興寺の関与の様子はわからない。しかしこれら二寺は鑑真最晩年の仕事の結晶であり、その僧職たちは当然、唐招提寺まで上って師の葬儀、陵墓造営に深く関わった筈である (…常識的に、いくらなんでも師匠の葬式をスルーはしないだろう ^^;)。

※鑑真の墓所に関する遺言としては "戒壇院に於いて別に影堂を立てよ、旧住の坊は僧に与えて住わせよ" とある程度である。

やがて7年後、都を追われたかつての法王、道鏡が下野薬師寺別当として赴任してくる。政争に敗れたとはいえ、この時点では道鏡の悪評のようなものは定着しておらず、下野薬師寺では敬意をもって迎えられたと思われる。特に下野薬師寺/龍興寺は天武天皇の勅により創建された歴史をもち、道鏡の仕えた孝謙(称徳)天皇も天武天皇の血統であったことから浅からぬ縁がある。そしていずれも鑑真を通じて共通の思想的/知識的なバックボーンをもっていた。

一方、これら二寺は新しく皇位を継いだ光仁天皇とはほとんど接点を持たなかった。光仁天皇は久しぶりに復活した天智天皇の血統であり、東大寺大仏建立をはじめとする奈良時代の仏教振興路線(主に天武系の聖武/孝謙天皇による)には関与していない。光仁天皇の代に入るとこの仏教重視路線は大幅に見直され、政教分離が図られるようになった。これは寺社勢力にとっては痛手であり、あまり面白い状況ではなかったことだろう。

なんだかわからん、という方のために当時の状況をものすご~く単純化した図にすると↑このようになる。下野薬師寺/龍興寺は天武天皇系の皇統のもとで建立、整備されてきた寺院であり、鑑真、孝謙天皇を媒介して道鏡ともつながっている。仏教に冷たい光仁天皇よりは親仏教路線だった孝謙(称徳)天皇側に近い立ち位置にあって、そのような背景のもとに、左遷された道鏡を受け入れているのである。

そして在籍1年半にて道鏡が没すると、鑑真とほぼ同規模、同形式の墓がここに造営された。それはもちろん下野薬師寺と別院:龍興寺によるものである。皇位を狙った罪人としてではなく、貴人に対する礼をもっての待遇であった。

…多少の妄想?も入っているが、おそらく実態はこんなところではないだろうか。朝廷には体裁よく 「庶民として葬った」 と報告しておき、光仁天皇とその側近も失脚した者の墓などいちいち改めなかったとすれば、史料と現場の相違について筆者としてはそれなりに合点がいく。

さて一方ではこのとき、光仁天皇は自身の皇位継承を正当化するためにウリナラ的ともいえる歴史の書き換えを試みている。続日本紀は道鏡失脚時には前半30巻までが編纂されていて文武天皇~孝謙天皇の治世までが記載されていたが、光仁天皇は淡海三船、石川名足、当麻永嗣らの官吏に命じて内容を修正させようとした。

書き換えの対象となったのは先代の孝謙天皇排除を狙った橘奈良麻呂の乱(天平宝字元年:749年)の前後であった。橘奈良麻呂の乱は朝廷内400名以上が連座して処分された大事件であり、書かれてはまずいこと=陰謀に加担したことであるから、実にわかりやすい書き換え意図ではある(^^;)。

しかし結局、当時を知る人々がまだ多数存命したことから書き換えは思うに任せず、議論は紛糾し結局 「天平宝字元年紀」 の部分が "まるごと紛失" するという不可解な決着をもって事態が治まった。最終的に続日本紀の前半部が編纂終了するのは次代の桓武天皇の治世であるが、巻数は20巻と縮小されての刊行となった。何がどう削られたのかは不明である。

さて道教塚の案内板をみると、奈良西大寺でみた "道鏡を守る会" がここでも静かな主張を掲げていた。

筆者はこの会とは何の接点もなく、調査の切り口(…なにしろ金精様だし ^^;)も辿っているルートもまったく違うのだけれど、道鏡という人物に対する印象としては似たような所感を持ちつつある。…というか、真面目に調べだすと結局こういう結論にならざるを得ないと思うのだけどなぁ。

さて境内を出て、狭い通りを隔てた墓地領域に入ってみた。

菩提樹が植えてあったので近づいてみると、非常に目立たないのだけれど鑑真和上の碑をみつけた。隣接して勝道上人の碑もある。道鏡の墓とくらべて随分扱いが小さいような気もするが、碑の状況から察するにこれは近世、江戸期以降の作のようで、要するに寺の勢力がガタ落ちになってから作られたもののようだ。

かつて広大な寺領を誇った古刹も、王朝時代が去り、新仏教各派との競争にさらされ、さらには戦国の兵火で灰燼に帰した後は、規模を縮小し細々と存続するしかなかった。正史における歴史的評価が高いのは明らかに鑑真や勝道のほうだと思うのだけれど、実際に残る史跡として最も大きいものが最古期に造られた道鏡の墓というのが、なんとも不思議な感じがする。

https://kachovisual.com/tabi_yukeba/2008/2008_0614_ShimotsukeYakushiji/2008_0614_03.html 【金精峠に道鏡の巨根伝説を追う:下野編2 (その3)】 より

■孝謙天皇神社

さて下野薬師寺の周辺には、道鏡と対になって語られることの多い孝謙(称徳)天皇についても関連性の深い史跡が伝わっている。"称徳天皇" ではなく "孝謙天皇" の称号が使われているのは、正史である続日本紀において称徳(旧字体では稱徳)天皇との記載が実は1箇所もなく、"宝字稱徳孝謙皇帝" との表記が多いことに由来するのかも知れない。あるいは道鏡とのラブロマンスとともに語られることが多いので、保良宮で道鏡と出会ったときの孝謙上皇の称号から、孝謙天皇との呼称が好まれたのかもしれないが、真相はよくわからない。

下野薬師寺から北西に約5km走るとJR石橋駅に至り、そこからさらに西に向かって2kmほど進むと石橋中学校が見えてくる。その手前の十字路脇にこんもりと茂った小さな杜があり、ささやかな鳥居が建っているのがわかる。

ここが、孝謙天皇神社である。

伝説では、配流された道鏡を哀れんで(あるいは慕って)この地まで追ってきた孝謙天皇が病没して祀られたとする言い伝えもあるが、それは史実に照らして有り得ない。

ただしもうひとつ別の伝説もあり、それによると道鏡とともに孝謙天皇に使えていた高級女官、篠姫、笹姫がやはり下野国に配流となり、もう二度と都には戻れないと悟って女帝の御陵より分骨 (※奈良時代には既に火葬が導入されているが、あるいは墳墓の土をもってきたという説も) して頂き、銅製の舎利筒に収めて持ってきたという。当初はそれを西光寺という寺に安置し供養していたが、後に廃寺となったので村人がその舎利筒を御神体として孝謙天皇神社を建立したという。こちらの伝承はそれなりに辻褄が合っており、いかにもありそうな話だ。

ただし現在に伝わる御神体は五輪塔(法要のときのみ公開)であって、舎利塔ではない。

本当に孝謙天皇の遺骨が伝わっているとすれば大変なことである。しかしいまのところ伝承は伝承として取り扱われており、宮内庁も特になにかをしている訳ではなさそうだ。そんな訳で、ここを管理しているのはあくまでも地元の方々である。旧家五家が輪番で担当し、清掃や草刈り、社殿の補修等をしているらしい。

※お世辞ではなく、非常に小奇麗に管理されていて少々驚くほどである ヽ(・∀・)ノ

社殿の内部をのぞくと小さな神棚がひとつ。ただし社殿の奥側一坪ほどが見えないようになっており、どうやらそこが御神体の鎮座場所のようだった。まあ、覗き趣味はほどほどにして、御神体はそっとしておこうか…(^^;)

さて裏側にまわってみた。拝殿裏の本殿にあたる位置には、墓標を模した石塔が建っており、"孝謙天皇" と刻まれている。見れば石塔は風化する度に代替わりしてきたようで、石柵の内側に2基(先代と先々代?)、周辺にも既に原型を留めないようなものも含めていくつか古い残骸が散見された。現在の石塔は明治13年の作とある。

こちらが先代?と思われる風化した石塔である。もはやボロボロで文字が彫られていたかどうかもわからない。明治13年作の現在の石柱(=127年前)の風化具合と比較して、400~500年くらいは遡りそうかなぁ…。とはいえ、材質によっても風化の度合いは違うだろうから、あまり断定的なことを言うのはやめておこう。

ところで伝承にある篠姫、笹姫の墓はここから南に500mほど行った付近に戦前まで保存されていたという。篠塚、笹塚と呼ばれていたそうだが、残念ながら現在は失われている。せっかくなので痕跡が残っていないか探してみたのだけれど、筆者には見つけられなかった。うーん、残念。

・・・それにしても、篠姫、笹姫のエピソードから伺えるのは、貴人が一人失脚するとそれに付随して周辺の人々もまた同じく配流の道を歩むという連座の鎖の長さだろうか。

実をいえばこの地の周辺には、道鏡に同伴してきた者が○○に住み着いた、とされる伝承がいくつも伝わっている。別に道鏡の事例だったから特別な何かがあったというわけではなく、都に戻ったところで希望を見出せない人たちが、自らの選択で地方に土着していく…という流れの走りが、このあたりから垣間見れそうに思われた。

余談になるが、この "都から地方へ" という人の流れは、中堅~下級の貴族層を中心に、この後200年ほどの間に大いに加速していくことになる。理由は、藤原氏一強時代の到来である。

飛鳥~奈良時代には、蘇我、物部、巨勢、平群、橘、安倍、大伴、藤原、多治比、紀、石川…など有力貴族だけでも多数の家系が存在し、朝廷の高級官職は1家系で1人が代表して就くなどの暗黙の分配ルールがあった。しかし道鏡登場の前後から主要官職を藤原氏が独占する傾向が強まり(→だからこそ藤原仲麻呂は周囲の反感を買ったのだが)、時代が下って平安中期以降になると政権中枢の権力争いは藤原氏内部での抗争が主流になってしまう。

奈良時代末期~平安時代初期は藤原氏は南家/北家/式家/京家の四家で抗争を続け、やがて北家が独占的な地位を築くと、さらにこれが近衛家/鷹司家/九条家/二条家/一条家に分かれていく。これがいわゆる五摂家で、それ以外にも傍流の家系として三条家/四条家/西園寺家/閑院家/勧修寺家/花山院家/御子左家/日野家/中御門家…などが並び立った。そこらじゅう藤原だらけなので皆途中から姓を名乗らなくなってしまい、分家した家の名前で識別するようになったのは、まあ御愛嬌といったところだろうか( ̄▽ ̄)。しかし字面(じづら)だけ見ていると気が付かないのだが、ネズミ算式に増殖したこの連中は全員 「藤原一族」 なのである。

このような潮流のなか、奈良時代末期頃からの中央政界は、次第に中堅以下の貴族にとってほとんど出る幕のない寂しい舞台となっていった。藤原氏以外で官職に就いた勢力としては平安中期に源氏、平氏などが出現してくるが、これらは臣籍降下した皇族が出自なので中堅以下の貴族には関係がない。

・・・このような背景から、朝廷での役職にあぶれて居場所のなくなった貴族たちは、自ら進んで地方に下向し、地方の有力豪族などと婚姻関係を結んで土着していく道を選んでいくのである。のちに彼らは武士となって歴史に再登場してくるのだが、その源流にあるのは奈良朝末期の 「藤原氏と天智天皇系皇族との結びつき」 であり、やはり道鏡の時代がターニングポイントになっている。

・・・それにしても、たかが金精神のルーツと侮るなかれ。案外、こんな切り口でも日本史の骨太な流れを読み解くことができてしまうんだなぁ…!! ヽ(・∀・)ノ

■高?神社

さて本日最後の取材先は、宇都宮市石那田の高?神社である。常用漢字でないせいかIEでは 「高?神社」 と表記されてしまい正式な名前が表記できないが、当て字は↑のようになる。(表示不能では困るので、ここではGoogle Mapに合わせて 高龍神社 としておこう)

ここは宇都宮市の領域ではあるが日光宇都宮道路の徳次郎ICと大沢ICの中間ほどの位置であり、ほぼ日光口といってよい地理にある。それが道鏡とどんな関係があるかといと、日照りが続いて困っていた農民を助けるため、道鏡が雨乞いの儀式を行って見事雨を降らせたとする伝説が残っているのである。

場所は、果樹園と水田の混在する丘陵地・・・鬱蒼と茂った林の奥である。もう日が暮れてあたりには誰もいない。由緒書きくらいあってもよさそうなのに、それもないのでちょっと困ってしまった…(^^;) 聞き込み取材を考えるともうちょっと時間配分を考えればよかったかな。

道鏡の雨乞い伝承については、さきの龍興寺の境内にも竜王(雨を司る神=竜神)を祀る古田ヶ池というのがあり、やはり雨乞いの池として知られている。実際に道鏡が雨乞いの祈祷を行ったかどうか公式な記録は見つからなかったが、口伝を重ねる間の習合逸話と考えてもちょっと面白い。

道鏡のイメージはある時点から巨根伝説の勢いが臨界点を越えて急速に悪化していくのだけれど、この伝説は道鏡をヒーローとして扱っているので、案外出自は古いのかもしれない。根拠になる資料があるわけではないのだが、筆者的なフィーリングでは平安時代のかなり早い時期であればこのような伝説が成立してもおかしくはないだろうと思う。

道鏡が平城京を追われて下野薬師寺に入ってから死去するまでの期間は、わずか1年半である。たったそれだけの期間の滞在ではあったが、民話/伝承や神社仏閣の由緒などの合間に1200年もの間、記憶が残っている。これは結構、凄いことである。

そして、そんな土地で過ごした彼の最晩年は、政敵に囲まれていた法王時代と異なり、案外穏やかな日々だったのではないか。…ふとそんなことを思ってみた。

・・・さて、次回はいよいよ最終回である。タイトルにもなっている金精峠に登り、これまでの取材結果をまとめてみたい。誰も期待していないだろうけれど、とりあえず研究を始めたからにはオチはつけなければ♪ (^0^)ノ